第 3 章 「文化中心移動説」の検討
第 2 節 内藤湖南の中国文化論
2 湖南の文化理解の特徴
湖南の歴史の史実を踏まえた「文化」概念、それをめぐる彼の理解を紹介した が、これまで検討した湖南の文化概念には、さらにいくつかの湖南独自の考えが 加味され、より大きな構想に繋がっている。その特徴の 1 つは、文化の波及と反 動作用を積極的に評価するものであり、第 2 の特徴は、文化には中心があり、そ れが移動するということである。第 3 の特徴は、「東洋文化」が形成されるとい うものである。以下、これらの特徴を項目別に検討するが、内藤の論述にあって は、これらは同一次元の問題として捉えられ、相互に複雑に関係しあっているも のであり、ある項目の説明に他の項目の説明を用いるなど、不分離で一体化した 特徴でもある。例えば、第1の特徴である「波及と反動」と第2の特徴である「中 心と移動」は、同一事象の異なる表現でもあるともいえる。中心がなければ波及 の現象を指摘できないし、反動が移動を促す要因であるともいえるからである。
これらの検討においても、重複が避けられないことを予め指摘しておく。
(1) 文化の波及と反動作用
第 1 の特徴としてあげることができる文化の波及と反動作用とは、中国文化に よって教化された周辺の異民族が、しだいに自らの民族意識を自覚するようにな り、その後、波及してきた文化に「刺激」を与え、反動作用を加えるということ である。文化の中心には、時間的・空間的に広がる周辺地域があり、文化はその 周辺に向って、波及するが、その波動が今度は反動的に押し返してくるというの である。この反動作用の内容について、湖南が指摘していることを理解するのは きわめて困難である。反動的に戻ってくるものは、一般的に言われるような、「融 合」や「総合」や「共存」という過程を経て、より高次の質の良い文化であるの かどうか、なにも指摘していないからである。「勢力」というだけで、この勢力 の中身(政治、武力、経済などの勢力)が何であるかを具体的に指示しているわ けではない。
これに関して、湖南は次のように指摘している。「支那文化発展の波動による 大勢を観て、内外両面から考へなければならぬ。一は内部より外部に向かつて発 展する経路であつて、即ち上古の或時代に支那の或地方に発生した文化が、段々
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発展して四方に擴がつて行く経路である。宛も池中に石を投ずれば、其の波が四 方に擴がつて行く形である」48。他方、「文化といふものには又、中心から末端に 向つて行く運動と、其れから末端から中心に向つて反動する運動がある。…(中 略)… 例へば最初支那の中でも、三代といふやうな古い時代に起つた勢力は、
今の黄河の流を中心としたものでありませうが、それが揚子江の沿岸を刺激して、
そこに新しい勢力を形作るといふと、漢の高祖などといふ人が其地方から起つて 全国を一統して居る。それから北の方の匈奴の遊牧する砂漠の土地を刺激します と、其處に一の強い勢力が出来まして、其勢力が屢々支那の土地を侵略して國を 建てたこともあります」49として、その波及効果が実現されるとした。
湖南からすれば、文化は周辺へと波及していくが、そのことによって、未開地 の異民族の自覚が促され、彼らの野蛮からの脱却が促進され、かつての周辺にも、
いまや豊かさを備えた文化、つまり新たな特徴と豊かさを持ち合わせた文化が周 辺にも形成され、それがかつての文化の中心に向かって動き、どこかに中心とな りうる勢力を形成するというのである。この時の新たな文化の中心は、「豊かで 安定した地域」ということだけであり、地域を限定していない。しかも、その中 心には、「反動的作用」を吸収した周辺地域の文化が中国文化に上乗せされて、
文化の勢力を作っているとする。しかし、この文意はよくわからない。周辺地域 の文化が文化の勢力を作るのか、それとも周辺地域の文化が吸収され、上乗せさ れた中国文化があらたな勢力を作るのか。これについては、湖南は明示していな い。具体的にいえば、波及効果とは、ある段階では、一方的に教化するのに対し て、ある段階では、反動作用によって一方が他方に影響を与えることであるが、
湖南は常に影響を与える主体の側に目線をおいて文化の勢力を強調している。こ の時、周辺にもかつての中心と同じような作用をもたらす文化の中心が形成され ているのかどうか、かつての中心はもはや中心でないのか、こうしたことに対し て明示的ではない。湖南が例示しているのは、漢の高祖が興って、天下を統一し た時、その勢力は中心から波及して、また中心に戻っているのである。この時に は、中心という地域が重要視されていない。中心の地域が同じであるかどうかに は関心が示されず、反動作用を受容した文化が勢力を有して文化の中心を形成し ているということが強調されるだけである。さらに、こうして作り上げられた新 たな文化の形態は、「融合」された文化であるのか、それまでの文化と形態や内 容において異なる文化なのか、中国文化と周辺地域の文化が混在して調和を保つ
「共存・共生の文化」なのか、明示されていない。これらを推測して、こうした ものであると主張することは、きわめて困難である。湖南がいうことは、このよ うな波及効果と反動作用、つまり異文化間の相互交流によって中国文化が発展し
48 前掲「支那上古史・緒言」10-11頁。
49 前掲「日本文化とは何ぞや(其二)」21頁。
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ていくとされるということである。しかも、湖南によれば、宋代以降、文化圏と して発展している「文化」は、全く別の文化ではなく、反動作用によって、「若 返ることができた」中国文化であると指摘している。つまり、文化の発展は、「波 及」と「反動」の過程において、特定の地域から乖離して、発展していくもので あるということである。いわば形而上の文化圏の形成を強調しているように思わ れる。
以上のように、「支那文化」、周辺の異民族文化、国を異にするものの文化、
そして中国文化と全く異なる「西洋文化」、これらの文化の相互関係性などにつ いて、つねに文化の波及と反動という関係において、湖南は文化の関係を捉えて いる。これが湖南の文化に対するコンセプトであるといえる。しかし、その相互 間の関係については、あいまいなままである。
(2)「文化」の中心とその「移動」
第 2 の特徴は、文化には中心があり、それが移動するということである。こう した文化の移動に関連して、文化が時代とともに生まれ、成長し、発展し、やが て老いてゆくという重要な認識が示されている。湖南が繰り返し主張する「文化 中心」とは何か、また「文化中心」はどのように移動するのかについての彼の認 識や理解を詳しく検討してみる。
湖南に、「時以て之を經し、地以て之を緯し、錯綜して而して之を變化す、文 化の史、斯に燦然として其の美を爲す。錦繡の文を成すを観るに、繁簡相代わる、
此に絢爛の處あれば、彼に散漫の處あり、人の視線必ずかの絢爛の處に集中」50す るという史観がある。つまり、文化の中心は「文化の絢爛の處」であると湖南が 考えている。湖南が中国の歴史上の文化中心移動の史実を最初に指摘したのは、
日清戦争の最中の1894年11月1 日、2日に『大阪朝日新聞』に掲載した「地勢臆 説」であるとされる 51。この「地勢臆説」の冒頭の部分において、「神武の都を 大和に奠め給ふや、路内海に縁る、その後版圖、西は即ち遠く韓地に跨るに至り て、舟船往来年々絶えず、文化の輸入、以て近畿の風氣漸く開くるを致す、東は 即ち經略已に奥越に及ぶも、重山層嶺、東漸の文化を梗し、平城の文物、蔚乎と して其れ盛なるに至りて、…(中略)…而して内漸くに成熟に向ふの文明を以て、
唐土の輸來、また歳月新を加ふ、近畿掌大の地、以て之を受容するに足らず、是 に於て文化、威力と倶に漸くにして東に流溢す」52と、日本の地勢と人文を述べる と同時に、「中国文化」が「威力」とともに日本に移動してきたと指摘する。「文
50 内藤湖南『近世文學史論・序論』(『内藤湖南全集第 1巻』)21頁。
51 钱婉约《内藤湖南研究》137頁、曹星《略论内藤湖南的“文化中心移动说”》、胡天舒《内
藤湖南的中国观―以《燕山楚水》为中心》を参考にしている。しかし、この中でかれは「文 化中心移動」とか「文明中心移動」といった文言を使っていない。
52 内藤湖南「地勢臆説」(『内藤湖南全集第 1巻』)117頁。