第三章 音楽の指導について
3. 指揮者と演奏者
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揮者が選ばれ,ときに神格化されるほどの権威をもった存在になるということは,我々は
単なる拍取りや図形描きという手段や能力を超えた別の何かに指揮者の本当の力を感じて
いるからであろう。
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この立場から丸山(2011)は指揮者とオーケストラの関わりの事例を二点挙げている。
一つ目の事例は指揮者 Uriel Segal 氏とインディアナ大学音楽学部室内管弦楽団によるリ
ハーサルからの一場面である。演奏曲目・演奏箇所は P. I.チャイコフスキー作曲≪弦楽の
ためのセレナーデ≫より 第4楽章 380小節(譜例1),突如表れる全休止(譜例中央部)
である。ここで指揮者は全休止の部分について,直前のトゥッティの最後の音を弾き切る
ように,大きく腕を振り上げる動作を示しながら(図 5),以下のような指示をオーケスト
ラに与えたという(丸山 2011 p.20)。
最後の 8 分音符を弾き切ったら,(弓を)弦から引き離すように・・・そこに留まっていな
いで[When you play the last eighth note, get off the string… Don’t stay](邦訳丸山)
さらにこの点についてのインタビューでは指揮者は以下のように語っている(丸山 2011
p.20)。
これは,楽曲のこの箇所で大きなブレスが必要になるからです。こうゆう“ハァーーー”
(大きく吸気する)っていうのがね,必要なんです。で,この身振り(引き切る身振り)
をすることによって,息が入るでしょう。だから,こうするように指示したんです
[Because, at that point of the music, I need a big breath. I need this “Huhhh…!! …I
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think this gesture will give you the breath. That why I want to ask・・・”](邦訳丸山)
ここで指揮者は,その全休止を具体的にどのようなものにするのか,次の音を揃えるか
否かを具体的に指示しているのではなく,直後の音を演奏するための「準備」,言い換えれ
ば「間」の取り方を示しているだけである。
二つ目の事例は,丸山が立ち会った指揮者 沼尻竜典氏とトウキョウ・モーツァルト・プ
レイヤーズによるL. v. ベートーヴェン作曲≪交響曲第5番 ハ短調≫より 第1楽章 冒頭
(譜例 2)のリハーサルを 3 日間にわたって観察した様子である。丸山(2011)は指揮者
及びオーケストラのパフォーマンスを高速撮影カメラで記録した。譜例 2 からわかるよう
に楽曲冒頭は8分休符から始まっており,基本的には右腕の落下地点が8分休符の拍点で
ある。初日及び 2 日目に見られた指揮動作は右腕が垂直方向に持ち上げられ,それが真下
に振り下ろされるというものであったのに対し,3日目の途中からは両腕を水平方向に大き
く投げ出すような動作になったという。どこの部分が 8 分音符の拍点なのかわからないほ
ど 2日目までの動きとは大きく異なっていたと丸山(2011)は述べる。また,この指揮者
の動きに対するオーケストラの反応として,指揮者の腕が「8分音符」のタイミングを示す
一に到達した時点と,コンサートマスターの弓の動き出した時点との時間差を各日毎に平
均すると,図 6 のデータが得られたという。即ちこのデータは両者間の間合いの変化の推
移を示している。このデータを見ると,3日目のレコーディング・セッションではその時間
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差は非常に大きくなっているが,エラーバーの幅からその一貫性は高かったと言える。こ
のことから,リハーサルの繰り返しの中で指揮者とオーケストラは間合いを共有し結び付
きを強め,これによって指揮動作の大きな変化は混乱ではなく,オーケストラから探索的
な態度を引きだしたのだと丸山(2011)は分析している。「探索的な態度」の定義とその妥
当性に関しては議論の余地は残るが,これらのデータを通して指揮動作と演奏者の「あい
だ」及び「間」に何か重要な要素が潜んでいるということができるだろう。
これら二つの事例に共通しているのは,指揮者の指示や動作はあくまでもその後の音楽
に向けられたものでありながら,その動作自体は音楽の前の時点で完結していることであ
る。また,指揮動作の変化がオーケストラとの間合いに変化を与えた点から,指揮動作が
音楽のあり方,あるいは演奏者の身体のあり方に大きく影響を及ぼしていることは明らか
である。
指揮動作については新山王(2004)も同様の研究を行っている。新山王は演奏者ではな
く指揮者の指揮動作と動作タイミングに着目し,音楽の拍点(メトロノーム音で代替)に
合わせて基本指揮動作(二拍子,MM = 112及びMM = 66)を行った時の拍点と打点の関
係性について,初心者と熟達者を比較,分析している。この実験によって,①熟達者の指
揮動作タイミングは拍点よりも指揮も打点が先行する/初心者は拍点と打点がほぼ一致す
る,②熟達者の指揮動作加速度は上げ動作の方が大きい/初心者は下げ動作の方が大きい,
ということが明らかになり,熟達した指揮者は実際に音が鳴る「前」に重要な役割を果た
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していることが明らかとなった。また,この実験の結果は,新山王自身が明らかにしたマ
ーチング・ステップの実験結果(経験者:「拍点足上がり型ステップ」,未経験者:「拍点足
下がり型ステップ」あるいは「拍点確認型ステップ」)との関連性も伺うことができる。
これらの事例から,指揮者は対象となる音を鳴らす前に重要な役割を担っていることが
明確になったと言える。よって,重要なのはこの指揮者と演奏者との「間」で“何が”起
こっているのかということである。両者の「間」で起こっていることには二つのレヴェル
があると考えられる。まず一つはシグナル(信号)としての作用である。これは当然ある
特定の文化に支えられて存在しうる作用ではあるが,つまり,指揮者の大きいサインに対
する強い音(フォルテ),素早いサインに対する鋭い音(スフォルツァンド,スタッカート)
という比較的パターン化された「指示―反応」関係で結ばれた作用である。二つ目は「指
示―反応」という形での特定の内容をとらない記号体系である。この関係性においては意
味内容の不在から,指揮者は演奏者に対して指示そのもの,シニフィアンそのものとして
対峙することになる。つまり,この関係での指揮者の動作は,演奏者の環境としてのある
方向性としてのみ作用するのである。前者のレヴェルは記号でありパターンであるため,
指示の発信者を問わず,機械的に指示することが可能である。即ち,丸山(2011)が見た
指揮者が単に指揮棒を振り下ろす動作(実際にはもっと複雑な作用が演奏者に働いている
が)は極端に言えば誰にでもできる。しかし,3日目のレコーディング・セッションで見ら
れた水平方向への指揮動作は単に真似しても何の意味もなく,その時,その場での指揮者
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とオーケストラの関係性においてのみ意味を持ち得る後者の作用はかけがえのないものと
してオーケストラに方向性を与えている。つまり,指揮者に権威が与えられ,ときに巨匠
と呼ばれるほどになるのは,この後者の力に関わっているのだろう。合奏をし,「音楽にな
る」ためには,少なからず音楽の方向性を示す後者の作用に目を向けなければいけないだ
ろう。指揮者はオーケストラに「方向性」を示す役割として存在しているのである。
4. 「わざ言語」について
指揮者が演奏者に音楽の「方向性」を示すための手段は指揮動作だけではない。リハー
サルにおいては指揮者が慎重に選びだした言葉が用いられることもある。しかし,第二章
でも述べたように,言葉はコトとしての世界を切り分けるために,音楽に弊害を齎す場合
も少なくない。音楽は鳴り響く音の形式であり,コトとしての世界であるにも関わらず,
言葉の音声は意味内容と恣意的に結びついているが故に,簡単に形式そのものとして在る
音楽を内容にすり替えてしまう。しかし,コトである音楽の世界だけでなく,ある「状態」
を目指す,即ち,ある「わざ」の獲得を目指すシーンの多くで言葉は頻繁に,かつ有効に
使われている。
生田(2011 p. 9)は「わざ」についてG.ライルの理論を援用しながら
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・・・・・・「行為」それ自体は「技能」ではない。それは,高次の「傾向性」として語るこ
とがふさわしい「状態」としてみなされなければならない。そしてその到達には,行為
のテクニックや手続きの知識といった「技術」の習得が含まれることは当然であるとし
ても,そのような「技術」の習得は「技能」の到達を保証するものではないということ,
さらに先に述べたように,この両者をめぐるそれぞれの議論は論理的に異なるカテゴリ
ーの議論であるということである
と述べる。この「わざ」を巡って,さまざまな「わざ」の世界でその伝承の折に頻用され
ている,科学言語や記述言語とは異なる独特な言語表現を指す(生田 2011)「わざ言語」
という概念がある。具体例として,スピードスケートの例がある。スピードスケート・コ
ーチの結城匡啓は,スケートの刃を氷の上に置く感覚を「はりつける」という語で表現す
る。当然この語が意味するのは,実際に刃に強力な接着剤で氷にはりつけるということで
はないので,結城のスケート選手としての身体感覚をメタファーとして言語化したものに
すぎない。また,これは「はりつける」という感覚そのものではないので,何か直接的に
他人に理解され得るような言葉ですらないのである。結城はかつてスピードスケートの小
平奈緒選手に指導する際にもこの語を用いたという。しかし,今述べたようにこの語は具
体的な意味を持っていないので,小平選手はこの語にピンと来ず,コーチがそれだと認め
てくれる何か別の感覚を「はりつけ」という名称で理解していたに過ぎなかった。しかし,