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中国における湖南研究の嚆矢(1930 年代‐70 年代)

第 2 章 中国における内藤湖南研究の動向

第 1 節 中国における湖南研究の嚆矢(1930 年代‐70 年代)

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「追憶」の時期

(1930-50

年代)

钱婉约による湖南研究に関する「時期区分」は、主に日本での研究の進展を基 準にしたものである。本研究では、1930年代から50年代までの中国における湖南

1 前掲《国际汉学研究通讯》第2卷。钱婉约は、日本、中国、アメリカ3カ国における湖 南研究を「第一时期:追忆和反省(1934-1950年代)」、「第二时期:学术研究的起步

(1960-1970)」、「第三时期:新时期的新视角(1980年以来)」の 3時期に区分した。

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研究を「追憶」の時期とし、周一良の論文を取り上げることにする。1934年 8 月 4日、まだ大学 3年生であった周一良は、湖南が同年 6月26に病没したのを受け て、いち早く《日本内藤湖南先生在中国史學上之貢獻―〈研幾小録〉及〈讀史叢 録〉提要》(日本の内藤湖南先生が中国史学における貢献―『研幾小録』と『読 史叢録』を通して)という論文 2を完成させ、《史學年報》に寄稿した。同論文に おいて、「(内藤湖南)先生は日本における漢学の老宿であり、中国史を治るに卓 然としてあり、さらに人材を育成し、多くの新進学徒をその門下から輩出した」3 として、湖南が中国史研究者そして教師として門下後学の徒を多く輩出したこと を高く評価した。

しかし、研究について、「その初期の著述は、中国の時事を論じることに重き を置き、宣伝的性格を有していた。後の『清朝衰亡論』、『支那論』、『新支那 論』の諸書の如きも、固より箴言に当を得るところ無きにしも非ずとはいえ、そ の究める意は、日本人士をして常識を以て諭すことにあり、中国を論じる基礎は、

学術というにはるかに及ばない」とし、彼の初期の時事論における宣伝的性格を 指摘し、その後の本格的な中国史研究である『清朝衰亡論』、『支那論』、『新 支那論』等においても、これらを学術研究の成果と認めなかった。

それはさておき、湖南の歴史研究の主要論文を収めた『研幾小録』と『読史叢 録』については、湖南の歴史研究における学術上の貢献を周一良は称賛した。

周一良は、湖南の歴史研究分野を、甲(中国古代史)、乙(清初史地)、丙(其 他時代)、丁(史料之紹介)の 4 部に分けて紹介した。甲の部では、中国古代史 に「疑」を重んずる研究法が特徴的であるとして、いくつかの論文を要約して紹 介し、乙の部では、「考」を特徴とする研究法の論文をいくつか紹介し、丙の部 では、さまざまな分野に渉る研究分野の論文を紹介して、彼の研究の幅の広さを 強調した。丁の部では、終始史料重視を貫く湖南の学風を称賛した。これ以後、

こうした周一良の 4 部の区分は、内藤湖南の中国史研究法及び中国史実証研究へ の貢献とみなされている。

周一良は、論文の最後において、湖南の著述目録、おもに歴史研究の論文を附 録として採録した。とくにこの時期には、いまだ年表や著作が整理されていない 段階での「まとめ」であり、学生の周一良が湖南の史学研究に関心を喚起された きっかけはよくわからないが、こうした年表や著作の整理に多くの時間や気力を 費やすことなしにはできなかったのではないかと思われる。その関心がなんであ ったのか、周一良自身は語ってはいない。

周一良がこうした湖南研究の論文を完成させた頃は、「満州事件」などの一連

2 周一良:《周一良集》,辽宁教育出版社,1998年,467-513页。この『研幾小録』と『読 史叢録』は、『内藤湖南全集第7巻』に収録されている。

3 引用した中国語文献の日本語訳は筆者によるものである、以下同じ。

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の中日間における戦争状態の対立を契機にして、中日両国の関係は既に緊迫状態 に陥り、1937 年には、とうとう「日中戦争(中国語:日本侵华战争、中国抗日战 争)」が勃発した。こうした時代背景を考慮すると、周一良の研究は特別の研究 事例であり、それ以来、1960年までの間、中国での湖南研究は途絶えてしまった。

钱婉约は、この第1期の題名に「追忆和反省」という言葉を用いたが、これは、

1930 年代の湖南没後の後世の追憶及び戦後学術界の反省という時代的状況を背景 にして、研究者が「反省すべき歴史事実」に思いをこめて、採用したものであっ たと推測される。歴史研究に携わる者は誰しも、戦争の悲惨さを繰り返すべきで はないという思いがあったことは疑いない。内藤湖南の中国研究において数多く 見いだされる政治的発言が「学術的体裁を装った日本帝国主義の中国侵略のため の助言であった」4と認識した日本の「中国学」研究者たちは、戦後、直ちに内藤 史学に対する「反省と批判」の研究を始めた。中国の学界では、当時はいまだ国 内が内戦状態にあり、こうした顕著な内藤批判の論文を見いだせないが、戦争に 対する思いは同じようなものであったと容易に推測できる。こうしたなか、日本 では、湖南の弟子たちや後継者たちが、その遺作、講演原稿、重要著作(『東洋文 化史研究』、『清朝史通論』、『支那上古史』、『中国近世史』、『支那史学史』など)を 発刊してきたが、こうした編纂者たちの意図が「反省と批判」に呼応するもので あったかどうかは別として、戦後状況のなかに生まれた「反省と批判」の動きを 促進したことは明らかであった。

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「イデオロギー的批判」の時期(

1960-70

年代)

中国では、この時期は、1960年代のイデオロギーによる「イデオロギー的批判」

に終始した時期であったといえる。李华瑞の言によれば、「改革開放までは冷戦 によるイデオロギーの対立、政治的影響を受けた。『宋代以降近世説』は、中国 の現実問題を考察するときの論拠をなしており、日本の中国侵略のための理論づ けであるという認識が長い間浸透していた」5。当時の中国では、1957年6 月に批 判的な知識人に対する「反右派闘争」が開始され、1958 年には経済建設において

「大躍進政策」が開始され、同時に、社会主義的農業の典型とされた「人民公社 化」が推進されていた。このような時代背景の下では、「資本主義」という言葉 さえ、もはや禁句となり、経済発展を語ることさえ「右傾化」とされた。

しかし、こうした風潮も、国際情勢の影響を強く受けていた。戦後体制の形成 は、社会主義陣営と資本主義陣営が対立する「冷戦体制」を生み出した。アメリ カを中心とする戦後資本主義の復興は、戦前のような植民地を領有する資本主義 諸国の対立を解消し、旧植民地を資本主義体制のうちに取り込んで、経済発展を

4 前掲《内藤湖南研究综述(日、中、美)》276页。

5 李华瑞:《“唐宋变革论”对国内宋史研究的影响》,《中国史研究》2010年第1 期。

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実現していく体制を構築することに全精力が注がれ、このための合理的な体制秩 序を作り上げていった。これに対して、ソ連を中心とする社会主義諸国は、資本 主義は自らの矛盾のために最終的には人民大衆を基盤にして構築される社会主義 体制に移行するとして、理想的な社会主義とは何かを求めて、独自の戦後体制の 建設に邁進した。資本主義と社会主義のいずれが人類の理想形態なのかを試みる 対立が、両陣営の対立を激化させていった。こうしたなか、いずれの体制も一方 の体制を崩壊させることを目標とした戦略を採りはじめ、それぞれが自らの体制 を最高とする価値観から対立する陣営を破壊させていくことを目的とする世界政 策を実施していった。そうした政策は、軍事的対立を緊張した状態で維持する「冷 戦体制」という世界情勢を実現させたのである。

その後、文化大革命期(1960年代中から 70 年代中頃までの10 年間)に入った中 国では、よりいっそうイデオロギー的色彩を濃くした「階級闘争為網(階級闘争を 要にする)」という路線が提起され、他方、外交面においては、建国以来 10 年間 取りつづけてきた「一辺倒」の外交政策がソ連のリーダーであるフルシチョフに よるスターリン批判に異議を唱えたことから転換され、両国の関係は完全にぎく しゃくした。しかし、こうした社会主義陣営内での対立も激化も、戦後体制が生 み出した結果であったということができる。中国には、欧米資本主義の帝国主義 とソ連の「社会帝国主義」を警戒する「イデオロギー優先」の風潮が充満し、中 国の特色ある社会主義路線に沿う諸政策が継続して打ち出された。こうしたなか では、社会主義は資本主義を、資本主義は社会主義を打倒することだけが目的と され、その目的が優先されるイデオロギー対立をあらゆる分野で煽っていくこと になった。いうまでもなく、学術活動にもこうしたイデオロギー的評価が持ち込 まれ、学術研究はこうした雰囲気一色に染められた。

この時には、外国との研究交流は完全に閉ざされ(一部ソ連や社会主義諸国との 関係があった)、中国国内においても、外国の研究とりわけ資本主義諸国の研究は 疎かにされたことはいうまでもない。この時期の中国における湖南研究は、こう したなかで開始されたのである。したがって、湖南の「反動的資本主義イデオロ ギー」を「社会主義イデオロギー」の立場から批判し、これに該当する著述の箇 所を選択して、部分的に翻訳し、それを湖南の研究評価にした時期であった。評 価というよりも「批判の資料」として彼を紹介しただけであった。1961 年、中国 科学院近代史研究所资料编译組編译《外国资产阶级是怎样看待中国历史的-资本主 义反动学者研究中国近代历史的论著选译 (『外国資産階級は中国歴史をどう見て きたか‐資本主義反動学者による中国近代史論著選訳』)》という「翻訳書」から こうした傾向が始まった。同訳書には、内藤湖南の「支那論」6のほんの一部、わ ずか1頁未満の程度が抜粋・翻訳された。訳書の題名から判断すれば、湖南は「資

6 訳文の最後には「新支那论」と間違えて出所を表記している。