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コの
つ円
30 (30 ノ
相応部の経の 数に
パーリ仏教にそれほどなじみの深くない筆者には ︑以上の経数の計算はやや重荷であった︒識者 の方がたが︑拙論から直接テクストなどに当り ︑ 種々検討を加え られて︑さらに御批判下さる よう︑ 望んでやまな なお︑この検討の際に︑水野弘元教授から︑ 漢 訳 の 刊雑 阿含経﹂にも︑その径数に誤まりのある ことを 御 指摘 い た だいた︒即ち︑﹁ 雑 阿含経は計一三六二経より 成 る ﹂と︑上述の諸本が一致してい う のみならず ︑﹁大正新脩大蔵経 し
ついて
っている︒なお︑水野弘元司釈尊の生涯 JlQ. ト 0 の丸ぐ ︑ コ長部 L とコ 中部 L とに 経 数を記し︑同相応部 b など には径数を掲げ
ないというのも︑一つの見識を示したものである︒
あとの 付 記に言及した漢訳の司 ‑ 雑 阿含経 L についても ︑やはりパーリ 文 円相応部 L のこの但し書と同類の 一 文が ︑付言され る べ き かもしれない︒す な れ ち コ大正大蔵経しは﹁ 如 是 我聞﹂で始まるパラグラフを︑それぞれ 一 経とし て 扱っているよう であるが︑たとえば 椎尾弁 医博士の労作であるコ国訳 一切経・河合邦 L を見ると︑前者の第一経に当るもの を ︑寿一 f 第四に 分かっていることも判然とするように︑経文の内容 思想・テーマにもとづいて経を区分しており︑それに よれば︵またその
﹁ 雑 何台新旧巴豆 照表 ﹂にも明らかなごとく︶︑最後の 経の通し番号は一三四四四に達しており︑したがって 経教 を ﹁ 一 三四四
四 ﹂と数えている︵同音 目 ︑Ⅰ解題三五 ぺ一ジ ︶︒
付記 註 1 この添え書は ︑ 先に二に掲げたわが国の諸本中︑ 最も占い宇井本にのみ存し︑他は添え書を除いて︑ 経 故を確定してしま 二八 セ 三径︵ PTs は二八八九経︶ 計
以上の総 計二八 ‑ セ二 経という数は ︑ 右に 緯青 し たような︑ 幾 っかの不統一・不満・不可解などの なかで︑いわば 妥 慨 して数えあげた径数の総和であるから︑この 数を掲げる際には︑必ず︑﹁数えかたによって ︑ その径数はかなりの 変動を免れがたい﹂旨の添え書が付されるべ き で の セ る ︒︵Ⅰ︶
第二巻︑阿舎部下口 Q. ︶Ⅱ ひ Ⅱのには︑ 各 経に︵一︶ Ⅰ︵ 一 三六二︶の一連番号が付されている︒ そ れらは︑すべて﹁ 如 是 我聞﹂で始まるものを 一 経と数えている︒ し かるに︑ や ㎏ ゅ ㏄
ダの
︵一一一二︶の四行Ⅱの 奴位の あとに︑﹁如是我聞﹂で仏仰 まり ロ ・㎏ ゅ ㏄ n. ︶・べに至るⅠもののみに︑この手首 号づ げがない︒便宜上︑それを︵一一一二 a ︶ とするとしても︑ 経 数はここに 一 経を増加して︑計一三六三経とす べきであろ 5 ︑と︒
︵一九六七年一月︶
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論じようとするものである︒
泣 本論に入る前に︑若干の予備的考察を試 みておきた い ︒まず宗教行動は︑操作的規定とし て ︑宗教儀礼の遂行であ 地 鮒る ︑と考えておく︒これは︑そとに表われた 顕示的行動に考察を限定するということであり ︑さらに︑慣習や教団塊 眩別 によって一定の許容範囲をもって定型化さ れた行動に観察を限定する︑ということを意味
︵ @@ ︶
駝 曲見解を表明するというよりは︑ここで用い る 資料がそのような限定を不可避たらしめるの である︒操作的規定とこ 肛 とわるのもこのゆえである︒ 農 次 に︑宗教行動は行為者の家族的地位とは無関 係に ︑あるいはその人の個人的挫折感や願望から 生ずることもあ
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本稿は︑いかなる宗教行動がいかなる家族的地 位の行為者によってなされる傾向があるかを︑ 一 農村貸料によって 題 一 問
農村における宗教行動と家 族 的地位
岡 ︐月 目 作 森 美
役割とは︑特定の地位に結びついた文化型の総 体であって︑その地位を占めるいかなる人にも 社 会 が帰属せしめてい る 態度・価値・行動を含むとし︑しかして顕示 曲行動に即していう限り︑役割とは地位の動的側 面 にほかならない︑
と 規定するなら︑宗教行動の代りに宗教的役割の 語を用いてもよいように︑あるいは用いた方が よいようにさえ︑ 思 われる︒しかし︑なお次の二つの理由によって ﹁行動﹂の語を採用したのである︒第一は︑われ われの資料は顕示的 行動の記録であり︑その記録のし方が顕示的 付 動を通して内面的な態度や価値観をじゅうぶん 精 密 に推察せしめる ょ
う なものでな い ことである︒顕示的行動の注意 深い観察によってわれわれは行為者の態度や価値 観 をかなり精密に推 戸 2 Ⅰ をどのように区別しているのか︑という点生育 及 しておく必要がある よう に思われる︒もし R リソトソ に従って ︑ それならばなぜ︑家族的地位と宗教的役割︑ と い う 問い方をしないのか︒いいかえれば︑宗教 行 動 と宗教的役割と て ︑大部分の重要な宗教行動は︑実質的には︑ 直 接 的にか間接的にか︑行為者の占める家族的 抽 位 によって規定され ている︑とみるのである︒世帯と企業体が 未 分 化 一体の状態にある農村では︑家が社会生活の最 も 重要な基礎的単位
であるから︑宗教行動が家族的地位によって規定 されるという見方は︑とくに妥当するといえ ょ ぅ ︒もちろん︑その
ようにいっても︑老人の宗教行動︑少年の宗教 行動などとよ びぅ るものがあることを否定するも のではない︒ただ︑
老人とか少年とか︑一定の年齢 範 時に基づいた 社会的地位が︑発達心理学的な希求と結びついて 宗教行動を展開して いく面 ょ りは︑老人でも少年でも︑それが祖父 母とか 孫 ・ 子 ・長男・ 吹 三男等の家族的地位に翻 訳された上で︑一定
0 年齢 範 時の心理学的希求と結びついて宗教行動 を 組織して い く︑その面を重視するのである︒ さかではない︒ た︐だ ︑人間における︑少なくと も 日本人における︑家族生活のぎねだって大 き ぃ 重要性にかんがみ︵ している︒もとより︑いわゆる普遍的宗教が 信 者を家族的制約から解放する力をもっ ︐ ﹂とを原則 として認めるにやぶ り ︑あるいは社会的使命感や願望からなされる @ ﹂ともあろうが︑本稿は家族的地位に即して宗教 行動を観察しょう と
測 することができるのであるが︑記録にはその ような手がかりが大幅に失なわれている︒例えば ︑神社へ参拝すると 諌 摘動 最後に︑資料について一言しておく︒ がいかなる家族的地位の行為者によって わ 堰 卸 施設を対象にせずとも︑純然たる宗教行動 なされる儀礼の遂行である限り︑他の要素 いう行動がどのような態度︵伝統へのコンフォ 工︑
ヘ ティ・集団へのコンフォーミティ・自覚的信仰︶に
四年三月までの二年間︑ 支えられているのか︑
見当がつかないのである︒そこで︑役割という 含みのある語をさげて︑端的に行動とする方が ょ い 0 第二は︑役割を もって集団の機能分担とする理解があり︑家族 における宗教的役割の場合には︑家族の宗教的 活 動の分担と解される ことである︒もちろん︑機能分担としての宗教 行 動は多い︒しかし︑機能分担とはいい難い︑ 家 族の機能的要請から ほみ 出た宗教行動があり︑それも行為者の家族 的 地位と間接的に結びついている︒われわれはこ ぅ した行動をもあわ
せて考察したいと思 う ので︑行動の語を用いる
@ ﹂とにする︒
それでは︑具体的にどの範囲の行動を宗教行動 とみるのが妥当であろうか︒宗教行動は必ずしも 純粋な形で現われ ず ︑しばしば娯楽的要素や社交的要素が結びっ いていたり︑時に娯楽的要素などの方が卓越する ことすらあるので︑
どこまでを宗教行動とみなすかについて︑操作 的 基準が必要になるのである︒われわれは︑ 神 社 とか寺院とか︑ 神
位棚 ・仏壇・石塔とか︑一般に宗教的目的の ためにつくられた施設に対して︑これらの施設が つくられた目的に即して
ち 三戸は一年間のみ︶に依頼して記録された﹁ 生 活 時間記録﹂である︒ こ ︵ 30 ︶ 抽 れには︑家族貞一人ずっについて一日二四 時間を何時何分から何時何分まで何をして 賛 した かが明細に記録されてい
た 宗教行動をとり出し︑その季節的分布・家族 員 別の葉中分散などを 見っ
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けることは容易である︒また︑同一の行動が持 続 された時間の長さ︑家族員の間の行動の複合 ないし分化状況など も ︑この﹁記帳﹂によって捉えうる︒二年間に もわたって︑戸数僅か二四戸の部落から八戸も ︐ ﹂の種の記録に参加し た 前例は ︑ 蓋し稀有であろう︒まことに得難い 資料といわ ほ げればならない︒
しかし半面において︑この資料には次のような 欠陥が存するのである︒第一に︑十分間以内に終 るような行動︑例 えば神棚や仏壇の前での拝礼とか︑朝起き抜け に 東方に目って柏手をうつとか︑おおむね毎日行 なわれる短い習慣的 行動が記帳されていないことである︒第二に ︑農 家によって記帳に精粗があり︑記帳されていな いからといって ︑他 の 記帳農家に見られるような行動がなかった ︑と ほ 断じ難いことである︒したがって︑ A 家と B 家 とを比較するに は ︑両家とも記帳が全体として精密であることが 前提条件となる︒もっとも同じ家について︑ 異 なる家族的地位の者 を 比較する場合には︑精粗均質であると想定し てかかる よ りしかたがないであろう︒第三に ︑ 記帳の粗なるものに 憶 毎日記帳するという約束であったにもかかわ らず︑何日かまとめて記帳したと思われる箇所 が散見することであ る ︒これを根木的に改訂することは不可能であ るが︑他の記帳農家と対照することでいく分の修 正 が可能なところも ある︒これらの点で︑﹁記帳﹂の利用には細かい 配慮と周到な警戒が必要だと い わなければなら 甲ん ⅤⅠ ヘ @ @ ︒ にもかかわらず︑﹁記帳﹂の利用には︑宗教行動 の 長潮的偉観察を可能にするという︑方法論的 な 斬新さがあると 思われる︒宗教行動の現地観察は︑特定の地域 の 民俗Ⅱ社会探訪的な行動型の聴取調査に満足 しないところに生ま ね ︑当然の存在理由を主張し ぅ るのである け れ ども︑一時的な観察では よ く傾向性まで把握し ぅ るものではない 0 そ こで長期観察が要請されるのであるが︑これこ そ 言い易く実行の困難な調査技法である︒そこで ︑長期観察の代用と なり ぅる 技法を開発しなければならない︒ @ ﹂ の ような要請のもとに案出されたのが﹁記帳﹂であ って︑直接の観察に 准じた効果を期待し 5 るので︑ 準 観察と仮称す るのである︒もとより︑﹁記帳﹂による長潮的 準 観察が最良の技法で
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