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第二章 音楽の「方向性」について

3. 山伏神楽の口唱歌

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ってしまえば,この「三番叟」の太鼓のパートを口で歌っただけにすぎない。しかし,興

味深いのは,これは舞いの振りを覚えるために師匠から教わるという点である。単に,囃

子を覚えてから云々,という手順の問題ではない。この唱歌はタイムキーパーや伴奏とし

て唄うのではなく,振りに直結するものとして受け入れられているのである。言うまでも

ないが,あるシラブルが特定の動きや振りを示しているのでもない。三番叟の口唱歌では

音楽を分節化する言葉が,そのまま動きを分節化する物差しになっているのである(小林

2008)。まだ何も知らない弟子が師匠の舞いを見ると,動きの総体としての師匠の動きには

まとまりやつながりを見出せず,漠然と流れてしまっているように見える。しかし,口唱

歌を覚えた人が同様に舞いを見ると,まとまりやつながりを見出すことができるようにな

るという。つまり,唱歌によって目の前の舞いの動きを分節化することができるようにな

るということを意味する。

三番叟の口唱歌で用いられている言葉は概念的な意味を伝えるのではなく,韻文として

の機能を有すると小林(2008)は指摘する。即ち,一つ一つのシラブルに恣意的に意味が

与えられているのではなく,最初からそのシラブルはある一文のリズムの中におかれてい

るのである。つまり,全体のうちの「要素」は,一定のリズムの中で成り立っているため

に,個別に抜き出すことができない。よって,この唱歌は,ある面では動きを最小単位に

分割しているものの,それらを単位化し,バラバラにしてしまうのを避けることに成功し

ていることになる。したがって,口唱歌を覚えた弟子は,個々のシラブルの意味として振

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りを見るのではなく,リズムというまとまりで舞いを目にすることによって,より少ない

情報量で舞いの動きを分節できたのだろう。

再び「歩くこと」の事例を思い出して頂きたい。口唱歌は「一,二,三」では説明でき

なかった足を蹴り出して歩くことを説明できる可能性を秘めている。「歩く」という行為を

外面的な位置関係で示すやり方で説明できないのは,歩くという行為がもっと複雑で,「一,

二,三」という点から漏れ落ちる要素によって実現しているということである。しかし,

唱歌はこの漏れ落ちる要素を意識化することに貢献し得る。例えば「三番叟」で「コデン」

という唱歌が歌われるとき,外側に表れ,確認できる舞いの動きは「デン」の部分に相当

する。しかし,この「デン」は単体で存在しているのではなく,「コ」という眼に見えない

動きが確かにあり,「コ」の関係性の中で,あるいは「コデン」というまとまりの中で初め

て意味を持つ「デン」という動きなのである。まさに動きを必要最低限の単位に分割しな

がら,リズムとしてのまとまりの中に動きが位置づけられ,組織化されている。

さらに山伏神楽の口唱歌の特筆すべき点は,この唱歌が舞いと囃子,両者の伝承に用い

られることによって,唱歌を媒介に山伏神楽という世界を生みだすことに大きく寄与して

いることである。太鼓打ちは口唱歌で太鼓を覚える,即ち,唱歌を桴の動きに移し替えて

いくことによって太鼓の演奏を習得していく。この「唱歌→桴」のプロセスで何らかの技

術的問題が出てきた場合,このギャップを埋めるのは稽古である。しかし,唱歌を直接イ

メージしているのはあくまで稽古の段階であり,実際に神楽を演じるときには頭の中にあ

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る口唱歌ではなく,眼の前の舞い手の動きが口唱歌の拍子として捉えられている。その場

では口唱歌を媒介として,太鼓と舞いが直接的に結びついている。一方で,舞い手は口唱

歌で舞いの振りを覚えていく。しかし,舞い手もまた実際の神楽の場では口唱歌を一々念

頭に浮かべて動いているわけではなく,太鼓の音がそのまま唱歌の役割としてあり,その

音を聴いて舞っているのである。この山伏神楽の場の様相を小林(2008 p.192)は以下の

ように記述する。

かたや舞い手自身のなかで,口唱歌を媒介に,音と動きが一つの輪を描いて循環してい

る。一方囃子手自身のなかでも,音と動きとが,円を描いて循環している。この両者が,

同じ口唱歌を媒介に重なり合う。舞い手のなかで,あるいは囃子手のなかで,あるいは

両者双方のあいだで,円環のどの地点でも,音と動きとは相互に入れ替え可能である。

あるいは,音と動きとがたがいを喚起しあっている。

山伏神楽では口唱歌を媒介に,舞い手も囃子手も神楽に「なっている」のである。これ

は単に「コデン」という唱歌に,太鼓の音と舞いが関連付けられているという以上に,唱

歌が神楽という現象を分節化することによって生起したものである。口唱歌は山伏神楽「で

ある」というベクトルを分節化によって生み出している。

ただし,全ての口唱歌がこの特徴を備えているわけではない。「チーラーロールーロー」

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で始まる雅楽≪越天楽≫の冒頭の篳篥の口唱歌は,今や学校の教科書に掲載されるほど有

名な一節である。雅楽も山伏神楽と同様,この唱歌によって教えられ,唱歌を覚えるまで

はその先の練習に進むことができない。唱歌を覚えてはじめて楽器に触れることができる

のだが,山伏神楽の場合と異なり,この唱歌は完全に篳篥奏者のためだけのものであり,

他の楽器の奏者との互換性もないのだという。また,宮内庁楽部の篳篥奏者 久恒荘太郎氏

(弘前大学大学院教育学研究科講義「教育実践研究Ⅱ(2013年1月26日 12:00~)」於:

弘前大学教育学部音楽ホール)によれば「チーラーロールーロー」という唱歌のシラブル

は流派によって異なり,音とシラブルの直接的な関連性はないという。つまり,この点を

鑑みれば≪越天楽≫の唱歌は旋律を覚えるためのツールとして用いられているのであり,

山伏神楽のように,世界の方向性をはっきりと示すほどには機能していないと言うことが

できる。

山伏神楽の口唱歌は総体としての神楽という現象を,韻文としての言葉のリズムで切り

取ることによって,舞いと囃子の伝承の機能として以上に,現象の「方向性」を示すこと

に成功している。口唱歌は山伏神楽の中で「世界把握の方向性」を示していると言うこと

ができるだろう。

4. 「撓み」と「方向性」

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森本(2011)が指摘した身体の「撓み」,そしてその「撓み」をも含めた(眼に見えるか

どうかを問わない)ある動きのまとまりを音として把握し,動きを分節することに寄与し

ていた山伏神楽の口唱歌,さらには口唱歌で音として意識化することによって示された現

象の「方向性」,これらは音楽についても適用可能だろうか。

山伏神楽の口唱歌が舞いの動きの分節化に成功したのは,それが一つ一つのシラブルに

振りが割り当てられているのではなく,それらのシラブルが韻文的なリズムの中で関連付

けられ,まとまりとして動きが分節されていたからであった。このことは,ドイツの医学

者であるV. v.ヴァイツゼッカー(1995)の指摘が興味深い。彼は精密生物学の始まりによ

って,生物は魂をもったものから刺激に対して興奮し得る物質と化してしまったと指摘し,

時間の概念を用いて有機体の反応が物質的な合法則性で表現することができないことを示

している。即ち,生命的な時間は客観的な時間(物理的尺度によって計測可能な時間)に

よっては説明し得ないとした。この前提を出発点とし,彼は「定常図形時間の法則」を打

ち出す。この法則とは,空中に円を書くのに要する時間を計測すると,図形の大きさと無

関係に時間は一定である,というものである。これはあくまでもある一個体について一定

だと言えるものであって,図形と時間との関係が普遍的に一致するという意味ではない。

この結果を受けて,彼は「有機体の運動は最初の時間部分から既に作業の全体を先取りし

ている」という説を提唱し,これを「先取/プロレプシス」と呼んだ。即ち,ある図形を

書くという行為のリズム(「時間幅」)は運動が始まる前にその個体の型として決まってい

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ると指摘する。この時間は物理的な尺度で測定できるものではないので,図形の速さを意

図的に操作しようとすると図形が歪んだり,なぐり書きのようになってしまうと指摘して

いる。但し,ヴァイツゼッカー(1995 p.26)はこの概念の誤用を避けるため以下のように

明記している。

先取的/プロレプシス的に結果を発端に組み込む考えから,生命現象について非常に評

判の悪い解釈が,つまりいわゆる目的論的な解釈が生まれてきた。ただしこの[目的論

Technologie という]アリストテレスの作った言葉が「合目的的」の意味に解され,未来の

ほうから現在に向かって前もって作用を及ぼしている因果形式という意味にすり替えら

れたのは,完全な誤用であった。

したがって,この概念を口唱歌と関連付けるならば,口唱歌は言葉によって個体の「時

間幅」を解体し,神楽の舞いとしての身体へと舞い手の身体を方向づけている,というこ

とができるように思える。「一,二,三」という単に均質なカウントでは適切に動きを分節

できず,点にある動きを当てはめ,それをなぞるだけの不自然な動きになってしまうが,

口唱歌による分節は,プロレプシス的に決まっている個体の時間幅を韻文的なリズムによ

って解体,あるいは矯正し,神楽としてあるべき方向(神楽の身体の「時間幅」)へ方向づ

けるように機能しているのである。ヴァイツゼッカー(1995 p.75)は「生物[学]的/生

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