第二章 音楽の「方向性」について
2. 動きの分節化と分節の型
本論の冒頭において提示した「歩くこと」を言葉で説明する難解さの例を思い出して頂
きたい。足を交互に踏み出すだけでは歩けるようにならないことは既に指摘したが,この
足を前に出すという動作を説明しようとするとどうなるだろうか。例えば,「一で左足に重
心を乗せ,二で右足を蹴り出し,三で右足を接地させてください,「一,ニ,三」のリズム
で・・・・・・」というのはありがちな説明であるが,これで足を上手に踏み出して歩けるよう
にならないのはもはや明らかである。その理由として単に説明の不十分さを挙げることは
容易だが,より具体的には身体の動きの分節が適切でないからだと言える。身体の動きが
組織化されるということは,あるいは,運動が組織化されるということは,動きがある仕
方で分節されるということを示している(小林 2008)。即ち,足を前に蹴り出す動作は「一,
二,三」という単純な動きの 3 ステップで分節化できる動きではない。これは動作ができ
ないという結果に影響するだけならまだ良いのだが,一旦ある言葉で動きを捉えてしまう
と,逆にその言葉に動きが引っ張られてしまうという危険性と背中合わせになっている点
で非常に問題である。
言葉は世界を切り分け,世界は言葉で出来ている。この世界に言葉がなければ,世界と
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は全てコトとしての経験,あるいはコトとしてすら認識できないものであり,我々は考え
ることも何かに気付くこともない。イヌという言葉があって初めて,我々は「犬」という
生物を認識し,そうでないものとの区別ができるようになる。したがって,世界の切り分
け方はある時は文化,又ある時には社会と呼ばれ,人間の知覚にも少なからず影響を及ぼ
すことになる。これを音楽に当て嵌めると,聴取体験を分節する仕方は聴き方に影響を及
ぼすと言える。岡田(2009)は「聴き方」は「聴く型」のことであると端的に述べる。例
えば,クライマックスの熱狂へ向けて盛り上がる音楽を聴いたときは,我を忘れて喝采を
送り,他の人たちと熱い思いを分かち合い,時に涙する,このような聴き方が「聴く型」
として前提となっている人は,ベートーヴェンの≪第九≫をどう聴くのだろうか(岡田
2009)。おそらく,意味不明でつまらない,中身のない音楽として響いてしまうのだろう。
W. A. モーツァルト(1756~1791)は聴衆の「聴く型」を承知でそれを利用した。
ぼくは,コンセール・スピリチュエルの幕開けのために,シンフォニーを一曲書かなく
てはなりませんでした。それは聖体の祝日に演奏されて,満場の喝采を受けました。[中
略]ちょうど第一楽章アレグロの真ん中に,たぶん受けるにちがいないとわかっていた
パッサージュがありました。そこで聴衆はみんな夢中になって―大変な拍手喝采でした。
[中略]当地では最後のアレグロはすべて,第一楽章と同様に,全楽器で同時にしかも
たいていはユニゾンで始めると聞いていたので,ぼくは二部のヴァイオリンだけの弱奏
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で八小節だけ続けました。―そのあとですぐ強奏がきます。―すると聴衆は(ぼくの期
待した通り)弱奏のところで「シーッ!」―つづいてすぐに強奏―それを聴くのと拍手
が鳴るのと同時でした(岡田 2009 p.ⅵ)
これはモーツァルトが≪交響曲第三一番 ニ長調 KV297≫の初演の様子について,パリ
から父親に宛てた有名な手紙である。モーツァルトはパリの聴衆の「聴く型」にはまった
り逸脱したりして,聴衆の聴取体験を翻弄し,喜ばせたのである。また,我々は歌手の声
を「明るい(例:パヴァロッティ等)/暗い(例:デル・モナコ,カラス等)」と形容する
が,ドイツ人はビールについても「明るい/暗い」と形容する(岡田 2009)。ドイツ人の
感覚について説明することは困難だが,歌手の声とビールの味を同じ感覚の枠組みで感じ
ている可能性は否定できない。
また,音声と意味内容が結びついたものである記号も世界という全体を切り分ける。例
えば楽譜は,音楽を記録するという目的のもとに音響事象である音楽を音符や発想記号で
切り分ける。西洋の記譜システムでは,ポロネーズもメヌエットもマズルカも,同じ三拍
子で示される。ワルツであっても,スローワルツとウィンナ・ワルツは譜面上,大差がな
い。しかし,音響としてのこれらの音楽はそれぞれ全く異なるものとして響く。即ち,音
楽の様式は楽譜に記される記号から漏れ落ちる要素の中に現れるのである。ヨーロッパの
音楽好きは聴いた演奏に対して「上手い/下手だ」という言い方をしないという(岡田
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2009)。彼らにとってそれは「音楽である/音楽でない」のどちらかである。つまり,記号
は音楽を切り分けるが,記号に取り憑かれた演奏者は最も重要な漏れ落ちる要素に気付く
ことができないことになる。
15世紀以来,ヨーロッパでは様々な形で舞踊の記録が試みられ,踊りを再現することに
役立てられてきたという(小林 2008)。このような舞踊譜の試みは,どのように踊りを記
すかというよりも,踊りという現象の最小単位をどのように設定するかを巡って展開して
きた。しかし,舞踊譜に用いる記号(例えば,踊りの振り付け)は運動全体をコマ割りに
してしまい,運動感を損なう。このような舞踊譜の欠点と問題点について小林(2008 p.178)
は以下のように指摘する。
動きの「単位」という発想は,しばしば,現象を部分の集合ととらえる考え方に通じて
いる。同時に,実際の動きを,あたかも分子の連なりのように実体化してとらえる傾向
をふくんでいる。とするなら,それは,どんな分野の理論であれ,部分の集合が全体を
つくりあげるという理論がつねにもつのと同じ欠点を抱え込むことになるだろう。すな
わち,現象自体がもつ,生きたダイナミズムを欠くことになるだろう。
さらに小林(2008 p.180)は現象を部分の集合として捉えることとその顛末について以
下のように述べる。
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人間のからだは,単純な機械ではない。各個バラバラな動きを並列的につなぎ合わせて
も,決して人間の踊りにはならない。うねりにも似た波動のなかでつぎつぎに生まれる
動きのそれぞれが,たがいに結びつき,共鳴しあっている。そんな動きの流れや間が,
ここでは最初から無視されてしまっている。しかも,いったん数字でとらえられてしま
った平面的動きは,いつまでたっても機械的動きを脱することがない。順序を覚えてか
ら形を整える,そうした目論見は,あくまで頭のなかでの算段にすぎない。実際には,
順序や形を覚えるそもそもはじめから,いかに動くかという踊りの根本が身についてい
く。動きの連なりを外見的な一点一点で割り切る習性は,おそらく基本的なところで,
その後の人間の動きを規定する。形をなぞる以上には必然性をもたない動きの連なりは,
そんなからだと感性をつくりだす。そしてそのからだは,遂に,自由奔放な軌跡に辿り
着くことがない。
舞踊と言葉,舞踊と記号の関係は,そのまま音楽との関係に置き換えることができる。
音楽は部分の集合として捉えることはできない。しかし,言葉によって名指し,概念化し
なければ現象を捉えることができない,という点に現象と言葉のジレンマが見え隠れする。
「撓み」もまた言葉がなければ意識することはできないのである。現象と言葉の有効な関
係性を築き,このパラドックスを解消することは我々に可能なのだろうか。
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