瞭
首長墓 1.一宮天神山2号 2.中山茶臼山 おつか 9.一本松 10.津倉 16。備前車塚 17。宍甘山王山
生活趾 a.山神 b.津島岡大 c.津島江道
赤田 鑑.乙多見 1〜P.百間川遺跡群(1。原尾島
寺院A。神力寺B.石井C.網浜
認_一プ_操山㌔
鹿田遺跡 簸,/題艦 蜜一
3.矢藤治山 4.尾上車山 5.青陵6.七つ斌1号 7.都月坂1号 8.
1 .神宮寺山 12。網浜茶臼山 13.操山109号 14.湊茶臼山 15.唐人塚 18.操山51号 19.金蔵山 20。旗振台
d。津島 e.伊福町 f.南方 9.天瀬 簸.二日市 i.雄町 」.
脇.沢田 n.兼基 ◎.今谷 欝.米田)
D。賞田 E.居都 F.幡多
図30 鹿醗遺融と岡幽平野の地域集國 縮尺1/100,000
岡山市教育委員会「岡山市埋蔵文化財分布図」(1983)を参考として作成。矢印は前期の首長墓系譜を示す。
吉備中山と矢坂山とに挟まれた笹ケ瀬耀下流の一帯で、中幽の尾根上に矢藤治幽墓から申山茶 臼幽古墳・尾上車幽古墳と続く首長墓系譜を認めることができる。
対応する弥生集落としては、中幽西麓の足守川流域にある淵入遺跡などを候補とみるのも一 案であろう。しかし、この古墳群が笹ケ瀬川流域を望む中幽の東半部に拠って展開すること、
東麓にも曲神などの弥生遺跡があり、古代寺院の神力寺廃寺が建立されていることなどから、
小考では笹ケ瀬耀流域まで基盤に含めた1地域集団の存在を想定し、地名をとって一宮・尾上 グループと称したい。
(3)弥生時代の4集団
以上に想定した4つの集団は、互いにどのような関係をもちながら発展の道筋をたどったの だろうか。まず弥生時代の状況について考えてみよう。
伝統駒集國と薪興の集羅 成立の時期と立地からみて、4集団は大きく二通りに分かれる。
第一は津島グループと雄町・百問川グループである。これらはともに、古く縄文時代から入々
の生活拠点となっており、弥生前期には早くも農耕が開始された。これに対して第二とする鹿 田・天瀬グループと一宮・尾上グループとは、弥生時代の中期以後になって、海浜に近いとこ ろに初めて形成されたとみられる。前者を内陸寄りの伝統的なグループとすれば、後者は海浜 の新興グループと位置づけることができよう。
鹿田集落が出現する中期後半は、九州から畿内にわたる地方間の交流が急速に活発になった 時期と考えられ、瀬戸内海の海上交通ルートに対する沿岸諸集団の関心が高まっていた状況が
くら
推測される。児島の貝殻山・種松山、あるいは対岸の香耀県紫雲出山など瀬戸内の高地性集落 の多くはちょうどこの時期に現われており、その主たる機能のひとつが瀬戸内海航路の監視に く
あったことはほぼ疑いない。鹿田のような臨海グループの成立は、中期以降に盛んになる分村 活動の延長上にあるもので、河日部デルタの拡大に乗じて内陸部の故地から海浜へ進出した結 果と、大まかには捉えられよう。ただしその背景には、いま述べたような海に対するアクセス への気運が高まった状況が想定されるのであり、臨海へ出たグループは、海を媒介とする外部 社会への窓ロという役割を武器に、しだいに独自性を主張して、新興の1集団としての地歩を 固めていったのではなかろうか。あるいはまた、水産資源の獲得や島しょ部の製塩集団との中 継の拠点となりうる立地を活用して、経済的にも地域社会内で軽からぬ地位を占めるに至った
と考えられる。
集國問の一体魅 さて、この地域の弥生諸集団問の関係において、いまひとつ注目しなけれ ばならないのは、居住様式の特質であろう。各々直径5km前後のテリトリーをもつ諸集団が の
連接するという点では、酒井龍一氏が想定した畿内弥生社会の空間構造と共通する。しかしな がら、畿内中央部では集団の政治・経済上の中枢として機能する環濠集落を設営して永続的に 集住するのに対し、この地域では自然の微高地を最大限に利用して分散居住し、しばしばその 移動をみるという点で、様相を大きく異にする。このような、明確かつ永続的なセンターをも たない居住様式は、各集団の政治・経済上の中枢機能の発現が畿内に比べて顕著でなかった状 態を反映するものであり、1個の政治・経済主体としての独立度が相対的に低かった可能性を 物語るものといえよう。また、環濠などの防御施設が普遍的でなく、石製武器の発達も畿内中 央部ほど著しくないことなどから、集団問の緊張関係は、畿内と比べれば小さかった状況が推
くお
測される。つまりこの地域では、隣接集団同士の関係は、畿内のように互いに自立・自衛した 拮抗的な関係ではなく、より開放的・一体的なものであった公算が強い。このような集団問関 係が醸成された背景として、地形上完結したいくつもの小地域が並び、それぞれの内部に1本 の河川を共有する複数の集団が共存するという、畿内にはあまりみられない吉備地方特有の条 件が働いた可能性が想起されるが、このことについての深い検討は後日に譲りたい。
(4)古墳時代の動向
酋長墓系譜の二糎 さきに、4グループを、内陸の伝統的集団と海浜の薪興集団とに分けて 性格の違いを述べたが、その差は古墳時代にも引き継がれるようである(図130・131)。つま り、伝統的集団の津島グループ、雄町・百問瑚グループでは、首長墓系譜は前方後方墳から始 まり、周囲の幽塊上に、領域を巡るように築かれる。これに対して鹿田・天瀬グループと一 宮・尾上グループでは、首長墓は当初から前方後円形で、海を望む山塊上に比較的集中して作
られる。
海浜のグループが、臨海性の前方後円墳から成る首長墓系譜をもつことは興味深い。首長墓 が海に面することは、これらの集団の弥生時代からの伝統的性格を物語るかのようである。ま た、前方後方墳よりも前方後円墳が、畿内中央政権に親密な政治的位置づけを示すという説を
く
考慮し、しかも内陸のものより大形である点に注目すると、外部への窓日という特性をもった これらの集団が、前方後円墳体剃の成立時に畿内勢力といち早く接触し、畿内とこの地域とが 結ぶ際の伸立ちの役割を果たして厚遇された可能性が想定されよう。
内陸と海浜とでこのような差が認められるとはいえ、全体としてこの地域は、前方後円墳体 制の成立にあたって、畿内ときわめて密接な政治的関係にあったことは疑いない。車塚古墳へ の三角縁神獣鏡の多量副葬や、都月型の特殊器台形埴輪が円筒埴輪の成立に果たした役割の大 くユの
きさは、そのことをよく物語っている。とりわけ、この地域に多い都月型やその後続型式の埴 輪が奈良盆地で認められることや、この地域の初期の首長墓の多くが箸墓古墳を基準とした設 くユユ
計によって造営されているらしいことなどは、前期の政権中枢を握っていた大和の勢力との親 密な結び付きを示すものであろう。
勢力の盛衰 4集団の首長墓系譜は、その後、前期の後葉〜末頃に最盛期を迎える。神宮寺 幽・湊茶臼山・金蔵山・尾上車幽の4墳は、ともに全長130〜160m台の規模をもち、細かい築 造時期の差はありうるが、被葬者の活動期間には重なる部分が多いとみられる。ところが、こ
の隆盛を最後に、首長墓は急速に縮小し、海浜の2グループではほぼ消滅してしまう(図131)。
この現象は、西隣の備中東部の諸集団の首長墓系譜が、その後著しい隆盛の時期を迎えるこ とと対照的である。備中東部の総社平野では、前期後葉の大型円墳である小盛山に続いて佐古 田堂幽古墳が現われ、中期には造曲一小造山、作山一宿寺山という2本の大形前方後円墳の系
くユ
譜が認められる。
備前の岡山平野から備中の総社平野へというこのシフトは、何を意味するのであろうか。岡 幽平野の勢力が大和と親密な関係にあったことはさきにみたが、たとえばいま、この地域で最 後の大形墳となる金蔵幽古墳の円筒・蓋彩などの埴輪をみると、すでに形成が始まっていたと 考えられる古市古墳群からの影響は直接的とはいいがたく、むしろ半円形の透孔や鰭など、大
一宮・尾上
Oループ 津島グループ
鹿田・天瀬 Oループ
雄町・百間川
Oループ 周辺地域の有力首長墓 i100m以上の前方後円墳,50鵬以上の円墳)
弥 津 島 雄町
生集落
山神? 南方
ノ福町 天瀬
ュ 田
百問川
備中地域 1 備 前 地域
年代3⑪o
矢藤治山管 (36)
都月坂2号醗(20×16)
@ 七ツ跳1号
@響 (45)
s『親
盤 操山109号 (76)
蟹醐48)
▲llll 浦間茶臼山
網浜茶臼山 中山茶臼山
@(約120)
聯鮪(45) (92) 曾 山王山 (68)
尋⑬⑪
神宮寺山
@ (約150)
@ 青陵T (約5◎)