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ドキュメント内 『宗教研究』192号(41巻1輯) (ページ 75-82)

起  し、 

説 

り Ⅰ 

て  正  受 

と 

為 

し  散 

羊口 

但の 

"  文 

是は 

ム ・ 都 

の ・  べ 

自 ・  て 

  

する  なり。⑧)  処 

無 

思惟正堂の市門を分別す︒一   に 定散を分別す︒下の三浄業 

は散心の思量にして︑名づけ 

て思惟と云う︒十六の正観の 

説は︑玉堂 と 為す︒第二に ︑ 

彼の十六観中に就いて義に随 

って分別するに︑初めの 二 想 

の 観は名づけて思惟 と日う ︒ 

ぬ額 已 後の十四種観は定に依  此経 ︵ 肪 ︶ ︒  は正    に章提 希の為に説 思惟正党とは︑三種の浄業は 之︑散心の思量にして名づけ て 思惟 と 日い︑十六の正 親の ︵ ︶ 説は正 堂と名づく︒  ︑ ︶  ︵ 栢当 する箇処は見当らな 

  なり︒・・・・・・⁝問うて日く︒ 定 

善の中に何の差別か有る︒出 

でて何れの文にか在る︒答え 

て日く︒何れの文に出ずと 

は︑経に教 我 思惟︑教戒玉堂 

と言う︑即ち其の文なり︒差 

別と云うは︑即ち二義有り︒ 

一には思惟と謂い︑二には 正 堂と謂うなり︒三諸有 

りと雄も︑唯是定 書 のみ︒ ス︑ 

     定書の一門は葦提の請を致   し ︑ 散善 の一門は是仏の自説 

   ︵ 接イ ︶ の 句は諸 師に 於て︑第七 十六観に至る十の観 法への導入部であると見放されて居る︒此の得 忍 ぬ 間 頭 ︑及び先に  挙げた 溶忍 の 位 ︑ 章提希 凡夫 説等は ︑﹁観経﹂の 我々への親近化︑更には此経の念仏主意 説 の 徹 底を目指す一連の意 

図 に基づくものと云え よう ︒故に︑夫人が仏陀 に ﹁我我思惟︒我我正堂︒﹂と請 うた 一句に端を 発して︑夫人と﹁ 観 

経 ﹂の関係に就いて各義疏は次の如く説明する︒ 

  

(74)   74 

陀の自発的意図に依り説かれたものだとして 居 る ︒之は﹁観経﹂が 章提希 夫人だけの為に説かれ たのか︑それとも︑ 

其位の一般者をも予想したものかと云 う 問題で ある︒筆者は此処で講師と善導の解釈の是非を問 お う とは思わない︒ 

それよりも︑何故斯かる見解を取ったのかが 問 題 にさる べ ぎである︒善導の意図は︑観仏念仏の 一 怪雨 宗 たる事を認 ︵ⅠⅠ︶ 4 めつつも︑最後には﹁ 望仏 本願意 在 衆生一向卑称 弥陀仏名﹂と云い︑念仏を勧めるのが此経の趣 旨 だと 去 りにある︒ 

そして︑念仏に依る救済は決して従来の観仏等 の 行に劣らぬどころか︑﹁ 但是仏自開 ﹂と述べて これこそが仏陀の 

本意であったと主張する︒従って 章提希と 云う 女性を通じて︑実は凡夫一般の為に説かれたのが ﹁観経﹂の眼目であ 

ると云い 度 いのである︒玄義倉では﹁世尊 定為凡 夫 不為聖人﹂として︑経由より千箇処を引用し て 自説の正当性を強 

謝 し︑ 

  ﹁五来 十 旬の不同ありと雄も︑如来此の十六観法 を 説くは 但 ︑ 常 没の衆生の為にして︑大小の聖 のためにせずと 云 ︵ 4 4 ︶ ぅ ことを証明す︒﹂ ﹂ 

     

って了う︒﹁観無量寿経﹂彼等がその総てを定書 

雙と 

云 う 題名及び︑その大半を占める内容から すれば︑後者の方が穏当である事は云 う 迄も無 @. Ⅴ   善導が極めて厳格改修行者であり乍ら︑﹁観経﹂ の 註釈に見られる︒態度がそれと対称的であるの は 興味深い事であ 

75  (75) 

︵ り 4 4 ︶ 様の主張は欣薄縁の終りにも見られる︒その 結 果敢善の部分が宙に浮いて了うが︑之は葦 提の 要請には無いが︑ 仏  講 師の場合には﹁我我思惟﹂は敬喜 を ︑﹁我我 正 受 ﹂は定 書 であると為すハ陣 影は正 受を更に思 惟 ︵第一︑第二親︶ と ︵ⅡⅡ︶ 4 正堂︵第三 第十六観︶とに分 つ ︒それに対し て 善導は︑玄義公 に 於て思惟を観の前方便︑ 正 受を観の極意である ︵ 虹 ︶ と 為し︑﹁ 旧 華厳経﹂を証拠として︑思惟正堂 共 に定 善を意味し︑夫人の致 請 を定書十三観のみ に 限定して居る︒ 同 

ばそれ迄である︒けれども︑此の二 つは 元来去 通の基盤に立つもの︑即ち︑強烈な自己反省が却 って斯かる註釈を生 

んだと見るべぎであろう︒ 

八註 Ⅴ 

1. ﹁ 庁 ﹂ 註 参照 

2. 此の場 ムロ ︑ 道悼め ﹁安楽集﹂及び 迦文の ﹁浄土論 ﹂は︑﹁観経﹂に対する直接の コメソ タリーでは無い ので除外する︒ 善  導は ﹁安楽集﹂の立場を一歩進めたわけであるから︑ 基点では相違 と 云 う より︑寧ろ共通して居る事は云 う   

3. 例えば 

﹁ 続 高僧伝﹂第二十 セ 片目 き ・ っ ・のぎ 下 ︑﹁往生西方 浄土瑞応仁﹂片田 簗 ︐ づ ・ まいての︑﹁浄土往生伝﹂ 巻 中井田 簗  ワコ の 下 ロ︑﹁仏祖統紀﹂ 巻 二十六︑二十 

セ汁 

円仁 の ・ ロ ・めお 巨 切 ・ づ ・ 2 つの ロ ︑﹁新修往生伝﹂ 卍続蔵二 ︑ 二八 ノ二 ﹁ 往 

虫巣﹂番一汁日日・ ロ ・ お 0.  等 

4. 浮彫 寺 慧遠 撰 ﹁観無量寿経義疏﹂︵以下﹁浮影 疏 ﹂ と 略す︶片田 ま ・ っ ・ おキ の  5. 天台智者大師 撰 ﹁仏説観無量寿仏経 疏 ﹂︵以下﹁ 天 ムロ 疏 ﹂と 略 す︶沖田 ひ 〜・ 0. ︶ののの 

6. 同右 ︑ ワ ︶のめし 

7. 阿古︑ ワト ののの 

8. 嘉祥大師吉蔵 撰 ﹁観無量寿経義疏﹂︵以下﹁嘉祥 疏 ﹂と略す︶片田ま・ っ ・ 0 ㌍の  9. 善導 撰 ﹁観無量寿仏経 疏 ﹂︵以下﹁善導坑﹂と略す ︶沖田ま・ づ ・ 0 ミ下 

叩 ・﹁嘉祥 疏 ﹂片田 びづ ・ づ ・ N ののし 

Ⅱ・﹁浮影 疏 ﹂片田 のづ ・ ヮ ・︶ づのロ ・﹁ ムロ 疏 ﹂沖田 ま ・ D. ︶三レ・﹁嘉祥 疏 ﹂沖田器・ っ ・ 生口 ‑0 金巾   

は ・﹁善導坑し汁田ま・ ロ ・めお 臣 

H. 同右 ︑片田ま・ づ ・ 0 ま下 

Ⅱ・﹁浮彫 疏 ﹂片目 ま ・ っ ・︶ きの 

巧 ・﹁天台所﹂片田 ひづ ・ づ ・ の トめ 

(76)  る ︒之を人間の持つ二面性︑即ち自己自身の実 践と ︑凡夫一般を念頭に置いた場合の理論の相違 であると云って了え 6 

㎎・﹁ 肺祥疏 ﹂ 汁卸び 〜・ づ ・ か い の 

W. ﹁善導坑﹂片田 ひ 〜・ づ ・ のの 下 

M. ﹁浮影 琉 ﹂片目 ミ ・ b. ︶ お巨 

㎎・﹁ 天 ムロ 疏 ﹂片田 ま ・ づ ・︶三口 

㏄・﹁善導坑﹂ 汁 早ま・ っ ・ 260c 

れ ・﹁観経﹂沖田︶ 0. ロ ・ び pPO 

盤 ・﹁善導坑﹂井田ま・ D. め 目の 

井田器 も ・ 0 寒の ㌍・同宿︑ 

舛 ・﹁浮彫 疏 ﹂片田 ま ・ ロ ・ づ の中 

あ ・﹁ 天 ムロ 疏 ﹂沖田のべ・ ロ ・ のⅠ㏄ 

no. ﹁嘉祥 疏 ﹂片田ま・ ロ ・ 2 駐の 

W. ﹁善導坑﹂片田 ま ・ ロ ・ きの 

00. ﹁仁王般若経﹂羅什 訳 片田 め ・Ⅰ・のまし・不空調 井田 の ・ b. め のめ 巾 

㏄・﹁浮影 疏 ﹂片目 の 〜・ づ ・ のの中 

㏄・﹁ 天 口 疏 ﹂片田 め 〜・ セ ・︶めかし 

m .  ﹁嘉祥 疏 ﹂沖田 び 〜・ せ ・ NpO い 

<z. ﹁善導坑﹂井田 ひ 〜・ づ ・ ぎ卜 し ㏄・﹁観経﹂片田︶ 2. や・めや 2c 

目 ・﹁浮影 疏 ﹂沖田 ま ・ づ ・ ドさ ︒ ﹂ 四国二具ま里如来持説二役 十 観法㍉ 

㏄・﹁浮彫 疏 ﹂片田 ま ・ ロ ・ おか  後干 観 中文別言 レ四 

嘉祥には之に就いて 訣定 的な箇処は余り無いが︑強い  第四仏 告下 ︒ 酬レ請 広明二仏身一︒五種観閲︒第一  ﹁ 天 ムロ 疏 ﹂井田 びべ ・ ロ ・︶の り下 

て 挙げれば﹁嘉祥 疏 ﹂沖田ま・ ゃ ・ ミ いけ  観 華座︒  希 報 と 重 勝 

77   (77) 

3. 司 太子義疏 快 ㍉善導暁日に見られる 夫 入観の特徴 及ぴ その意味 ‑ Ⅰ l ︶ 我国の仏教思想史上に於て︑女人往生の問題が 本格的に論じられる様になったのほ︑聖徳太子 よりずっと後の法然  の頃からであろう︒英俊道元︑︵ 2 ︶日蓮を始めとし︵ 3 ︶ て ︑慈円︑高網︑叡尊等︑鎌倉時代以後の仏教に 於ては概して女性の  成仏が認められて居たと云え よう ︒︵ 4 ︶然し︑それ 以前の一般的傾向としては︑ 屡 々云われる様に "H 目安目 い ざ ぎビ ︵ が  ォヨ aca ︵ ぢ お約︐或いは﹁大潟梵行 垢亦悩害 世間 ﹂︑﹁女人梵行 垢 ︑友則累世間﹂と云った具合 で︑女性に対する評価  は 必ずしも充分であったとは云えない︒そして︑︵ 5 ︶ 仏教に於ける女人成仏の典型は﹁変成男子﹂と 云う形で代表されて 

  居る︒例えば﹁大 岳 般若経﹂には恒河提婆︵のが 紺注のゑ サブの めぎ Ⅱ 苑河 天女︶に関して﹁息女人 畢 二女 身一受 二男子形 ‑ ︒  当 ︒ 生 二河 閑仏阿稗羅提 国土 ‑ ︒﹂︵ 6 ︶なる一節がある︒ 従って︑女人も確かに往生を認められて居るが ︑女性その 儲 として  の 成仏では無く︑ 改 転成仏の形に依り間接的に のみ往生を認められて居るのである︒そして﹁ 般若経﹂のそれより 

は︑ 之を受継いだ 其 後の大乗経典︑就中﹁法華 経円 ﹁大集経﹂に見られる例の方が一般には広く 知られて居る︒処で  ㏄・岡君・片田ぎ・ ロ ・︶ き巨 

rf. ﹁天台 琉 ﹂沖田 の 〜・ロメのト下 

00 ・﹁善導流﹂沖田 ま ・ ロ ・ 24 〜 再とり 

nn.  同右 ︑片目ま・ づ ・ 0 ヨレ 

何 ・ 同右 ︑ 汁 早ま・ づ ・ N 三口 の ︐ 4 9. ﹁ 旧 華厳経﹂十一︑十打見井田 の ・ ロ ・ 稽 n. 痒 尚 ︑此の箇処に就いては後代の末註の意見が種々に 分れて居る︒ 

め ・﹁善導流﹂片田 ま ・ ロ︐ 0 のの 己 

め ・阿古︑片田ミ・ っ ・ 0 ま下 

何 ・ 同右 ︑ 汁 Ⅲ ミ ・ っ ・ N おし ?0 

何 )  78 

ると云 う 事は ︑ 決して女人不往生を意味するも のでは無く ︑ 主として男子修行僧にとっての問題 であり︑寧ろ︑社会  的に見ても男性に比して消極的で発心に於て 遅 れをとりがちであるのを戒め︑発奮せしめ んと の 意図にも解され 得 

利る 

︒従って ︑之 とは別に︑理想的女性像が 仏 教 思想の中で描かれ続けて居たのであろう︒ 

提章扱 

︑右に太子の勝 蔓 夫人 像 と善導の葦 提 希 夫人傑 を︑ 他の義疏と対比しっ っ 概観し︑その 都度若干の説明を加えて 

  と 腱 来たのである︒以下では簡単にその特徴を 整理して見よう︒太子︑善導の両流 に 共通して  一  ムい 

得る事は ︑ 先ず理想と 

﹁・・・・・現実の調和と云 う 事であろう︒太子は高遠 な 理想を自ら求めつつ︑実は大衆と共に追及せん とされたのである︒その 

79   (79) 

民衆の間に広く行き渡った事もあって ︑ 特に有 名 である︒女性としての斯かる理想像は突然に 出現したものでは 無 @ 几 l Ⅱ︶ く ︑原始仏教以来の理想的女性観を承けて︑ 後 の大乗仏教に於て成立したものと考えられる︒ 女 性は梵行の障りであ  を 積んで成道し ︑ 多くの衆生を済度した女性も 少なからずあって︑その事蹟は経典中に 厘 々 見 られる︒﹁ 勝蔓経 ﹂ や 

﹁観経﹂の他にも﹁宝積 経 ﹂の 舎摩 天人や︑﹁ 月 上女 経 ﹂に見られる月上女等が数えられよ う ︒ 此 ぬで取 挙げた 勝蔓 ︐  章提希 両夫人は︑太子の三経義疏に於て註解さ ね ︑或いは善導 疏が 帰依善導︵法然︶︑善導 独 明 ︵親鸞︶と云う形で 

にて 

あ  あ 

立い 

さ 

。  生か 

悉 

らの 

合 には︑仏教では転女成男の思想が主流を為し の影響と思われるが︑ ‑7 ︶兎に角︑女人成仏と云う 場 て 居る︒一切衆  ︵ 8 ︶ 

此 

様に浄土に於ては女性が男性に生れ変って了う ︑ と 云 う 発想の起原は決して仏教独特のものでは 無く︑先行思想  有 仏性の建前からすれば︑男女の別を問わず︑ 如何なる罪過を重ねたとしても︑その仏性が失わ れて了う筈は無 

にも 不拘 ︑﹁大無量寿経﹂の四十八願 中 ︑第三十 五番目に態々女人往生︵法然︶又は女人成仏︵ 親鸞︶の願が 別  れて居る事の理由に就いて︑浄土教では二説を 挙げ︑第一には既に十八願で男女老少の凡ゆる 衆 生を救うと誓っ  るが︑女人は本性上疑い深いから別願を設けて︑ その疑心を除こらとし︑第二には親鸞の浄土 和 讃 ﹁大経の意﹂ ︵ 9 ︶ る 如く︑弥陀の大悲の深き 事 ︑仏智不思議を示 さんとして︑特に此の願を別出したと云う︒従っ て ︑充分な修行 

ドキュメント内 『宗教研究』192号(41巻1輯) (ページ 75-82)

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