第 4 章 道徳性の根拠と理性的人格の道徳的アイデンティティ 136
4.3 理性的人格の道徳的アイデンティティ
ロールズの「実質的理論」(Rawls 1971b, 51)のもとでいえば、「なぜ道徳的であるべき か」という問いは、「私たちの道徳的経験や判断」(cf. Rawls 1971b, 46, Rawls 2000, 240,
Rawls 1989b, 514)から出発する「反省的均衡」の方法において、以下の三つの次元で解
答される。
この問いは第一に、「正義の諸原理」と呼ばれる「道徳規範」を構成し、正当化するこ とで解答される。第二に、「公正としての正義」をあらわす「原初状態」を再構成するこ とで、すなわち、相互性と一般性の「正当化の基準」を根底にもつ「道徳的観点」を再構 成することで解答される。最後に、この「道徳的観点」を採用する理性的人格の「道徳的 人格」としての「自己理解」を再構成することで解答される。それゆえ反省的均衡の方法 は、「なぜ道徳的であるべきか」という「道徳性の根拠」への問いに、三つの次元で解答
(8)「理性の自律」のもとで「自律的道徳性」を根拠づけるためにヘンリッヒの「道徳的洞察」の観念を用い ることについては、「道徳的自律と道徳の自律(Moralische Autonomie und Autonomie der Moral)」と題さ れたフォルストの2004年の論文に負っている(cf. Forst 2004)。
(9)理由が、その本性において公共的であることを指摘するコースガードの議論については、次節で考察する。
するこころみと理解される。
第三の次元の解答に関していえば、コースガードが指摘するように、「理由」は、そ の本性において「公共的」である (Korsgaard 1996, 134-135)。だが「規範性の問い」は、
「一人称的な問い」である (Korsgaard 1996, 16)。「なぜ道徳的であるべきか」は、「道徳 が命じることを実際に行わなければならない道徳的行為主体に対して生じる問いである」
(Korsgaard 1996, 16)からである。それゆえ「私たち」の「道徳的人格」としての「自己理
解」、つまり「道徳的アイデンティティ」の再構成によって、「道徳性の根拠」への問いが 解答されなければならない。
そして、ロールズの実質的理論の形式的理論としての再構成のこころみは、「なぜ道徳 的であるべきか」という「道徳性の根拠」への問いに、第二と第三の次元のもとで解答す る。この再構成においては、「なぜ道徳的であるべきか」という問いの第一の次元におけ る解答は、「正当化の原理」のもとで行われる個人やひとびとの論証実践にゆだねられる。
それゆえ以下で考察されなければならないのは、「なぜ道徳的であるべきか」という問い の第二と第三の次元における解答である(10)。
むろん、道徳性の無条件的基盤を「具体的他者」(Benhabib 1985)としての他のひとび とに求め、「正当化の原理」を「経験的理論の枠組み」(Rawls 1999a, 226)の内部で再構成 するこころみに対しては、「叡知界」の想定をもつカントの立場からの反論が予想される。
カントの道徳理論においては、同じ理性的存在でありながら、有限な理性的存在としての 人間存在をはるかに凌駕する理性的存在を叡知界の構成員に加えることで、道徳性の無条 件的基盤が確保されている。それゆえ、道徳性の無条件的基盤が「経験的理論の枠組み」
の内部で確保される可能性を、この反論は疑う。
だが、具体的他者としての他のひとびとに、道徳性の無条件的基盤が求められるべきで あり、また、求めることができる。
第一に、「理由」が構成主義の意味で、本性的に「公共的」であり、相互性と一般性の基 準のもとで「間主観的」に共有可能な理由であるなら、他のひとびとは、同じ理性的人格 である点で完全な「他者」ではないにもかかわらず、「他者」とみなされる。ロールズが
「判断の負荷」(cf. Rawls 1993a, 54-58)の観念のもとで明らかにしたように、理性的人格 の判断は、間主観的な一般的妥当性をもたないという意味で誤りの可能性をもち、他の理
(10)反省的均衡の方法においては、私たちの「道徳的経験や判断」、「正当化の原理」を含む道徳的観点、道徳 的観点から導出される道徳規範の三者のあいだに、十分な反省にもとづいた整合的な均衡状態を確立する ことが求められる。ここから道徳規範を再構成しない形式的理論としての再構成が、反省的均衡の方法に ならうものではないとする批判が予想される。この批判はもっともなものであるが、ここでは取り上げな い。この批判については、第四章第四節の最終部を参照のこと。
性的人格の判断とおのずから相違するからである。
第二に、ヘンリッヒの「道徳的洞察」(Henrich 1973, 228-233)の観念において、「賛同」
されるべきという「要求」の「正当性」とともに、「私」の「賛同」に「先行」して「善」
が与えられていたように、「私たちの道徳的経験や判断」から再構成される理性的人格は、
「賛同」されるべきという「理由の道徳的権利」と「自由の道徳的権利」の「要求」の「正 当性」とともに、「私」の「賛同」に「先行」してあらわれる、「具体的他者」としての他 のひとびとである (cf. Henrich 1973, 228-229)。他の理性的人格は、二つの道徳的権利の
「要求」をかかげる「具体的他者」として「私」にあらわれてくるのである。
むろん、後にスキャンロンの「道徳的経験」(cf. Scanlon 1982, 137-138)を再構成するこ とで明らかになるように、他のひとびとは、二つの道徳的権利の要求だけをかかげて「私」
に迫ってくるのではない(11)。コースガードの言い回しのもとでいえば、他のひとびとは、
「理性的・社会的動物」(cf. Korsgaard 1996, 132-145, 145-160)として必要な二つの道徳的 権利の要求以外にも、「理性的・社会的動物」として必要な「具体的必要」の要求、たとえ ば生命の維持、そのために必要な衣食住といった「具体的必要」の要求もかかげて、「私」
に迫ってくる。
それゆえ「経験的理論の枠組み」の内部における再構成においては、ラーモアが実在 論の立場から主張する「他のひとびとのすでに与えられている所与の人格性」(Larmore
1998, 462)に、私と同じ理性的人格としての、他のひとびとの「承認」の基盤が求められ
てはならない。承認の基盤は、「理性的・社会的動物」としての「具体的必要」の要求とと もに他のひとびとがかかげる、二つの道徳的権利の要求との「自己同一化」に求められな ければならない。「私たちの道徳的経験や判断」に見出される理性的人格は、その本来の 姿において、それぞれに各々の事情や背景をもち、それぞれに特定の時代と地域において 生き生活している、「具体的他者」としての他のひとびとである。「経験的理論の枠組み」
の内部における再構成においては、人間存在の「理性的・社会的動物」としての有限性を 強調するコースガードの議論を援用することで、「叡知界」と「感覚界」の二元論的想定 が回避されなければならないのである。
以下でシュペーマンの「承認する知覚」の観念のもとで解釈するように、具体的他者と しての他のひとびとの、「人格」としての承認は、他のひとびとの「知覚」と同時にもた
(11)スキャンロンの1982年の論文では、彼自身の「道徳的経験」にもとづいて「道徳的悪」が次のように定 式化されている。「十分な情報にもとづいた強制的でない一般的合意の基礎として、誰ひとり理性的に拒 否できないであろう振る舞いの一般的規制のための規則のどのような体系によっても、現状でのその遂 行が容認されていないのであれば、その行為は悪である」(Scanlon 1982, 132)。ここでのスキャンロンの
「道徳的経験」と「道徳的悪」の定式化については、スキャンロンの論文の該当する箇所(Scanlon 1982,
137-138)と本論文第四章第四節を参照のこと。
らされる。「知覚」であると同時に「承認」でもある「承認する知覚」を、ラーモアは「矛
盾」(Larmore 1998, 462)と批判し、「人格」としての承認を、「他のひとびとのすでに与え
られている所与の人格性」の「認識」に求める(cf. Larmore 1998, 461-462。だが「承認す る知覚」は、具体的他者としての他のひとびとに対する「適切な応答」(Spaemann 1996, 252)である。「承認する知覚」においては、「知覚」という「受容性の契機」と「承認」と いう「自発性の契機」が、「適切な応答」としてひとつにまとまっているのである。
こうして道徳的洞察の観念が「脱超越論化」(Baynes 1992a, 4)されれば、他のひとびと の「理由の道徳的権利」と「自由の道徳的権利」の「要求」の「正当性」に対する「洞察」
において、理性的人格は、この「要求」の「正当性」に「賛同」し、「正当化の無条件的義 務」に「自己」が「拘束されている」ことを理解する(cf. Henrich 1973, 228-229)。他のひ とびとがかかげる二つの道徳的権利の「要求」を自分自身にも見出す理性的人格は、他の ひとびとの「要求」を理性的に拒否できない。
それゆえ理性的人格の実践的思惟においては、相互性と一般性の基準によって特徴づけ られた「正当化の原理」が「構成」される。その結果、理性的人格は、「正当化の無条件的 義務」を、「正当化の道徳的責任」としてみずからに引き受ける。このことで理性的人格 の「道徳的人格」としての「自己理解」が「形成」され、理性的人格の「道徳的アイデン ティティ」に「正当化の原理」が根拠づけられる。
反省的均衡の方法においては、このように、人間存在の「理性的・社会的動物」として の有限性を強調するコースガードの議論と他の人間存在との「自己同一化」の機構を「承 認する知覚」のもとで解明するシュペーマンの議論を援用することで、ヘンリッヒの「道 徳的洞察」の観念が「経験的理論の枠組み」の内部で解釈される。
それゆえ「正当化の道徳的責任」は、「契約」にともなって生じる「責務」(cf. Rawls
1971b, 111-112, 114-117)のようなものではない。理性的人格が理性的人格として引き受
けざるを得ない「正当化の無条件的義務」に、この責任が由来するからである。理性的人 格が理性的に拒否できない「正当化の道徳的義務」に、正当化の道徳的責任は由来する。
理性的人格は、「正当化の原理」にしたがって自分の行為を「普遍的」・「間主観的」に正 当化する「正当化の道徳的責任」を負っている。ヘンリッヒの「道徳的洞察」の観念が反 省的均衡のもとで取り上げられ、「経験的理論の枠組み」の内部で解釈されれば、「正当化 の原理」が前提する「正当化の無条件的義務」とその基盤が明らかになるのである。
したがって、「理性的・社会的動物」としての「具体的必要」の要求とともに、「理由の 道徳的権利」と「自由の道徳的権利」の「要求」の「正当性」をともなって「私」にあら われてくる、具体的他者としての他のひとびとに、「道徳性」の「無条件的基盤」が求め られる。二つの権利に由来する他のひとびとの「正当化の要求」に、普遍的・間主観的に