第三章 音楽の指導について
5. 合奏指導のあり方とは(第三章を通して)
本章では指導者と指導の受け手の関係に着目して考察を進めてきた。日本には音楽の「部
分」を強調的に取り上げ,それを磨きあげた集合体として音楽を捉える傾向が強いことは
前章で指摘したが,これは佐伯(1975)が分類した「学べない人」のハウ・ツウ型にあて
はまると指摘している。ハウ・ツウ型とは知識を学ぶにあたって,それを全て「やり方」
の問題,方法や手段の問題として捉えるタイプのことであり,音楽が合わない原因を音程,
リズム,音色等に原因を求めがちな日本人は確かに「学べない人」に当てはまるのである。
さらに佐伯(1975)は日本人に根付く三つの特徴(権威主義的知識観/主観主義的知識観
/方法主義的道徳観)がこれを助長していると指摘する。つまり,日本人は知識に権威を
与え,それを持つ人が偉いとしてきたのであり,故に日本人の学びは何かが「わかる」と
うよりも何かを「おぼえる」ことに重点が置かれてしまうのである。しかし,「おぼえる」
というのは可逆的な出来事であり,いずれ忘れてしまうことによって「おぼえる」前の状
態に戻ってしまう。「学び」の理想は「わかる」ことであり,音楽で言えば,「音楽をする」
のではなく「音楽になる」ことである。
音楽の指導者である指揮者も,理想的には音楽が「わかる」ようにオーケストラに働き
かけ,「音楽になる」ことを促す役割を担うべきはずである。しかし,現代において我々が
思い浮かべている指揮者像は19世紀になって登場したものであり,それまではさほど権威
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も与えられぬ単なる拍取りの存在であった。ベートーヴェンの時代になると,音の形式で
あった音楽の中に個人の自我やドラマ,感情が持ち込まれ,それに伴って音楽の形式も大
きく変化した。人為的なルバートやリタルダンドが求められるようになり,指揮者なしに
は演奏不可能となっただけでなく,指揮者は音楽に内在する精神性の解釈者として権威が
与えられるようになった。今日の我々が持つ指揮者像はここに原点がある。
その指揮者は,その解釈云々は別としても,現代ではオーケストラの前中央で自らの指
揮動作を手段としてオーケストラに対して何らかの指示を与えている。誰しもが学校や参
考書で学ぶことのできる指揮法は極めて定型化しており,そこで用いられる図形を描く方
法程度ならば,ある程度誰でもできることである点を鑑みると,指揮者の能力の重要な点
は図形や指揮の叩き以外のところにあると考えられる。これを受けて,丸山(2011),新山
王(2004)の実験データを見ると,指揮者がアクションしているのは音が鳴る前だという
ことがまかる。また,丸山(2011)の実験から,指揮者は「間」において直後の音楽に何
らかの「方向性」を与えているということができる。「方向性」を与えるものとしての指揮
は,休符がなくても続けられることから,その時点の音楽だけではなく,その直後の音楽
にも継続的に「方向性」を与え続けている存在だということができる。この点で指揮はそ
の場で音を生じずに演奏者間を結びつけているという点で山伏神楽の口唱歌と同様の役割
を担っているといえるだろう。少なくとも,ヴァイツゼッカー(1995)と木村(2005)の
指摘の共通点であった,実際に視覚的に表れる行為それ自体でなく,その直前の「間」が
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その行為の「方向性」を決定づけているということは,指揮についても全く同じことが言
えるだろう。また,指揮者と演奏者の関係性の中で生じている作用には二つのレヴェル(①
「指示―反応」のシグナル/②特定の内容をとらないシニフィアンそのもの)があると考
えられる。①の作用は一定のパターンであり指示の発信者を問わないことから,②の作用
がより指揮者にとって重要な能力であると言える。②の作用のレヴェルで重要なのは,①
のように指揮動作に対しての「答え」が確立していない点にあり,その解答は演奏者に任
されているという点である。あるアマチュアのヴァイオリン奏者が良いと思う指揮者につ
いて「もちろん見やすいし,上手いなと思うんですが,正確にはあまり意識していないん
です。見てないってことじゃなくて,見えてるっていうか…自然にいるって感じ」と言っ
ていた。指揮者はもはやオーケストラに対する指示者としてではなく,環境の変化として
感じられているのである。指揮者が権威的な監督ではなく,演奏者にとっての環境そのも
のとして存在するとき,音楽を合わせることにより強く貢献するのかもしれない。
指揮者が演奏者に音楽の「方向性」を示すための手段にはリハーサルで慎重に用いられ
る言葉もある。弊害を齎す危険性をも持つ言葉が指導の場でどのように使われているかも
重要である。生田(2011)は「わざ」を「傾向性」として定義し,この「わざ」の伝承に
用いられている「わざ言語」の研究を行っている。また,生田(2011)は「わざ」をTask
(課題活動)と Achievement(達成状態)に分け,Achievement の学び,即ち,「状態の
学び」が重要であるとする。スピードスケート・コーチの結城氏は小平奈緒選手に対して
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スケートの刃を氷に置く感覚を指導する際,「はりつけ」という言葉を用いて指導した。こ
の言葉は結城氏の選手としての身体感覚をメタファーとして言語化したものであり,その
状態に「なっていない」人にとっては意味を持った言葉として響かない。しかし,ある一
定の「傾向性」,つまり「状態」に達したとき,「はりつけ」という意味のわからない言葉
が突きつけられていたことによって,ある身体感覚が「わかる」ようになり,「はりつけ」
という「状態」に「なる」のである。この言葉が「わざ言語」であり,直接的にAchievement
を志向する言葉なのである。あるコトであり「状態」である音楽の指導もまたAchievement
を志向する言葉が用いられるべきである。
しかし,この世に普遍的で共通して機能する「わざ言語」は存在せず,指導者と受け手
の関係性と文脈に大きく依存しているため,実践で「わざ言語」を使うというのは現実的
ではない。また,その関係性と文脈への依存性のために,受け手にも一定量の経験値やTask,
Achievementが求められることになってしまうため,「わざ言語」の実践への導入を方法論
としてまとめることは不可能に近いと言える。しかし,言語による指示が特定の意味内容
を経過せずに,受け手の身体の動きに還元されているという点では,「わざ言語」合奏及び
音楽の指導に関して大きな示唆を与えてくれる概念である。
「わざ言語」の導入が困難であるとはいえ,Taskのみの指導で良いということにはなら
ない。音楽を指導するのであるから Achievement を目指すべきであろうし,実際に Task
を積み重ねただけでは音楽にはならない。これは本論全体を通して筆者が主張している,
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音楽の「部分」の集合によっては音楽(というコト,「状態」)にはならないということと
全く同じ意味合いをもつ。「歩く」という動作についての表面的な部分の指摘では歩くこと
はできなかったこと,風邪の「症状」の集積で風邪という「状態」を説明したことにはな
らなかったことをよく思い出して頂けると良いのではないかと思う。
人間の精神はそれ自体「個」であり,志向的に外部へ身構えているが,これは知覚した
ものを自分のものにしながら同一化するためである(チェリビダッケ 2006 p.35)
具体的な意味内容を持ったシグナルや言葉は,ときに無垢な知覚のレヴェルをはるか越
え,ソンタグ(1996)が批判したあの解釈行為への求心力を強めてしまう。「音楽になる」
ことを志向して音を同一化しようとする人間の精神に対し,言葉の意味内容はその作用を
阻害してしまう。現代的なTask偏重は恐らくこのようにして生まれているのである。
本章を通して言えるのは,音楽とは常に音と人間の<あいだ>を前提としているという
ことであり,音楽の指導には「間」を生かすことが重要であるということである。「間」を
殺す指導からは音は聴こえてこない,聴こえたとしてもそれはせいぜい騒音であろう。
88 終 章 Conclusion
「音楽を合わせるとは」というテーマから出発した本研究であるが,本論での発見を通
してみると,この問い自体に問題があったと言わざるを得なくなった。なぜなら「音楽を
合わせるとは」という命題は意味内容上「音楽(という対象)を(我々の能動的な行為と
して)合わせるとは」ということになり,筆者が本論で否定した音楽をモノとして見る考
え方に通じているためである。したがって,「音楽が合っているとは」という問いの方が正
確であったように思われる。しかし,一般的に我々が合奏について考えるときの問いは「音
楽を合わせるとは」あるいは「音楽をどう合わせるか」となりがちであり,研究の出発点
としてはより現実的だったようにも思う。
ソンタグ(1996)は芸術の体験のいちばん始めの形は呪文や魔術であったと指摘し,諏
訪(2012)もまたテミアーの音楽的行為をコトとしての「体験」として記述する。芸術と
いうと「作品」というモノのイメージが付き纏いがちだが,佐々木(2004)も芸術の価値
なるものは18世紀まで作品を介して我々に齎される美的体験だったと指摘する。したがっ
て,本来音楽はモノではなくコトだったのであり,我々が合奏するにあたっても理想的に
はコトとして体験される音楽,演奏者すらもがその音楽そのものとして「音楽になる」こ
とが目指されるべきだと一貫して主張してきた。しかし,実際に合奏が行われている現場
では,楽曲という「モノ」を要素に分解し,その要素を個別に磨きあげてから,その集合