さらに時代を下ると、水中環境音とエコロジー運動との結びつきは、鯨類の声だけにみられる現象では なくなっていく。すなわち、前章で述べたLFASに代表される人工騒音が多種の海洋生物の音響コミュニ ケーションに深刻な悪影響を与える可能性のあることがわかってきたのである。先に少し触れたように、
海中の音環境における人工騒音の問題が顕在化するのは、1990年代から2000年前後にかけての時期であ る(クラウス 2013: 210-212)。既に1980年代には、アクティヴ・ソナーの付近でその強力な音波に曝露 されたクジラがあまり鳴音を発さないようになるという観察的事実が報告されており、また1990年代初 頭には人工騒音が鯨類のストランディング(大量座礁)を引き起こすことが示唆されていた(Simmonds
1991)。1995年には、鯨類だけでなく鰭脚類を含む水生哺乳類に対する様々なノイズの影響についての知
見を広範に収録し、その実態と対策を生物学的および物理学的に検討した大著『水生哺乳類とノイズ』が 出版された(Richardson et al. 1995)。さらに2002年には海軍の低周波ソナーであるLFASストランディ ングを引き起こす要因になり得ることが公式に認められたことを報じた「米海軍のソナーによるクジラの 死」と題された記事がネイチャー誌に掲載された(Schrope 2002)。こうした学術的な示唆は、前述の
《ザトウクジラの歌》に象徴されるエコロジー思想と結びつき、大いに政治的な論争を含む問題へと発展 していった。ここにきて海の聴覚的イメージは、生物の音であふれた豊かな音の世界から、それらを脅か す人工騒音で満ちた世界へと急速に変化していくのである。
こうした問題は、単に水生哺乳類の生態との関わりにとどまるものではなかった。2010年には、ハン ス・スラベクルンらが「騒々しい春 A Noisy Spring」と題された論文を発表し、人工騒音の増大が魚類の 繁殖行動に及ぼす悪影響をレビューした。
1962年、除草剤の使用が歌う鳥たちにもたらす被害という文脈で、レイチェル・カーソンは「沈黙
の春」を描いた。ここで我々は、人工騒音の増大が魚類にもたらす被害の可能性に着目し、「騒々し い春」へと注意をうながそうとするものである。[…] 長い間、人間は水上ないし水辺であらゆる種 類の活動に従事してきたが、これらの活動が極めて騒々しいやり方で拡張されたのは最近のことであ る。近年、水中の騒音公害は水生哺乳類を中心に重要な関心を集めているが、それが魚類にも適用し 得る問題であるという認識はますます広まりつつある(Slabbekoorn et al. 2010)
こうした海中の騒音問題は、飼育環境下の生物個体に対する騒音の曝露実験のような生物学的な観点の研 究というよりは、戦時中から連綿と続く、ハイドロフォンを用いて海中の全体的な音環境の分布とその環 境指標としての役割を確立しようとする研究の系譜によって明らかにされた30。近年、PAM(Passive
30 古典的な例として、ヴァーン・ヌードセンらは、1948年の時点で、海中の音環境を構成する種々の音源について
「水の動き」「海洋生物」「船や人工的な発音源」の三つグループを提案し、ハイドロフォンによる録音データに基 づき、各カテゴリの発音源のスペクトル分布をグラフ化した(Knudsen et al. 1948)。1962年にはゴードン・ウェン ツが近傍で発せられる生物音や船舶の音を除いた海中の静的な背景雑音を調べ、各周波数帯における異なる発音源
―主に乱流による水圧振動、風波による泡やしぶき、船舶等の海洋交通機関―の寄与をデータ化した(Wenz
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Acoustic Monitoring)等と総称される小型の自動水中録音機などの発達に基づき、海中音の広範囲・長時 間なモニタリングや記録が極めて容易になりつつあることは序文で触れたとおりである(Au and Lammers 2016)。こうしたモニタリングのためのテクノロジーは現在世界中の海域に設置されており、海 中の音環境を定量的に観測し、その変化を正確に観察しようとする、いわゆるサウンドスケープ生態学の 研究は現在盛んに取り組まれており、特に2000年以降に充実した成果を挙げている(Radford et al.
2008; McDonald et al. 2008; Erbe et al. 2015など)。また、こうした成果の解釈に影響を与えるいくつか の重要な学説が同時期に提唱された。2005年にはステファン・シンプソンらがサンゴ礁における魚類の 稚魚の遊泳の指標として、ある種のウニやテッポウエビなどに由来する海岸の生物雑音の微妙な差異が重 要な役割を果たすことを示唆し、人工騒音の影響を懸念する旨の論文をサイエンス誌に発表した
(Simpson et al. 2005)。2008年、キース・へスターらは二酸化炭素濃度の上昇による海水酸性化に伴 い、水中の低音の吸収率が低下することで、海中のノイズ量がますます増えていくことを示唆し、その地 球温暖化との連動の可能性を明らかにした(Hester et al. 2008)。こうした説を受けて、海中の酸性化が 海中のサウンドスケープに与える影響を評価し、それが環境音を生活の手がかりとする稚魚の育成に与え る悪影響について調査しようとする研究も盛んに現れつつある(Rossi et al. 2016など)。
いうまでもなく、こうした数多の研究成果は、地球環境の保全に対して我々が取るべき選択を示唆する うえで、極めて高い重要性を持っている。しかしながら、水中音の聴取という知覚の経験やそれに起因す る想像力といった観点からみると、こうした問題意識がそれらの解釈を予め方向づけるような強力なコン テクストを形成している点は指摘されるべきであろう。それを象徴するのが、こうした海中の騒音問題に 関する科学的見解をベースに制作され、2018年に公開された映画『響きの海 Sonic Sea』である。『響き の海』は、天然資源防護協議会(NRDC)と国際動物愛護基金(IFAW)が監修した、海中の騒音公害を 告発する内容の海洋ドキュメンタリー映画である。具体的な映画の内容としては、まず鯨類の大量座礁の 問題を訴える映像から始まり、続いてアザラシやイルカ、クジラがコミュニケーションのために発する音 の豊かさがその音と映像のイメージによって強調される。そしてそれが貨物船やソナーといった人工物の 発する騒音によって傷つけられ、結果的にそれが大規模な鯨類の座礁を引き起こす要因となっている事実 を、関連する科学者のインタビューを織り交ぜながら主張している。本映画では、海中が生命体の音に満 ちた空間として描写され、その音環境の自然状態を守るための政治的主張への賛同が呼びかけられてい る。映画のパンフレットの冒頭には次のようなメッセージが書かれている。
海の生命体は音に支配された世界を生きています。テッポウエビからシロナガスクジラまで、海の生 物は獲物を見つけたりコミュニケーションを取ったりするために、ときには数百マイル以上も隔て音 を用いています。しかし、ここ100年ほどの間に、船舶、油田やガスの採掘、海軍のソナー訓練、建
1962)。また、ダグラス・カトーは、古くから沿岸海域におけるバイオフォニーに着目した数多くの論文を発表して おり、1980年に発表された論文では、ハイドロフォンによる長時間録音のデータに基づき、ティモール海で聞かれ る生物音のスペクトル分布をグラフ化している(Cato 1980)。こうした研究は、生物の音響コミュニケーションに よって重要な意味を持つ周波数領域の範囲を明らかにし、それに対して干渉しやすい人工騒音の種類を推定するう えでの基礎的なデータを提供する重要な役割を果たしている。
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設工事、その他の活動が海の自然音をかき消し始めました。この問題によって、クジラやイルカその 他の生物に対し、ストレス、難聴、摂餌機会を減じる逃避的行動、そして死など、無数の影響が生じ ています。幸い、多くの場合、こうした問題を軽減するための比較的シンプルな解決方法がありま す。必要なのは政治的な意志なのです(NRDC and IFAW n.d.)
「政治的意志」という言葉通り、この映画はまさに海中の騒音問題に対する具体的な運動への参加を呼び 求める啓蒙的な類のものである。そこには、海中の騒音問題を背景に顕在化した、《ザトウクジラの歌》
に端を発する水中音とエコロジー運動との結びつきのさらなる先鋭化を見てとることができる。
このような背景を持つ『響きの海』において、《ザトウクジラの歌》にみられたような音の体験的側面 への関心は明らかに背景に退いている。ここでは音を漫然と聞くのではなく、予め解釈の定まった音世界 に対しいかに行動するかが求められているからである。予告編の冒頭で「我々の海は交響曲である Our Ocean Is A Symphony」という象徴的な文言を掲げるこの映画は、表題のとおり海洋生物による音世界の 豊かさが一つの主題となってはいるが、その現実的な描写はほとんど映画内で登場しない。その代わり に、別々に録音されたと思われるクジラ、イルカ、アザラシ等の鳴音の断片にリバーヴをかけて合成した ようなニューエージ風のサウンドトラックが全体を覆い、映画の内容となるメッセージをシリアスに演出 するための雰囲気を醸し出している。一度でも経験したことのある人であればわかるように、現実の海中 の音環境の実態とはかけ離れたものである。つまり、『響きの海』という表題とは裏腹に、ここで映画の 音は、全体の主旨によって予め方向づけられたメッセージ―海が生物の豊かな音であふれる空間であ り、また人工騒音に脅かされつつあるフラジャイルな音世界であるということ―を印象づけるための効 果音にしか過ぎなくなっているのである。
以上のような海中の騒音問題への関心の高まりは、海中の環境音や生物の音を、単に美化したり神秘化 したりするのではなく、ましてや単に知的好奇心の対象とみなすのではなく、高精度な観測機器を用いて 正確に評価し、適切に解釈すべき対象へと変化させたといえるだろう。それは、もはや音の正体が何であ るとか、その音をいかに聞くかといった問題を遥か通り過ぎ、既に明確に定められた目的に組み込まれた データとして、音以外のもの―地球環境の変動や海洋生態系の全体―との関わりの中で分析されるよ うになった。そしてそのとき、もはや音は専門家だけが正確に意味を引き出すことのできる暗号となり、
その痕跡だけを残して社会的表象の場面から消失したのである。
2-5.小括
本章では、通信・軍事といった実用的な文脈により形成されたハイドロフォンというテクノロジーが、
海洋生物の発音行動もしくは海中の音環境の研究をいかに展開し、それに伴って人々の水中音の知覚や想 像力のあり方がいかに変容してきたかを記述した。それにより、ハイドロフォンが登場して以来、それを 利用しながら展開した水生生物の音についての科学的調査の文脈は、その雑然とした音環境に次々に意味 を与え、分節化し、またそれらに対する社会的意義の適用をつうじて、その認識を洗練させてきたことが 明らかとなった。すなわち、それは単に水中音についての客観的知識を蓄積するだけでなく、文学、映画、