第 3 章 「文化中心移動説」の検討
第 3 節 湖南のアジア主義
2 津田左右吉との比較―もう 1 つのアジア観
以上、湖南の論説を通して、そのアジア観を見た。湖南のアジア観をより深く 理解するために、ここでは、同時代の歴史学者である津田左右吉との比較を介し て、考察することにする。
湖南とほぼ同時代に活躍した津田左右吉(1873.10.3 -1961.12.4)は、『シナ思 想と日本』151において、西洋との交流が盛んになって以来の「東洋」という呼称 は、もともと地理概念であり、これには狭義の意味と広義の意味があるとしてい る。前者では日本を指したり、日本と中国を包括して指したりするが、広義の意 味では、西洋人のいう東方に当たる漠然とした称呼であり、地域的にはほぼ地中 海以東のいずれの地方をも、また、その方面全体をも指すものであると明確に指 摘した 152。これを文化的にいうと、「ヨーロッパ人は往々文化的意義において東方 という語を用いるが、それは自分らの文化、自分らの思想でないものを漠然、東 方的というのであって、いわゆる東方的なるものに一定の内容があるのではない」
153としている。本来、西洋の国々が彼らの文化に属せざる(東方にある)ところ をいうのであるから、中国も日本もインドもその意義での東方(東洋)であると している。
狭義の意味は、日本を指すことになるが、津田は、推測であるとしつつも、徳 川時代の中頃から、日本では、ヨーロッパに対する知識が増えてきて、西洋とい
148 前掲『新支那論』514 頁。
149 前掲「支那とは何ぞや」164 頁。
150 前掲「支那とは何ぞや」164頁。
151 岩波新書(赤版)3、1938年第1刷発行。本稿は1970年第15刷を参考にしている。
152 津田によれば、「後世の支那人が海路で南方から交通する地方をその位置によって区別
し、概していうとほぼ今の太平洋に属する方面のを東洋、それより先の印度洋方面のを西 洋にした」(今井修編『津田左右吉歴史論集』岩波文庫、2006年、136頁)ことに始まる という。ヨーロッパ人がインド洋を経て中国に来るようになって、その本国も西洋と呼ば れることになった。したがって、中国が基準である限り、中国は東洋ではなかったのであ る。
153 前掲『シナ思想と日本』151 頁。
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う名がこれら諸国に用いられるようになり、そこには、特殊な文化があるという 文化的な意義でこれが語られるようになった。こうしたなかで、西洋と異なる日 本や中国を表現するものとして、「東洋」の名がつけられ、これを文化的意義で呼 ぶようになったとされる。「明治以後における東西洋の概念はほぼこれを継承した ものであり、日本人の脳裡において生じたもの」154であった。そのため、日本人 がいう東洋には初めから文化国としての中国が含まれており、日本の文化が中国 文化と同系であって、西洋とは異なるとされていたのである。ここにはインド文 化も含まれるようになり、ことさら西洋との相違が強調されることになっていた のである。
こうした中には、日本は、東洋の文化は西洋より遅れたものと判断し、西洋に 学んで西洋と同じ地位に進もうという考えが潜在していたようである。しかも、
西洋の文化を学ぶのにおいて、日本は、中国やインドの先駆者であるという気分 が伴っていたとも考えられると、津田は指摘している。その裏には、日本が東洋 の主導者であるという考えがそこに寄託され、日本は、東洋の指導者であるとか、
東洋の平和を維持するとかいう思想と一脈通じるものがあると、津田は考えたよ うである。
ここでは、内藤と同時代の歴史学者の津田左右吉を例にして、もう 1 つのアジ ア観を対照的に提起し、「西洋文化」と対比される「東洋文化」の内容や意義を別 の観点から考察して、湖南のアジア観に関する理解をより深めるのが目的である。
津田は、日本の文化は歴史上中国の文物(学問、道徳、文芸、文字など)を文 化財として取り入れたが、それは日本社会内部の上層階級に占有されたものにす ぎず、一般の庶民に浸透できずにいたと認識している。したがって、中国文化の 世界に包み込まれることもなく、しかも、それは、なお日本人の実生活とはるか にかけ離れたものであり、直接には実生活の上にそれらが反映していないとする。
したがって、湖南がいう「文化の作用や反動」は日本には存在しないというので ある。「ニホンの文化は、ニホンの民族生活の獨自なる歴史的展開によつて、獨自 に形づくられたものであり、從つてシナの文化とは全くちがつたものである」155、
「ニホンとシナとは、別々の歴史をもち別々の文化をもつてゐる、別々の世界で あつて」156、中国の波及作用を日本社会として受けていないし、反動的刺激も与 えていないというのである。したがって、文化的にみても、「この二つ(中国と日 本)を含むものとしての、一つの東洋といふ世界は成り立ってゐず、一つの東洋 文化といふものはない」157とし、「東洋文化」の存在を否認したのである。津田は、
「日本と支那と印度との文化は果たして東洋文化として総称し得られるような一
154 今井修編『津田左右吉歴史論集』岩波文庫、2006年、138頁。
155 前掲『シナ思想と日本・まえがき』ⅱ頁。
156 同上。
157 前掲『シナ思想と日本・まえがき』ⅱ頁。
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つの文化であるか、少なくともそこに何らかの共通のものがあるか、仮にあると したところで、それは果たしていわゆる西洋文化に対立するものであるか」158と 大きな疑念を表明しているのである。
津田によれば、日本・中国・インドという東洋三国間において、中国とインド との全く異なる様相を指摘した後、日本と中国との関係において、両者間には密 接な関係があり、政治上の交渉もあった。しかし、密接であるというのは、主と して日本が中国の文化を知識として取り入れ、一部の階級の人々がある特定の時 代に影響を蒙ったというだけであって、二つの民族はそれぞれ別の世界を構成し、
別の歴史を持っていたというべきであるという。つまり、「家族制度も社会組織も 政治形態も又は風俗も習慣も、日本人とシナ人とに共通なものは殆んど無いとい つてもよい。道徳や趣味や又は生活の氣分といふやうなものが全く違つている」、
「地理的形態や風土が違ひ」、「言語が全く違つてゐる」159のだから、民族が違う 日本と中国は統一した「東洋文化」を形成し得るはずがないと主張する。
現代生活においては、日本があらゆる点でいわゆる西洋に源を発した現代の世 界文化(その特色からいうと科学文化とも言える)を領略し、民族生活の全体が いまや「西洋文化」によって営まれているのに対して、中国は、「西洋文化」を主 体にする現代文化の世界から取り残されている。すなわち、日本と中国は、現代 文化と非現代文化の両端にある異質 160のようなものが対立しているのであり、そ れを「総合するとか調和するとかいふことは本来できない話である」161としてい る。日本と中国は、「互いに他を知ることが困難であつて、感情の疎隔が生じがち であり、国交が常に紛糾している」162全くの異民族であるから、現実的には「東 洋文化」のような 1 つの文化世界を形成するのは無理なことであると、津田は考 えているのである。津田からすれば、日本の文化に関していえば、歴史上の中国 との文化的交流は、あくまでも一階級としての貴族にとどまり、庶民生活と無関 係であったのに対して、現代生活においては、西洋との文化交流に関しては、西
158 前掲『津田左右吉歴史論集』138-139頁。
159 前掲『シナ思想と日本』153頁。だが、津田は、日本の特異を強調したけれども、それ
は、「日本の固有の精神が古今を通じて厳として存在しているというようなことを、主張 するのではない」として、「日本には独自の歴史が開展せられたため、独自の文化、独自 の生活が養成せられた」のであり、「そうしてそれは、日本民族が内にみずから養って来 た力によるのであるが、それがこういう風に発展して来たのは、地理的事情その他の環境 の賜が大きい」(『津田左右吉歴史論集』143頁)とした。
160 このことについて、「現在において日本と中国との間にかかる相違の生じたのは、両民
族の過去の生活、過去の文化が全く趣を異にするものであったからでもある。現在におい ても、文化的に日本と中国がいわゆる西洋に対する意味で、東洋という一つの世界を形成 してゐないことは明らかであり、日本民族は中国民族とは概して別々の世界に生活してい るのです」(前掲『シナ思想と日本』181頁)と指摘している。
161 前掲『シナ思想と日本』194 頁。
162 同上書152-153頁。