一宮・尾上
Oループ 津島グループ
鹿田・天瀬 Oループ
雄町・百間川
Oループ 周辺地域の有力首長墓 i100m以上の前方後円墳,50鵬以上の円墳)
弥 津 島 雄町
生集落
山神? 南方
ノ福町 天瀬
ュ 田
百問川
備中地域 1 備 前 地域
年代3⑪o
矢藤治山管 (36)
都月坂2号醗(20×16)
@ 七ツ跳1号
@響 (45)
s『親
盤 操山109号 (76)
蟹醐48)
▲llll 浦間茶臼山
網浜茶臼山 中山茶臼山
@(約120)
聯鮪(45) (92) 曾 山王山 (68)
尋⑬⑪
神宮寺山
@ (約150)
@ 青陵T (約5◎)
くエの
れば、備中一河内というラインから外れたこの地域の諸首長は、もはやかつての地位を回復で きず、畿内に対してきわめて低い、従属的な地位に転落したと推測することができよう。
尋集羅の紐箒 さて、ここで注目したいのは、以上のような首長墓系譜の盛衰が、この地域 においては1系列単位でなく、数系列からなる地域単位で認められることである。岡幽平野の 4集団についていえば、同じ時期に古墳を築造し始め、ほぼ岡じ頃に盛期を迎え、同時に衰退 した。運命共同体的ともいえるこの関係は、政治的な行為において4集団がつねにひとまとま りとして動き、あるいは畿内政権によっても半ばそのように把握されていた可能性を物語る。
大胆に推し量れば、4集団は、政治的な意思を共有する一体的関係にあったと推測され、その 意味では、4つの支群からなる1つの大集団とみなすべきかも知れない。いずれにせよ、弥生 時代の居住様式に表れた集団同士の一体牲・非独立性は、こうした形で吉墳時代にも尾を曵い ていると理解しうるのである。
申期には首長墓系譜が津島グループ内の1本のみとなり、後期にはそれが雄町・百問規グ ループ内へ移動するとともに、集落や集団墓もみるべきものがこの領域にほぼ限られるように なるが、これも4集団個々の盛衰あるいは統廃合という側面から捉えるより、それらの一体性 を背景とした現象とみなすのが妥当と考えられる。つまり、各集団(支群)が、一時的に生活 域を集中させるような動きをみせたと捉えうるのであり、その実態や理由はただちには明らか にしがたいが、いまみたような、中期以降における吉備社会での主導的地位からの転落や、中 央政権への従属化の進行などの政治的変動が引金となって、この地域の集団構造に大きな再編 成が生じたことに、根本的な要因が求められよう。ただし、このような状況下においても地域 集団としての各支群の連続性が断たれたわけではなかったことは、後になって、その本貫地と
もいえる領域内に、それぞれ古代寺院が建立されているとみられる点からも推測できる。
(5)鹿田集落の変遷と地域集団の動向
ここで再び、視点を鹿田集落に戻し、その集落構造の変遷が、以上にみた集団や地域の歴史 の中でどのように評価できるかを考えてみよう。なお、集落構造の変遷過程は、第1・2次調 査の報告書でまとめられており、今回の調査結果を合わせても、基本的な認識に変更はない。
弥生寧期綾学一古墳時代籾鑛 鹿田弥生集落は中期後半に始まる。ただし、同じ集団を構成 すると考えられる北東50伽の天瀬遺跡に中期前葉の単純包含層があることから、この天瀬集 落の方が数十年〜百年以上も先に成立していた可能性が高い。天瀬集落の創始者は、地理的条 件からみて、おそらくは北3㎞の津島集落を核とする集団から分かれてやってきた人々であろ う。中期に盛んとなった分村活動のひとつであったと考えられるが、同じ頃に津島から分かれ たとみられる南方などの諸集落に比べて、異常に遠い分村であったことには注意される。ある
いは津島とは別系譜の集団であった可能性も絶無とはいえず、今後、土器の分析などによる細 かい検討が必要であろう。
いずれにせよ、彼らが津島など既存の集団から離れた場所に根付いたことは、その後、ひと つの集団として独自的な発展を示す基盤となったに違いない。それには、後期にかけて顕著と なる河ロ部デルタの拡大という好条件も幸いしたことであろう。鹿田集落は、発展の軌道に 乗った天瀬の集団が分岐し、隣…の微高地上に居を構えることによって成立したものと想定され
る。その意味では、鹿田よりもむしろ天瀬がこの集団の中核的集落であった公算が強い。
その後弥生後期にかけて、天瀬・鹿田の2集落がともに安定した発展をみせた様子が、遺構 や遺物の状況から窺われ、北東の古京町、南の二日市、西の大供などにも生活域を分岐させて いった形跡がある。この集団のテリトリーは、旭川が網流して瀬戸内海に注ぐ辺りの肥沃な拡 大途上のデルタを基盤とし、現在は旭川本流によって隔てられている操山の西斜面の山林や、
往時はその麓近くまで迫っていた海岸などを、その中に含んでいたと考えられよう(図130)。
海岸部をそのテリトリーに含んでいたことは、さきにも述べたように、この集団のその後の 経済的・政治的活動に深い影響を及ぼすことになった。第一は、海産資源の獲i得・供出という 経済的役割である。多量の土錘・石錘の出土が物語るように、鹿田や天瀬の集落の経済的基盤 の一部が漁携活動にあったことは疑いない。製塩土器も出土しており、鹿田では炉状遺構の存 在などから近くで製塩を行なっていた可能性も説かれるが、島しょ部などの製塩集団との接触 によって塩を入手していた状況も想定すべきであろう。さらに、他地域で研究が進んでいる弥 くヱの
生集落間の流通関係の実態から類推すれば、こうして獲得・入手した塩や魚介類などの海産物 は、すべてが自集団内で消費されるのではなく、おそらくは津島など内陸寄りの集団に、何ら かの交換物資と引換えにもたらされていた可能性が高い。こうして地域流通圏の一角を担うこ とにより、鹿田・天瀬の集団は、地域の中で相応の経済的役割を演じる1集団として地歩を固 めていったと考えられる。
第二は、海を媒介とした外部社会との接触という政治的役割である。瀬戸内海を経路とした 情報伝達や物資流通が中期末頃からいっそう盛んになったことはさきにも触れたが、やがてこ の流通ルートをめぐる地域間の主導権争いの中から、前方後円墳体制という新たな政治秩序と
社会とが生み出されることになる。こうした変動の中で、この海上流通ルートに直面する位置 にある鹿田・天瀬集団は、後背諸集団の外部に対する窓ロとして、古墳出現前夜の激動期には 情報をいち早く察知する機会を得、鋭敏な政治的反応を示したに違いない。瀬戸内でも最古の ロの
時期に属し、箸墓古墳の3分の1根似墳といわれる操山109号墳を築きえたことは、その帰結 であったといえよう。鹿田集落が弥生時代後期〜古墳時代初頭にひとつの盛期を迎えた背景と
して、以上に述べたような政治的・社会的な状況を推測することができる。
古墳時代中期一後期 だがその後まもなく、鹿田集落は、古墳前期のある時点を境に遺構や 遺物が急激に少なくなり、衰退の時期を迎える。その正確な年代は鹿田遺跡の土器編年におけ る古・亙期の下限とも関連して、今後検討の必要があるが、おそらくこの衰退は、湊茶臼山古 墳を最後にこの集団の首長墓系譜が途絶えたことと無関係ではあるまい。さらに、この地域全 体について指摘できる首長墓の急激な縮小や系列の一本化などもまた、一連の事象として捉え る必要がある。さきに、前期から中期にかけての政治的変動がこの地域の集団間関係を大きく 再編した可能性を述べたが、各支群がおのおの首長を戴いて自らのテリトリーに起居し、それ ぞれが一個の生産・消費単位を形成するという弥生時代以来の古い社会経済体制が、この変動 を機としてより集約的な形に再構成され、それに伴って伝統的な生活・居住様式もまた変化を 余儀なくされたという図式を想定しえよう。つまり、鹿田集落の衰退は、当地域全体にわたる 集団構造・居住様式の変化の一環として理解されるのであり、さらに広い視点からみれば、完 成期の古代国家に向けての社会発展の一階梯が、1地域の1集落の居住形態の変化として表わ れた結果とも捉えられるのである。
古代一中鯉 弥生時代以来、各地域集団の首長として権力を振るってきた支配層は、畿内の 中央政権を核とする集権化の過程で、しだいにその官僚機構の内部に取り込まれてはいくが、
地域への帰属意識は、本貫ともいうべき土地に氏寺を営むという行為に中に読み取ることがで きよう。鹿田・天瀬グループにおいても、8世紀に網浜廃寺が造営された。
このことと、同じ8世紀に鹿田集落が第二の盛期に入ることとが、どれほどの有機的な関連 をもつのかは、今のところ不明というほかはない。そもそも、この鹿田集落の再興は、古代国 家完成後の、さらに複雑化した社会の下での政治的・経済的条件がさまざまに絡み合った結果 であり、その理由はただちには明らかにできないだろう。ただ、この時期は、古墳時代を通じ て進行した集権化、すなわち古代国家完成に向けてのプロセスがいちおうの終結を迎えた後、
逆に変質・解体の過程をたどり始めた段階であり、鹿田集落の再興も、それに伴う社会変化の 一環をなす現象のひとつとして評価を進めていくべきであろうが、これについての深い考察は 今後の課題としたい。
(6)おわりに
鹿田遺跡の事象に終始した研究だけでは、鹿田遺跡の歴史的意義を明らかにすることはでき ない。小考では、鹿田遺跡のある岡山平野の弥生〜古墳時代の地域史を、地域集団の動向を追 うという方法で概述し、その中での鹿田集落やその集団の活動の足跡を描き出そうと試みた。
けっして充分とはいえない資料を用いて荒削りな仮説を展開したに過ぎず、今後、補足や修正 を絶え問なく積み重ねていく必要があるが、発掘調査によって復元された1集落の動態を、地