第 3 章 形式的理論 88
3.3 公正としての正しさの形式的理論
第一原理の規範的内実に続いて、第二原理のもっとも重要な規範的内実がこのように
「正当化の原理」のもとに吸収され、解消されるのであれば、形式的な「政治理論」の可 能性が、この理論の根底にある形式的な「道徳理論」の可能性とともに明らかになる。理 性的人格の「理由の道徳的権利」とともに「正当化の原理」が各々の社会において「政治 的討議」の枠組みとして法制化されることを要請する「政治理論」の可能性が明らかにな るのである。
「道徳的観点を別のしかたで用い、実質的含意から実践理性の手続き的概念を解放して いたなら、それゆえ首尾一貫して手続き主義的に展開していたなら、ロールズは、原初 状態の構成に結びついている難点を回避できたであろう」(Habermas 1995, 74-75)とハー バーマス指摘するように、「正義の実質的理論」(Rawls 1971b, 51)は、「形式的理論」とし て再構成される可能性をもつ。
正義の実質的理論においては、正義の理性的・普遍的構想を反映する原初状態に、特定 の基本財というコンテクストに結びついた想定を組み込むことで、正義の諸原理という実 質が導出されている。だがこれまでの考察が示しているように、ロールズは、実質的理論
「働かないひとびとは、〔標準就業時間を八時間と想定するなら〕八時間の余分な余暇時間をもっているの だから、実際に標準時間働いているもっとも不利な状況のもとにあるひとびとの〔基本財の〕指標とそ うした余分な八時間とを等価なものと数えることにする〔括弧内引用者〕」(Rawls 2001, 179)といい、基 本財の目録に余暇を追加する。「サーファーたちは何とかして、自活しなければならない」(Rawls 2001, 179)のである。
であるために必要な特定の基本財の想定を、理論のなかに適切に組み込むことに失敗して いる。正義の理論は、「個人間比較」の問題のような社会の具体的問題にかかわる理論で あることにも、社会の基本構造一般に普遍的にかかわる理論であることにも失敗している のである。
「道徳哲学は、偶発的想定や一般的事実を意のままに用いる自由をもたなければならな
い」(Rawls 1971b, 51)とロールズは主張し、正義の理性的・普遍的構想を反映する原初状
態に、特定の基本財の想定を結びつける。ロールズはこのことで、個人間比較の問題のよ うな具体的問題にかかわることができると考える。だがハートとセンの批判、そしてこの 二つの批判に対するロールズの返答が示しているように、正義の理論は、社会の具体的問 題にかかわることに失敗している。
それゆえ社会の具体的問題にかかわろうとするなら、正義の理論は、形式的理論として 再構成されるべきである。「理由の道徳的権利」が「正当化の原理」とともに法制化され れば、「理由の政治的権利」のもとで「他のひとびとが理性的に拒否できないであろう根 拠」として共有可能な理由を提示し、反論し、協議する市民の「政治的討議」が可能にな る。その結果、各々の社会がおかれた特殊性が、適切なコンテクストのもとで適切に扱わ れる。
むろん「実質的含意から実践理性の手続き的概念を解放していたなら」というハーバー マスの指摘から明らかなように、この再構成は、特定の基本財の想定の基盤となっている 道徳的人格の構想から、その実質的含意を取り除くことを必要としている。『正義の理論』
のもとでいえば、「正義感の能力」と「善の構想の能力」によって実質的に規定された道 徳的人格の構想は、その実質的規定から解放されなければならない。
だが、この解放だけでは十分ではない。ロールズの「反省的均衡」の方法を援用し、「私 たちの道徳的経験や判断」から出発することで、「相互性」と「一般性」の基準によって特 徴づけられた「正当化の原理」が、「経験的理論の枠組み」(Rawls 1999a, 226)の内部で再 構成されなければならない。さらに、「正当化の原理」にしたがって自分の行為を正当化 することで他のひとびとの「理由の道徳的権利」と「自由の道徳的権利」を尊重する「正 当化の道徳的義務」が、この義務の受け入れにもとづく「正当化の道徳的責任」として、
理性的人格の「道徳的人格」としての「自己理解」に結びつけられ、理性的人格の「道徳 的アイデンティティ」が再構成されることで、このアイデンティティのもとで「正当化の 原理」が根拠づけられなければならない。「公正としての正義:形而上学的でない政治的 構想として」論文以来の理解のもとでいえば、「社会の基本構造の正義」という「道徳的・
政治的主題」のコンテクストに結びつけられることで実質的に規定されている道徳的人格 の構想は、その実質的規定から解放されなければならないのである。
したがって形式的理論としての再構成においては、ロールズの反省的均衡の方法を援用 して「私たちの道徳的経験や判断」から出発することで、第一に「経験的理論の枠組み」
の内部で、自分で判断し、自分の判断を理由に自由に行為する「理性的人格」の観念、理 性的人格からなる「普遍的社会」の観念、そして相互性と一般性の基準によって特徴づけ られた「正当化の原理」が再構成されなければならない。形式的理論としての再構成にお いては、これらの観念と原理によってあらわされる「公正としての正しさ」という「道徳 性」の構想が、「経験的理論の枠組み」の内部で再構成されなければならないのである。
第二に形式的理論としての再構成においては、「正当化の道徳的義務」が、この義務の 受け入れにもとづく「正当化の道徳的責任」として、「理性的人格」の「道徳的人格」とし ての「自己理解」に結びつけられ、理性的人格の「道徳的アイデンティティ」が再構成さ れることで、このアイデンティティに「公正としての正しさ」が根拠づけられなければな らない。
「公正としての正しさ」という道徳性の構想は、「民主的社会の公共文化のなかに暗黙の うちに含まれているか、潜在している理想」(Rawls 1985, 400-401 n. 19)を反映する「理 想に基礎づけられた見解(ideal-based view)」(Rawls 1985, 400-401 n. 19)ではない。「公 正としての正しさ」は、「理由」に基礎づけられた見解として、「私たちの道徳的経験や判 断」を「理由」に再構成され、理性的人格の「道徳的人格」の「自己理解」のもとで根拠 づけられなければならない。
その際、「公正としての正しさ」を、「自律的道徳性」の構想として、「理性の自律」のも とで根拠づけようとするなら、「経験的理論の枠組み」の内部における再構成では、以下 の二つの条件が充足されなければならない(12)。
第一にこの再構成においては、ヘンリッヒ (Dieter Henrich) の「道徳的洞察(sittliche Einsicht)」(cf. Henrich 1973, 228-233)の観念を「経験的理論の枠組み」の内部で解釈する ことで、「私たちの道徳的経験や判断」に見出される、「具体的他者」(Benhabib 1985)と しての他のひとびとに対する「正当化の道徳的義務」が、他のひとびとに理性的に拒否で きない「正当化の無条件的義務」と説明され、この無条件的義務に道徳性の「無条件的基 盤」が求められなければならない(13)。
道徳性を「無条件的基盤」のもとで根拠づけようとするなら、「理由の道徳的権利」と
(12)「理性の自律」のもとで「自律的道徳性」を根拠づけるカントのこころみに対するラーモアの批判につい ては、本論文第四章の第一節を参照のこと。
(13)ヘンリッヒの「道徳的洞察」においては、洞察の観念が、ヘンリッヒのいう「善」、すなわちカントの「道 徳法則」に対する「洞察」として理解されている。だが本論文では、他のひとびとの「理由の道徳的権利」
と「自由の道徳的権利」に対する「洞察」として解釈する。ヘンリッヒの道徳的洞察の観念とその解釈に ついては、第四章第二節を参照のこと。
「自由の道徳的権利」が尊重されることを要求する「私」に、道徳性の基盤が求められて はならない。これらの道徳的権利の尊重を「私」が理性的に拒否できない具体的他者とし ての他のひとびとに、道徳性の基盤が求められなければならない。
ヘンリッヒの言い回しのもとでいえば、「私」の「賛同(Zustimmung)」(Henrich 1973, 228)に「先行」(Henrich 1973, 228) して与えられた、具体的他者としての他のひとびと の二つの道徳的権利の「要求」の「正当性」(Henrich 1973, 228) に、道徳性の無条件的 基盤が求められなければならない。すなわち、「私」の「賛同」に「先行」して与えられ た、他のひとびとの「要求」の「正当性」に対する「洞察」(Henrich 1973, 228)が、同時 にこの「要求」に対する「自発的行為」(Henrich 1973, 230)としての「賛同」をもたらし、
「私」が理性的に拒否できない「正当化の無条件的義務」に「自己」が「拘束されている (gebunden)」(Henrich 1973, 229)ことの理解をもたらようなしかたで、「正当化の原理」が 再構成されなければならない。同時にこのことで、「正当化の無条件的義務」が「正当化の 道徳的責任」として理性的人格の道徳的人格としての自己理解に結びつけられ、理性的人 格の道徳的アイデンティティが再構成されることで、このアイデンティティのもとで「自 律的道徳性」が「理性の自律」にもとづいて根拠づけられなければならない。
第二に、「経験的理論の枠組み」の内部における再構成においては、ラーモアが実在論の 立場から主張する「他のひとびとのすでに与えられている所与の人格性」(Larmore 1998, 462)に、「洞察」における他のひとびとの、私と同じ理性的人格としての「承認」の基盤を 求めてはならない。人間存在の有限性を強調するコースガード(Christine M. Korsgaard) の議論を援用することで、「理性的・社会的動物」(cf. Korsgaard 1996, 132-145, 145-160) として有限な、具体的他者としての他のひとびととの「自己同一化」に、他のひとびとの、
私と同じ理性的人格としての「承認」の基盤が求められなければならない。「私たちの道 徳的経験や判断」に見出される理性的人格は、その本来の姿において、それぞれに各々の 事情や背景をもち、それぞれに特定の時代と地域において生き生活している「具体的他 者」としての他のひとびとである(14)。
「人格」としての承認を「承認する知覚(anerkennende Wahrnehmung)」(Spaemann 1996, 195)の観念のもとで解明したシュペーマン (Robert Spaemann)が明らかにしているよう に、具体的他者としての他のひとびとの「知覚」は、同時に他のひとびとの、「人格」とし ての「承認」でもある。「承認する知覚」は、具体的他者としての他のひとびとに対する
「適切な応答(angemessene Antwort)」(Spaemann 1996, 252)である。「承認する知覚」に おいては、知覚と承認という「受容性の契機」と「自発性の契機」が、「適切な応答」とし
(14)詳細は第四章第三節で考察する。