第 3 章 「文化中心移動説」の検討
第 2 節 内藤湖南の中国文化論
1 湖南の文化概念
文化は、湖南を理解するための重要なキーワードの 1 つであり、それについて の湖南の論述は実に多岐にわたっている。しかし、湖南自身、「文化」をどうい うふうに捉えているか、つまり彼がいう文化とは何であり、文化の内容とは何か について既存研究では十分に検討されていないのである。それを明らかにするこ とは、彼の「文化史観」を理解する上できわめて重要な意味を有している。本節 では主に『内藤湖南全集』の8、9、10巻に所収されている論述を対象にして、湖 南の「文化」論について考察する。
湖南は、「余の所謂東洋史は支那文化発展の歴史である」22と自分の「史観」を 明確にしている。さらに続けて、「支那文化を中心として居る國は単に支那のみ ではない、種族も同一でなく、言語も同一でない国々に及んでいる。然るに兎も 角も支那文化の発展は、種族言語の異なれる國に對し、立派に一つの系統的に連 続せる歴史を形作つてゐる。この點から観て、東洋史を支那文化発展史であると 謂つても毫も差支はないと思ふ」23と、歴史上、中国文化の発展は、地理的・民族 的な範囲を超えるものとして捉え、これを「東洋文化」と定義した。つまり、「東 洋文化」とは、中国文化を中心にする、時間的・空間的に形成・発展してきた文 化圏であるとしたのである。
湖南は、中国(漢民族が住む中原地方)と周辺の異民族や、国々の関連性を意 識しながら、中国中心の中国文化の歴史、つまり中国(湖南の表現では「支那」) の歴史をとらえようとしている、といえる。湖南がいう「支那」は、漢民族の居 住地を中心とする中原地方の地理的概念である 24。文化的概念からすれば、漢民 族を中心とする中国文化である。この中国文化が周辺の異民族の文化地域や国々 に浸透して、「中国文化圏」25が成り立ったと湖南は理解している。この時間的・
空間的な文化形成・発展のプロセスが歴史であるとした。湖南は、このような認 識に基づいて「時代区分」をなすべきであるとして、次のように述べている。
22 内藤湖南「支那上古史・緒言」(『内藤湖南全集第 10巻』)9頁。
23 同上書10頁。
24 同上書11頁には「これは今までの支那本部の地を支那と考へ、文化がその本部の地に 充実する時代」と書いている。
25 前掲「日本文化とは何ぞや(其二)」19頁には「私は東洋の文化は古来支那中心であつ たと思ひます」と明言している。
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「眞に意味ある時代區分を為さんとするならば、支那文化発展の波動による 大勢を観て、内外両面から考へなければならぬ。一は内部より外部に向つて発 展する経路であつて、即ち上古の或時代に支那の或地方に発生した文化が、段々 発展して四方に拡がつて行く経路である。宛も池中に石を投ずれば、其の波が 四方に拡がつて行く形である。次に又之を反對に観て、支那の文化が四方に拡 がり、近きより遠きへ、其の附近の野蛮人種の新しき自覚を促しつつ進み、其 等種族の自覚の結果、時々有力な者が出ると、それが内部に向つて反動的に勢 力を及ぼしてくることがある。これは波が池の四面の岸に當つて反動して来る 形である。而してこれは常に同じ年数を以て続いて反動して来るのではなく、
波のうねりの如く間歇的に来り、それが常に支那の政治上その他内部の状態に 著しい感化を與へて居る。第三には、第一第二の副作用として、時々波が岸を 越えてその附近へ流れ出ることがある。陸上では、中央亜細亜を越えて印度や 西域地方に交通を開き、その際はまた印度西域の文化を支那に誘致し、後には 海上より即ち印度洋を経て西方諸国に関係を有つに至り、歴史上の世界的波動 に大なる交渉を有つやうになるのが即ちそれである。然し大体は第一と第二の 作用が時々繰り返され、その間文化に時代的特色を生じてくる」26。
湖南によれば、中国文化は、空間的・時間的に「中国文化圏」を波動のように 拡大していくというのである。このような文化による時代区分の基準は、中国文 化の自発的形成、波及効果による拡散、そのことによってもたらされた効果(歴 史事実)は、異民族の自覚促進、さらに中国文化に与えた反動作用である。
だが、ここで重要なことは、湖南が「文化」に関する定義や文化の内容につい て、明確な言及を行っていないことである。文化とは何かが漠然としているので ある。そのため、湖南の文化に関連する著作をできる限り丹念に検索して、この 定義らしきもの、その内容や意味に関することを探してみれば、次のような彼の 文化認識を得ることができるのではないかと考えられる。ここでの指摘は、本章 において検討する内藤の文化論に関連する文献で論述されているものなので、逐 一、典拠を示さないが、コメントを付す場合は典拠を明示する。
湖南には、まず「文化は差別的なもの」という認識がある。上述した周辺地域 への文化波及について、「野蛮人種の新しき自覚を促しつつ」という表現がある。
また、文化の波及効果、つまり文化の拡散は、漢民族を主体とする中国の文化が
「未開地の異民族」を教化するプロセスでもあると指摘している。こうしたこと に類する指摘は数多く散見する。このことから、いわば文化の語意の起源に関す る「華夷思想」を前提にする文化概念が採用されているといってもよいだろう。
よく指摘されるように、漢字で表現される「文化」の語源は、「文を以て教化す
26 前掲「支那上古史・緒言」10-11頁。
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る」ことである(「観乎天文以察事変、観乎人文以化成天下(天文を観察して四 時の変化を明らかにし、人文を観察して天下の万民を教化育成する)」『周易』
の「賁卦」)。
経済グローバル化のなかで、経済的統合を第一の価値観にするには、アジア地 域において、「漢字文化」を主体にする文化の「融合性」を活用して、「文化共 同体」の創造に努力すべきであるとした西川博史教授の指摘によれば、先秦時代 には、いまだ「文」と「化」は一語に統一されていなかったが、時代が下り、前 漢成帝時代に秘府(宮中の図書館)が所蔵する転籍の校訂に携わった劉向の『説 苑』の「指武篇」に「凡武之興、為不服也、文化不改、然後加誅(凡そ武の興る は服従せずため、文化改めざる、然る後誅を加える)」として「文化」の語が初 めて使われたという 27。「文化」は、元来、非服従者に対する「文治教化」を意 味する言葉であり、その後、晋の広微が「文化内輯、武功外悠」(『補亡詩・由 儀』)と述べ、文化を国家の「文教治理(文による教化によって世を治める)」
の手段として捉えられ、「文化のある政治や時代」ということが語られるように なった。また、同時に、この文化に欠ける、あるいはそれが低位な国や地域に対 しては、軍事的手段で征服を果たし、教化して治めることを正当化する概念であ った。この教化の手段が時代を下るとともに明確にされ、唐代になると、『大学』
の研究者孔穎達が先の『周易』に新しい解釈を施し、「聖人観察人文、則詩書礼 楽之謂(聖人は人文を観察して、詩書礼楽を謂う)」とした。ここにおいて、文 化は、文学・礼儀・風俗等の具体性を指すものになっていった。その後、明代に は、『大学』の研究者顧武炎が『日知録』において、「君子博学于文、自身而至 于家国天下、制之為度数、発之為音容、莫非文也(君子は博く文を学び、自身及 び家・国・天下に至り、制して為すは規定(=制度)であり、発して為すは礼楽
(=調和)であり、ことごとく文ならざるはなし)」とされ、文化の内容として、
人自身の行為も国家の各種制度も調和のとれた社会のありようまで、すべてが含 まれる広義の意味を有する概念になった。こうした中国に一般的にみられるよう な文化概念を、湖南本人は自ら明確な定義づけを行っていないが、用いていると 思われるのである。こうしたことを確かめるために、湖南が文化の内容をどう捉
27 西川博史「北東アジア地域における協力体制構築の課題」(西川博史・谷源洋・凌星光
編著『北東アジア地域協調体制の課題』現代史料出版、2009年)を参照。
65 えているかをみてみよう 28。
湖南は、「支那文化の根本」において、「この貴族時代に起つた色々の文化的 のこと、經學、文學、藝術など、皆この時代の特色を備へてゐるが、これが支那 文化の根本となり、今日の支那文化も、その上に築かれてゐるのである」29と述べ、
中国の中古の文化は、儒教の経典である経学、文学、藝術であるとしている。「文 化の変遷」30では、唐末から宋まで及び異民族王朝の遼と西夏の文化を取り上げ、
唐末から宋までの時代の文化の内容として、経学、文字学などの学問、詩から詞 への変化、音楽、書法、絵画とりわけ仏教の思想や経、仏像などの芸術、そして 小説、伝奇などの新たな文学形態が出現したこと、口語や俗語などによる文章や、
文体変化があったことなどを指摘している。
こうした動向を根拠にして、学問の民衆化の傾向、つまり文化の民衆への浸透 を強調している。これに加えて、湖南は次のように述べている。唐末の「擧世混 亂の時は、文化にとつても最も不幸な時」31であったが、五代割拠の時代になると、
「割據した君主は各々天子同様奢侈な生活をなした。…(中略)… いつでも古 代の文化は貴族の贅澤から出るもので、民衆から發するものではない。かく分裂 した國々がそれぞれ小康を得て、君主が相當に贅澤な暮らしが出來、人民より誅 求はしても、騒亂にならない程度に、餘り變化をしないで同じ状態を維持すると きは、必ずしも文化の發達に妨害を爲さぬのみならず、却て割據してゐることが 地方に対する文化の普及を助長するものである」32。「人民が安堵さへすれば、統 治者の収入も増し、文化も發達する。されば五代の中で、南唐は文化の著しく盛 んな處であつた。蜀も之に次で富の程度の高い處であるから、古くから發達した けれども、五代の時最も盛んとなつて、ここにも亦文化の中心が出来た」33と指摘 し、極めて社会の安定や富の高い状況こそが「文化の中心」すなわち文化が盛ん になる前提であるという認識を示している。こうした過程を経て、「近代支那の 文化生活」においては、文化生活の要素が「衣食住より、政治、道徳、趣味等の
28 ここでは、『東洋文化史研究』における「概括的唐宋時代観」、「近代支那の文化生活」
(『内藤湖南全集第8巻』)と『支那中古の文化』における「文化の変遷」(『内藤湖南全集 第10巻』)を主に取り上げて考察している。前者は、湖南没後、息子や教え子らが講演や 談話の筆記などを編集したものであり、内容的には政治、経済、社会、民族、交通、学術、
美術などを幅広く題材としている。後に本人以外によって編集されたものであるから、こ れらが湖南の考えていた文化内容であるといえないかもしれない。後者は、湖南退官の翌 年、嘱託講師として京都帝国大学における最後の講義内容であるが、聴講者のノートを参 照にして、著者没後、編集されたものである。学問、礼制、文学、社会風気、仏教、礼儀、
貴族時代の譜学などを題材にする論述である。
29 内藤湖南「支那中古の文化」(『内藤湖南全集第 10巻』)331頁。
30 内藤湖南「支那近世史・第 7章」(『内藤湖南全集第10巻』)419-431頁。
31 前掲「支那近世史・第7章」420頁。
32 同上書420‐421頁。
33 同上書422 頁。