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88 の完成度の高さを賞賛した(Lucier 2012: 153)。

このように、《カオス、そして創発する池の精神》では、異なる時間軸、地域の音が、聴取の経験をつう じていったん内面化され、それがダン自身のフィルタをつうじて再構築されている。そうしたプロセスを 重視することで、本作品は水中音を単なる音素材ないし象徴的記号としての位置から脱却させ、その聴取 の経験をいかに解釈し表現するかという問題へと踏み込んだ。つまり、音を聞くという行為が環境や生態 系の理解を生み出す世界認識のプロセスに他ならないことを強調したのである。しかし、彼は作り上げら れた作品の音のみをつうじてこのような「知覚の再文脈化」を試みたわけではない。そうした音について の見方は、さまざまな情報や思考が刻まれた作品のディスクリプションによって補強されるものである。

逆に我々が水生昆虫の音を聞いてそれだとわかる知識を有していない以上、そのようなディスクリプショ ンを伴わなければ、本作は純粋に電子音楽的な作品と受け取られるしかなかっただろう。つまりここでは、

言葉と音が不可分に聞き手に作用し、作品の聴取の経験を現実世界の理解と関係づけていると考える必要 がある。そのような意味において、少なくともダン自身の掲げるコンセプトからみれば、本作品は一枚の 芸術写真のように、説明無しにその美学的価値を表現する類のものではない。

そもそも、ダン自身、録音というプロセスの美学的意義には懐疑的な想いがあることを明らかにしてい る。たとえば、彼は録音物によって現実の聴取の経験を再構築することは困難であることを強調し、それ らは「言葉だけによる説明を少しばかり活性化させる」に過ぎないと述べている(Dunn 1999: 21-22)。す なわち、ダンは先に述べたように対象に対する分離的(視覚的)理解と統合的(聴覚的)理解とを対立さ せ、自身を後者に位置づけることでその芸術実践としての意義を強調していたにもかかわらず、少なくと も録音作品による再構築された環境音の経験は、言語によるその分節的な説明と本質的にはそれほど変わ らないことを認めているのである。この録音とディスクリプションとの緊張関係は、先に取り上げたチュ ードアの《海のしっぽ》における、彼自身の音源の把握と作品における音源の隠蔽との差異にも通底する 問題であろう。このことは、ハイドロフォンによる聴取という、いっけん純粋に聴覚的な経験が、それに 対する知識や視覚情報といった客観的な認識から切り離せないことを示唆している。

一方、近年のフィールド録音作品においては、その表現ジャンルとしての成熟に伴い、作品を現実の聴 取の経験の下位に位置づけるのではなく、作品それ自体の独立した美学的価値が追究されるようになった。

そうした傾向の一つの帰結として、2000年以降のフィールド録音作品の多くで、コメントを短縮化したり、

コメント自体を取り除いたりすることで、いわば一個の音楽作品のように音のみで表現を完結させようと する傾向がみられる。それと同時に、環境音を単に音楽の素材とみなさず、それがもたらす世界認識の問 題と積極的に関わろうとする傾向も強まり、フィールドワークや事前調査のプロセスに充てられる時間や 労力も大きくなりつつある。こうした二つの方向性が同時に追求された結果として、フィールドワークと 作品の間の関係性が希薄化するという、ある種の矛盾を抱えた事態が生じるようになった。

3-3-3.聴取と作品の分離:ヴィンデレン、クイン

チュードア、ダンの先駆的な試みに続くように、1990年代後半以降、水中音を用いたフィールド録音作 品は少なくとも数十以上は制作されており、もはやフィールド録音芸術におけるごくスタンダードな手法 の一つとして確立しつつある。そうした作品においてはダンのように音への解釈を表明する長尺なコメン

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トはほとんどみられず、簡潔なディスクリプションによって現実世界の参照としての音の位置を維持しつ つ、あとは音自体に語らせるというスタイルが一般的になりつつある。

たとえば、トマス・ティリーの水中録音作品《ケーブルとサイン Cables & Signs》(2009年)では、淡水 域の水生植物や水生昆虫の音が収録されている旨のコメントはあるが、それ以外の音や録音の状況につい ての説明は排されており、これらのトラックが「注意深い主観的な聴取のプロセスの結果として抜粋され」、

「音楽作品としてのフォーマット」に落とし込まれたことが強調される(Tilly 2009)。クリス・ワトソンの 小品《太平洋 Oceanus Pacificus》(2007年)では、それがハイドロフォンで録音されたガラパゴス諸島付 近の海の水中音であることを示す短いコメントと、「3m」、「5m」といったおそらくは録音された水深を示 すトラックのタイトルのみが付与されており、聞き手は生物の音や波の音が渾然一体となった正体の判然 としない音世界を聞くことになる。フランシスコ・ロペスの《無題 300番 Untitled #300》(2015年)で は、A面「水上 Above Water」、B面「水中 Underwater」というLPの各面のトラック名と、録音地とな った島の地名が与えられているが、ここでもロペスの他の作品と同様に、タイトルを含めて音についての 一切のディスクリプションが控えられている。淡水域の水生昆虫の音を利用したとされるジョン・ヒュダ ックの《池 Pond》(1998年)では、タイトル以外の何の情報もなく、「池の底に あのバスを 見し夢を見 し」というアーティスト自身による俳句が添えられているだけとなっている。このように、程度にはばら つきがあるものの、これらの作品は総じて、音それ自体によって純粋に音楽的な経験を生み出すことを志 向するともに、切り詰められた言葉によって現実世界との参照関係を僅かに漂わせることで、その経験の 意味を変質させる戦略をとっているように思われる。

このような手法は、かつての写真芸術の一領域への接近を思わせる。スーザン・ソンタグは、非日常的 な視覚世界を主題とする写真芸術は、その形象的な面白さと、作品のタイトルによって知らされるその正 体に対する驚きという二重の効果を持つと評した(ソンタグ 1979: 98-99)44。これらの写真は見る者に純 粋に視覚的な印象をまず伝えたうえで、その形象が生物の体の一部であったり流体のふるまいの一瞬であ ったりすることの暗喩的な意味を控えめに伝えようとする。これと同様に、水中音を収録した近年のフィ ールド録音作品は、音そのものの音楽的な面白さや美しさがまず前面に押し出され、そのうえでその正体 が海中の音や池の音であるという事実の驚きが伝わってくるという、二重の効果を有していると考えられ る。これらの作品におけるディスクリプションは、録音物を現実世界へマッピングするための役割を果た すが、あくまでその主体は作品が提示する音そのものなので、過度に説明的になることはない。それによ って、聞き手は音についてある程度の自由度を持った想像を膨らませることができるのである。しかし、

このような戦略を踏まえたうえで、その背景にある見えづらい問題にも着目する必要がある。すなわち、

こうしたモダンなスタイルにおいては、フィールドでのアーティストの聴取の経験と、作品において再構 築された聴取の経験との関連性が希薄化する傾向がみられるのである。

44 ソンタグがここで具体的に挙げているのはエドワード・ウェストンの1931年の写真「キャベツの葉 Cabbage

Leaf」、およびハロルド・エジャートンの1936年の写真「ミルクの水滴の王冠Milk-Drop Coronet」である。ウェ

ストンの作品については、「その形は楽しく、しかもそれは(驚いたことに!)キャベツの葉の形である」、エジャ ートンの作品については「飾り気のない小冠と見えるものが、はねかえったミルクとわかったとき、それははるか に興味あるものになるのだ」と述べている(ソンタグ 1979: 98-99)。

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2000年以降、もっとも積極的に水中音にアプローチしたであろうアーティストの一人がヤナ・ヴィンデ レンである。具体的な作品としては、ノルウェー付近の海中の音と空気中音で構成された《エナジー・フ ィールド Energy Field》(2010年)、北極域から赤道に至る後半の太平洋の海中音を収録した《ワンダラー

The Wanderer》、フランスのオルヌ川での水生昆虫の音を収録した《リスナー The Listener》などがある。

ヴィンデレンの作品の特徴は、ダンのように入念なフィールドワークを行い、生物の観察、論文のサーヴ ェイ、インタビューなどを行っているにもかかわらず、そうした具体的な情報が作品において削ぎ落とさ れ、さらに音源をミックスしたり変調したりする「作曲」のプロセスを経ることで、抽象的な音響体が構 成されているという、その両義性にある。特にこの傾向がはっきりと表れているのは、初期の代表作《エ ナジー・フィールド》である(図44)。

図44.ヤナ・ヴィンデレン《エナジー・フィールド》を収録したCD [著者の私物を撮影]

ノルウェーでのフィールドワークでの録音に基づいて制作されたこの作品では、音に関する具体的なコ メントが一切なく、さらに水中音と空気中の音、自然の音と人為的な音の録音が混在するかたちで用いら れているため、音源の正体は一切不明となっている。「プツプツ」という雑音に時折「グッグッ」というよ うな唸り声が聞こえたり、「シャーー」というような持続音が全体を覆い尽くしたりしながら、さまざまな 響きの重なりによって一個の架空のサウンドスケープが構成されていく。

しかし、このような曖昧な作品の質感とは対照的に、ヴィンデレン自身は長年の経験と科学的知識の引 用によって、そうした音に対する極めて分節的な理解を獲得しているのである。たとえば、彼女は、フィ ールドワークで出会ったタラの発音行動がいかに複雑な質感を持っているかを例に挙げ、水中に別様の音 響コミュニケーションの世界が広がっている可能性を次のように興奮気味に語っている。

私はタラ、ハドック、ポロック、エビ、巻貝、ナマズの音を聞き分けることができます。私は3種類

のタラの音を録音しました。一つは餌を守るための音、もう一つは縄張りを守るための音、そして最