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ドキュメント内 第3章 出土遺物の自然科学的分析 (ページ 54-59)

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図咽38 周辺地域出土吉備系ま師器椀法量分布図

ロ径

(cm)

法量や形態は地域差が減少する。鹿田遺跡ではB1類のみの1期とB2類とCla類が併存する2期 とに分けられる。2期には器高の低下が顕著となる。備中では鹿田遺跡のBl類の分布域とこ

       くエリ

く近い位置にCla類(備中国府跡2次調査)が分布しており、ミガキ調整の省略化に地域間差 があることが予想される。

 躍期:1期はC恥類に対応し、拡散期と言えよう。遺跡数・遺物量が増加する段階である。

器高の低下に中心をおく法量の減少が進み、ミガキは完全に消失する。2・3期はC2・3類に 対応し、口径・器高の縮小が急速に進む。その結果、小形の浅椀に形を変える。

 騨期:C3b類とD類が併存する。椀形態を保つ最終段階である。法量の縮小は皿に近似する までとなり、高台の消失も認められる。地域間に法量差などにややばらつきが認められる。

め.薩期の存窪について

 椀の変遷には法量変化が大きな要素となり、それにミガキ調整の変化が係わる。この両者が 大きく変化する段階が駈1期である。この段階の前後での様相は、基本的部分で全く異なるよ うに思われる。1・聾期では大きく深い光沢のある白色椀というものが求められていたのに対 し、1聾1期ではすでに深さと光沢が失われ、吐2期以降では急速に小形の浅椀への変貌を遂げ てしまう。色調も鹿田遺跡では白さが残るが、備中南部地域では備中国府の資料に見られるよ       くヱリ

うに璽期にはすでに白色とは言えない状態となる。つまり、吐1期が大きな画期と成っている ことは明白で、椀形態という点でのみ本来の姿をとどめはするが、他の要素からみると大きく       くユ  

異なる器に転換したとみなされる。そこには、椀の存在意義に変化があったと考えざるを得な いo

(4)地域性と工人集団 綾.地域鮭の袖出

 吉備系土師器椀の時間的変化をここまで見てきたが、その中で、互一1期・W期のように地 域性を示す時期や1−2〜亜期のように共通性を高める時期の存在を指摘した。この地域性を 少し具体的に検討してみよう。空間的変化を考える要素としては、法量・胎土・ミガキ調整・

形態が挙げられる。前三者は比較的明瞭かつ直接的にその差を抽出することが可能である。問 題は形態である。形態を特徴づけるものとしては体部のカーブ・口縁部の仕上げ方・高台部の 形状が主要な構成要素となっている。この内、前二者は製作技法上の問題から安定的形状が保       くまの 障される可能性は低く、口縁部の仕上げ方などによるカーブの変化などに微妙な違いをみせる ため、現段階でまとまりを抽出することは困難である。高台部に関しては、椀形態のバランス の中での比率に大・小があるのに気づく。助三畑遺跡の井戸の資料では高台径の大小がタイプ       

分類の要素となり、工人差として捉えられている。また、鹿田遺跡では、高台径は1期では径 6〜7.5c配器高1働前後、㎜一1・2期では径4。5〜7.5c配器高0。5〜1。1c鵬、亜一3期では径4〜5幟、

器高0.2〜0.6c醗の数値を示す。この数値の変動から腫一3期には法量の急速な変化に伴う縮小化 が顕著に現われているが、他の時期では明瞭な変化に乏しいことが読み取れる。このように高 台部の変化は時間的変化と強く結びついたものではなく、むしろ工人集団差の影響を受けての 変化が存在する可能性が高いと考えられる。そこで、口峰と器高に高台径を加え、椀のプロ

        くユ  

ポーションを立体的に捉えた形態比(図142)を地域性の要素に加えることとする。

む.地域差と背景 く互期>

 1期に属する遺跡はわずかで、鹿田遺跡(5次調査土堤15)と備中南部地域に位置するこう

  く の      

もり塚・下三輪遺跡が挙げられるのみである。鹿田遺跡の資料は既に説明を行っていることか ら、他の2遺跡の資料を簡単に紹介しながら三者を比較したい(図139・140)。

 こうもり塚の資料は口径16,6c配器高6。4囎、下三輪遺跡の資料2点はロ径16。3c鵬と16。4cm、

器高はいずれも6幟を測る。白色を呈し、胎土に石英粒も含まれる。外面のミガキの密度は非 常に高く、器壁も薄く、焼成は非常に良好で、下三輪の資料では須恵器の色調に達する部分も ある。硬質感を有し光沢のある大形の白色深椀という点で、鹿田遺跡の資料を含めて共通して いる。しかし、法量の点で共通するのは器高のみで、ロ径では鹿田遺跡がやや小さく区別され る。またミガキを詳細に観察すると、こうもり塚では外面に非常に密で幅は広く一単位は短い。

一方、下三輪遺跡は外面よりも内面のほうの密度が高く、こうもり塚の資料以上といえる。ミ ガキの幅は狭く一単位は長く直線的で、全体にシャープな感じを受ける。胎土は各遺跡内では 共通するが、遺跡問ではいずれも明瞭に異なる。こうした状況は体部のラインにおいても認め られる。同一遺跡内出土の吉備系の椀はそれぞれほとんど一致したラインを示す(図140づ〜3

)のに対して、異なった遺跡問そして地域を越えるとさらに大きなずれが生じ、体部のカーブ や高台形は三者三様の姿をみせる

跡の資料は[1縁部が肥厚せず丸く

       一藝 終わっている点や形態比で共通性      萎薫 が高く、地域の離れる鹿田遺跡と

の差に比べればその差は少なく、

区別されるものである。

 以上のように、互遷期では硬質 な光沢のある大形の白色深椀とい

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11こうもり塚 5:窪木・宮後遺跡 2〜41下三輪遺跡

図騒39 備中地域出土吉備系土師器椀く1期〉 縮尺1/5        (山本原図)

う外見上の大枠の中での共通性は高いが、個々の諸要素を比較すると三者三様の異なりをみせ る。その中で、別タイプに見えるこうもり塚と下三輪遺跡の資料であるが、形態比や口縁部の 仕上げ方などの点で鹿田遺跡のものとは一線を画する点は注目される。つまり、いわゆる「吉 備」南部を包括する白色椀指向の世界の中で、ある程度の地域的まとまりを有しながら、製作 工人集団の独自性が発揮されていると考えられるのである。

 2・3期では形状も共通性を高め(図140−6)、ある程度の地域的まとまりを拡大し地域差を 減少させる傾向を示す。それは、鹿田遺跡で日径がやや大形化し、形態比の分布域が備中南部        く   

域のものと一致してくる点(図137・142一②)や、窪木・宮後遺跡井戸SKOO3の資料のように、

備中の遺跡でありながら備前的な胎土や形態を有するものの存在から想定される(図139−5)。

〈聾期〉

 法量・形態比はい

       〆 ずれの地域でもほぼ       7 同一の範囲内におさく同一遺構内

       での比較〉

の消失時期綱遺く識謬    \_ノ…〃

跡と備中地域の遺跡

       1一ユ期 ミガキのB類が存在

するが、後者ではほ ぼ同一法量でミガキ

       1−2・3期の消失したCl類が        図韓0

出現している。また、

備中国府の資料では 胎土も異なり白色性 は失われている。つ

       く須恵器問の比較〉

まり、椀の法量や形 態では共通性を高め

      く吉備系

るが勘作時の雌土雛璽嘉砒較〉

化に係わる点、ある いは工人の在地性を

       61鹿田2次土壌ユ23        〈青〉

       ユ:鹿田5次土鑛ユ5        2:下三輪遺跡        3:鹿田ユ次井戸21        4・51こうもり塚        61窪木・宮後遺跡        井戸4042 吉備系土師器椀形態比較図〈1期〉 縮尺1/4        <黒>

       1:鹿田遺跡大溝        21鹿田5次土壌15        31こうもり塚        く青>

       1〜3:板井砂奥遺跡       1

        2      3

図糊 吉備系土師器椀と須恵器椀との形態比較図〈1期〉 縮尺1/4

示す点では地域差を残す。

〈亜期〉

 法量の画一化(図137・138)が進むが、それとは逆に、胎土や形態比のばらつきは拡大す る(図142一④・⑤)傾向を強める。一般的に、法量分布が集中するという特徴から地域性が低 下する方向が考えられがちである。しかし、それは生産地の統合につながるということではな く、同一遺跡内での胎土や形態比のばらつきの拡大に視点を置けば、逆に、生産地の増加、拡 散がこうした状況を生み出す可能性を考えることができる。ただし、現状ではそうした小地域 差のまとまりを抽出することは困難である。

〈w期〉

 基本的には前段階からの流れを踏襲するが、法量面にばらつきを生む(図137・138)。鹿田 遺跡では高台径が大きく、口径よりも器高の縮小率が高い傾向が認められるのに対して、備中 では両者一律の縮小化が進む。そのため形態比もやや異なる数値を示す(図14乞⑤)。

 こうした地域性を生み出す原点は、この椀を成立させた背景に求められる。1遣期の問題で あるが、備中南部では既に黒色土器との共通性の高さから土師器製作集団からの系譜が想定さ

   く  

れている。では、鹿田遺跡のものはどうであろうか。この資料は前述したように備中南部のも のとは各要素で異なる特徴を示す。その特徴である高台部の形態・横ナデ仕上げによるロ縁部 の外反と肥厚・器壁の薄さ、こうした点は強い回転ナデを利用したことを想定させる。ここで       く め 体部のカーブについて須恵器椀と比較してみよう(図141)。板井砂奥遺跡出土の須恵器椀は、

同じ備中に位置するこうもり塚の椀とはかなりずれる(同一3)のに対して、鹿田遺跡の吉備系 椀はほとんど一致する(同一2)。そして、板井砂奥遺跡は備前に位置する鹿田遺跡から出土し

    く の

た須恵器椀とも、大きさは異なるが、ごく近いカーブを示す(同一1)。つまり、須恵器椀では 体部ラインは地域を越えて共通する傾向をもち、初現期の鹿田遺跡の吉備系椀はそれにごく近 いラインを有していると言える。確かに、1点の須恵器椀をとり上げての比較は、非常に危険 である。しかし、それに加え、硬質感の強い色調と焼成状態なども考え合わせると、須恵器製 作技術の影響が強いことを示唆している判断される材料にはなり得るであろう。地理的にも備 前東部には須恵器窯鉦群が展開しており、備中南部地域とは異なる技術基盤の上に成立した可 能性が高い。

 以上のように、瓦器に見られるような明瞭な地域性を抽出することはできないが、出現期に は様々な点において違いが出現しており、消滅期にはわずかではあるが、高台部分にそれを認 めることができ、それぞれの工人集団のもつ技術的背景がおおきく関わっていると考えたい。

ドキュメント内 第3章 出土遺物の自然科学的分析 (ページ 54-59)

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