さらに、夜になって最初の船着場の桟橋に戻り、再びハイドロフォンを海に投げ込んだところ、昼間は 聞こえなかった「ギギギギギ」、「グググー」といった感じの音が盛んに聞こえてきた。そのカオティック な音の発生のタイミングと多様な音色は、発音体が何らかの生物が非常に複雑なコミュニケーションを行 っていることを想起させ、強い好奇心を喚起した。しかし、この時はその音源が何であるかは皆目見当が つかなかった。
この西戸崎から志賀島の海は、私の初期のフィールドワークの中心的な対象となった。しかし、最初の フィールドワークのような発見的な驚きは、それをピークとして徐々に落ち着いていくことが実感された。
最初に驚きを覚えたテッポウエビの音は、それ以降は徐々に日常的なものになり、数か月後にはほとんど 意識することがなくなっていった。さらに、生物音響学の文献をあたったり、フィールドでの観察をした りしているうちに、最初の海で聞いた音の正体が、徐々に判明していった。たとえばタイドプールで稀に 聞かれる「オン!」という鳴き声のような音は、目視での観察からどうやら小型のハゼの一種が発してい るらしいことがわかってきた。また、意外なことに、西戸崎の海で聞こえた「ギギギギギ」、「グググー」と いう極めて印象的な音の正体は、波のリズムと音の発生タイミングが同期していることへの気づきから、
実は満ち潮で水位が高くなった結果、波の影響が強くなり桟橋の接合部が軋む音であることが一年近く経 ってからわかった。桟橋の接合部は波の揺らぎにあわせて不規則に振動し、まるで緩んだ弓でチェロの弦 を擦るように、不規則な音を発生する。これが同時に鳴り響く様が、まるで生物の発音を思わせる音にな っていたのである。それによって、それまで西戸崎の海を象徴する存在だったその不思議な響きは、一気 に日常的な物音のような印象に変化した。
一方、それまで聞こえなかった音が徐々に聞こえるようになることも実感された。志賀島のタイドプー ルでの調査では、ムラサキイガイと呼ばれる二枚貝や、岩にへばりついているフジツボが、時刻によって は「プチプチ」と微かな音を発していることに気づいた。そうした記述は生物音響学の論考にも見出すこ とができ、その予備知識が現場で音源を素早く察知する手がかりとなった。たとえば、イガイの仲間は岩 に自身を固定するための足糸を切って動く際に音を発するという論文を読んだことで、現場でそれらしき 音が聞こえたとき、ムラサキイガイにハイドロフォンを非常に近づけ、ただちにプツプツという音がそれ らの群生から発せられていることを確証することができた。さらに、インターネット上に公開されている 魚類の鳴音の録音などを調べて試聴するうちに、西戸崎の海での桟橋が軋む音の背景に隠れている、おそ らく魚の鳴き声と思われる響きを徐々に聞き分けられるようになっていった。「ギギギギ」という大きな音 の合間に、「ドンドン」とか「グー」とかいう、魚類の発音と思しき響きを意識的に聞き取ることができる ようになったのである。
このように、経験を重ねることで、最初の発見的な驚きが徐々に薄れていくかわりに、その音に身体が 馴染み、よりはっきりと音を聞き分けられるようになっていった。その一連の聴取のプロセスを経て実感 したのは、海の生物の音は陸上の生物の音に比べて概して単純であり、陸上で聞く鳥や虫の声のようなパ ターンらしいパターンが無いということであった。水中に穏やかに響く波の音と、「パチパチ」というテッ ポウエビの音を基調に、時折「オ」とか「ドゥンドゥンドゥン」とか「パタパタパタ」とかいう断片的な魚 類の音と往来する船舶の航行音が混ざるその音環境は、生物相を反映して多様なサウンドスケープを形成
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する森や草原などの音環境と対照的な印象を与えた。事実、場所を変え、箱崎ふ頭、博多ふ頭、海ノ中道、
福津、奈多、新宮などその界隈の海の音を聞いても、その響きは大まかには変わらないことがわかった。
もちろん、まったく変化がないわけではなく、最初に調べた雁ノ巣のように岩の無い砂浜などではテッポ ウエビの音の頻度は極端に減り、水深の深い海では海底に棲むそれらの生物の音圧は小さくなった。また、
海藻や岩、テトラポッドなどの環境によって、魚類の音が頻繁に聞かれるところと、そうでないところが あることもわかった。しかし、こうした音の密度の変化を除き、少なくとも私が調べた福岡市近郊の海岸 付近の水中音の構成は―香川県の海でニベと思われる魚類がカエルのように合唱している音に出会った、
ただ一度の経験を例外として―どこもさほど大きく変わらなかったのである。
4-2-2.福岡市の池や河川
川や池といった海以外の水域での調査を開始したのは、最初にテッポウエビの音を聞いてからだいたい 1カ月くらい経過した頃であった。はじめ、夜にばかり調査を行っていた私は、川では音がしないものだと 考えていた。というのも、これから述べる川の音は、昼夜に関係なく鳴り響く海の音と異なり、夜にはた いてい静まり返るからである。最初に福岡市東区の宇美川下流の音を聞いたのは深夜であったために、僅 かなせせらぎの音や、時折コイのような魚が歯を擦り合わせるような音、もしくは川底を掘るような音を 除き、そこはほとんど無音といっていい空間であった。しかし、場所と時刻によって、川では海でも池で もまったく聞くことのない独特の音環境が形成されていることがわかった。ここではそうした事実を知る に至った二つの事例を紹介する。
6月のある日の夜明け前、福岡市東区の宇美川、多々良川という二つの河川の下流域を調査した際、ちょ うど汽水域にあたるある橋の下で、大勢の虫が一斉に「シャシャシャシャ」と鳴くような一種のコーラス のような響きが聞こえてきた。この音はその川のその地点以外では聞くことのない音であり、まるで水の 底の深いところで小さな蝉の群れが合唱しているような響きであった。別のある晴れた日に川底が見えて、
たくさんの穴が開いていることに気づき、そこにおもむろにハイドロフォンを入れると、この音がひとき わ大きく聞こえてきた。しばらく様子を窺っていると、その穴から出てきたのは、大きなカニであった。
その個体を捕らえることはできなかったが、目視の印象ではベンケイガニの一種と推測された。九州大学 農学部の環境調査によれば、ベンケイガニは宇美川~多々良川流域に豊富に棲息しており、10月頃から3 月頃までの時期に冬眠するとのことであった(橋口ほか 1967)。はたして、ちょうどその時期に音が聞か れなくなったことから、それがベンケイガニの仲間であるかはさておき、発音体がそれに類するカニであ る可能性は高いと判断された。カニがこのような複雑なパターンを持つ発音行動を取るという学術的な言 及は目にしたことがなく、もちろん私自身そのようなイメージは持っていなかったため、この出来事は極 めて風変りな印象を与えるものであった47。
川の水中音の経験でもう一つ印象的だったのは、那珂川や今川など、多くの河川の中流域から下流域に
47 しかし、これについては学術的な根拠がなく、私自身もただそう類推しているだけなので、実際のところは別の発 音源である可能性も充分にある。海軍の研究から引き継がれた海洋生物音響学の分野は、文字通り海の生物の音を 研究の中心としており、こうした淡水域~汽水域の水中音については調査例が非常に少ない。そのことが、淡水域 における音の経験を相対的に曖昧なものにしている。
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かけて広く聞かれる水中の背景音の正体を知ったことである。はじめにこの音を聞いたのは8月の午後の 那珂川での調査である。それなりに流れのある地点だったので、普通であれば水が流れる音を想定すると ころだが、実際にハイドロフォンをとおして聞こえてきたのは「カカカカ」という無数の小石が互いに打 ち合うような想定外の音であった(逆に、川の流れの音は岩などの障害物等がない限りほとんど聞こえる ことがなかった)。それははじめテッポウエビの音のように聞こえたが、よく聞くと数個のパルスが連なっ たシンプルなパターンを持っており、一回の打撃音を断続的に繰り返すテッポウエビがその発音源でない ことが何となく推測された。しかも、それは夜になると聞かれなくなることがわかり、少なくともそれが 石ではなく生物に起因するものであり、また音に日周性のみられない海の音とは本質的に異なる要因に基 づくことが窺われた。幸い、この川は水深が浅かったので、後日、簡単に川底に棲息する生物を採取する ことができたが、その結果、那珂川下流の川底には無数のシマトビケラの幼虫が棲息していることが判明 した [図48]。昆虫学の論文を参照すると、はたしてシマトビケラの幼虫は川底に巣を作り、テッポウエビ のように縄張り争いのために外骨格を擦り合わせて威嚇音を発するという記述を見出すことができた
(Aiken 1985)。報告される音の特徴も一致しており、これは自力ではっきりと音源を特定することのでき た数少ない例である。地上での音経験を考えたとき、この体長数cm 程度の小さな芋虫のような幼虫が石 を打つような硬質な衝撃音を盛んに発していることは通常想像もつかないことである。このような経験は、
先のカニの発音行動とあわせて、生物が我々の一般的な理解を超えて多様な音響コミュニケーションを展 開していることを実感させた。
図48.那珂川で採取されたシマトビケラの一種の幼虫 [著者撮影]
一方、池や水たまり、川岸のよどみのような流れの無い場所で聞かれる音は、川や海の音よりもずっと 変化に富んでいた。たとえば、春先から初夏にかけてたびたび訪れた志賀島中央付近の池では、4月頃はと らえどころのないざわめきのような音であったものが、5月には「ブーンブーン」という羽音のような響き が優先的となり、6月には「ジーッジーッ」という地上で昆虫が鳴きかわすような音に変化した。そこで同 じ池で網をふるってみたところ、音の大きさから予想していたゲンゴロウ大の水生昆虫ではなく、体長数 ミリメートルの小さな水生昆虫―ミズムシ類(おそらくハイイロチビミズムシ)やガムシ類(ヒラタガ ムシの一種ほか)―が複数種捕獲された。それらをしばらく水槽に分離して飼育・観察したが、フィー ルドで聞かれた目的の音をとらえることはできなかった。しかし、これらの微小な昆虫のグループが多様 な音響コミュニケーションの形態を発達させていることは昆虫学の分野で盛んに報告されており、実際に