然
と 親 驚
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大
主主 F三子L
にシ
1
日んただいま︑ご紹介していただきました細川でございます︒このたび﹁法然と親鷺﹂というテ
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マで︑松野先生より 直接お話を聴聞できることと楽しみにしておりました︒ところが︑突然ご病気ということで︑急速その代講をするよ うにという事で︑準備も殆んど致しておりません︒しかし︑テ
l
マも決まっておりますので︑これまで私なりに考え
てお
りま
すこ
とを
︑ そのまま問題提起という事で申しあげてみたいと存じます︒
ところで︑今回の大会は︑浄土宗の開祖である法然上人と︑私たちが宗祖と仰ぐ親驚聖人との︑
いわゆる師資の関
係に
つい
て︑
とくに御本山では︑このテ
l
マに基づく宝物の展観が計画されました︒そして︑このことに関しては︑
後で詳しく平松先生から﹁宝物展観の問題点﹂と題されて︑
お話をうけたまわり︑直接に法宝物を宝物館で拝見でき る事でございます︒これについて私は︑聖人真蹟本とも関係して︑
まず﹃唯信抄﹄をめぐって申しあげたいと思いま これは︑松野先生が昭和三十四年に著わされた﹃親驚﹂︑ す ︒
その副題には
﹁その生涯と思想の展開課程﹂とございま すが︑実は私︑この本に色々教えられたところが多いのであります︒このうち︑特に第六章は﹁源空・聖覚・親驚
L
とありまして︑法然と親驚との聞に聖覚を入れられてあります︒今︑申します﹃唯信抄﹄はその聖覚の著垂直でありま して︑親驚聖人はそれに対して﹃唯信紗文意﹄を著わされて︑東国の田舎の人々に出されています︒こういう観点か
ら︑
特に
聖覚
の問
題︑
なかんずく﹃唯信抄﹄の著者である聖覚について考えてみたいと思います︒
あ ぐ
さて︑この聖覚のことでありますが︑この方は詳しく申せば﹁安居院の聖覚法印﹂といわれ︑親驚聖人よりも六歳
年長であります︒すなわち一一六七︿仁安二︶年に生まれた︒そして︑亡くなったのが一二三五︵文麿二︶年︑六十九歳
でございます︒とくに親鷺聖人は聖覚法印を先輩として︑非常に敬われたことは周知の通りでございますが︑その著 述である﹃唯信抄﹄が法然上人と親驚聖人との関係を︑すなわち法然の﹃選択集﹂と親驚の﹃教行信証﹄を結ぶとこ
ろの︑媒介になっているのではないでしょうか︒もっとも︑﹃選択集﹄は︑法然上人ご存生の聞は非公開の書物であ
りま
して
︑
一般には勿論のこと︑門弟の中でも極く限られた人だけが︑書写し読むことが出来たということから考え
ますと︑どうも︑両者の関係という事も︑もう少し別の観点から推求しなくてはならないと思います︒そういう別の
観点からという事ですと︑親驚聖人のお言葉を伝えた﹃歎異抄﹂があります︒その前九条︑いわゆる師訓篇の基づく
とこ
ろが
︑
よきひと法然上人の念仏往生を親驚聖人が伝えられているという︑その中には︑やはり聖覚の﹃唯信抄﹄
が入ろうかと思います︒こうした点を注目した﹃歎異抄﹄研究で︑特異な存在である妙音院了祥という方は︑とくに
﹃唯信抄﹄を強く打ち出されます︒そういう事などがあって︑法然と親驚の関係を︑我々真宗の方は非常に強く師資 の相承をいうわけでありますが︑浄土宗などはどうもその関係をいわず︑あるいは否定さえする傾向が従来あったの であります︒そういう点を少しでも明らかにしてみたいと思うのでありまして︑思想展開ということからすれば︑浄
土宗から浄土真宗への展開と申しますか︑真宗の開顕という事を
この
とこ
ろ考
えて
おり
ます
︒
そういう事のなか
で︑資料に基づいて二つばかり申しあげてみたいと思います︒
法 然 と 親 驚
五
法 然 と 親 驚
一一
六 まず︑聖覚の名前のよみかたですが︑
かつて山口光国先生は﹁しようかく﹂とよむのが正しいと申されましたが︑
しかし︑親驚聖人は﹁せいかく﹂とよんでおられますし︑他の記録にも﹁せいかく﹂とありますので︑
﹁せ
いか
く﹂
の方が正確であろうと存じます︒ところが︑この聖覚その人の性格がどうもよく解らないのです︒それで︑松野先生
も﹁親驚﹄の中で問題にされまして
松本彦次郎氏は︑唯信抄を作った聖覚がこうしたことをなすはずはないとして︑この記事を偽作とした︒
︵﹃
親驚
﹄コ
二八
頁︶
と申される︒これは︑前に松本彦次郎先生が﹃日本文化史論﹄において︑
﹃唯信抄﹄を作った聖覚がこうした弾圧
をす
る筈
はな
いと
︑ いわれたのであります︒と申しますのは︑実はこの聖覚が聖覚法印で天台のお坊さんであって︑
嘉禄三年の念仏弾圧の時に念仏禁止の進言をして︑念仏者を弾圧する側の指導者であったということ︒このことは︑
法然
上人
の弟
子で
︑ しかも法然の念仏義を正確に伝承する﹃唯信抄﹄の著者である安居院の聖覚が︑
そのような念仏
弾圧の側に立つ筈がない︒すなわち聖覚がこうした事をなすはずがないとして︑この記事は偽作であると結論された
のであります︒それについて︑先程の文に引きつづいて
かかる松本氏の合理的解釈だけで偽作とすることができるかどうかが問題である︒なぜなら︑人間の行動と思想 とは必ずしも一致しないばかりか︑非合理的な魔的なものに満ちているからである︒
と︑こういう具合に述べておられるのでありますが︑この事について︑もう少し資料の上で確かめてみたいと思うの
です
これについて︑実は先年問題となったこと︑それは天台宗に僧籍のあられる福井康順先生が︑法然上人は亡くなら ︒ れるまで天台のお坊さんであったから︑浄土宗で言うような︑聖道を捨てて浄土に帰入されたという︑
いわゆる捨聖
帰浄ではないのだ︑と問題を投げかけられた事があります︒もちろん︑法然上人は寸選択集﹄を著わされたのであり
まず
から
︑ したがって︑選択は選択に違いないが︑それは内選択と申さねばならない︒すなわち︑内が選択であって 外は天台なんだと︒だから︑生涯を通じて天台のお坊さんであったと︑主張されたのであります︒私が申しあげたい ことは︑このことと関連するのでありまして︑私たちが法然上人像を考える場合に︑先ほど問題としてあげた聖覚法
印その人の性格を把握することによって︑おのずから解明できるのではないかと思うのであります︒もし︑そうでな
いと︑法然上人という方は種々様々な事をなされていますので︑仲々解らないのであります︒すなわち︑浄土宗を開 かれた法然上人が何故こんな事をなされたのかと︑どうしても理解ができない事がございます︒たとえば︑戒師とし て生涯を通され︑その臨終には極めて聖道的な儀式をもって入寂されたこと︑また常ひごろ日課念仏を六万遍︑
さら
に最後には七万遍も申されるという︑それは浄土宗を聞かれた法然として︑どうもすっきりと額けないのでありま す︒こういう事で︑己前︑福井先生と︑それから京都では浄土宗の仏教大学の先生方との聞に︑論争が展開された次 第でございます︒実は︑こうした問題にも私たちは応えていかなくてはなりません︒私たちは真宗だから︑浄土宗の 法然上人のことは知らないというわけにはまいりません︒それどころか︑親驚聖人にとって直接の﹁よきひと﹂であ る法然上人のことは極めて大切であり︑どのように師の上人につかえ︑どのように上人の心を体して実践されたこと でありましょうか︒実は︑こうした推求において︑浄土真宗の開顕が︑おのずからに領解されるのではないかと窺う ものでございます︒そして︑このことが天台宗と浄土宗との間におこった問題︑すなわち︑法然上人が自派の人だと
いう
決め
つけ
の中
で︑
それぞれに主張される立場をも認めて︑しかもその論争をこえたところに︑本当の法然像が求 められるのではないでしょうか︒それは︑この師にしてこの弟子あり︑この弟子において﹁よきひと﹂があるといっ た︑法然と親驚との真に麗しい師弟関係の上に︑必然的に明らかになるのではないかと思うのです︒このことは︑法
法 然 と 親 驚
一一
七
法 然 と 親 驚
一一
八 然門下多しといえども︑こうした師資相承を明確にしうるものは︑
﹃選
択集
﹂の
付属
と真
影図
画の
恩許
であ
り︑
寸 西 方指南抄﹄をはじめ︑親驚聖人の遣されたものが︑今日もっとも重要な資料である事は︑特に注意しなくてはなりま せん︒したがって︑親驚聖人の流れを汲む真宗の資料においてこそ︑法然上人の正しい人間像が描かれるのではない かと︑私は思っておるものでございます︒
ところで︑先程来︑問題としてあげました法然上人についての︑種々の矛盾点を解決いたしますのに︑聖覚法印の 場合を注目したのですが︑それは︑この聖覚もやはり天台のお坊さんでありますし︑
さらに聖覚は唱導師であるとい
うこ
とを
︑ まず明らかにしていかなくてはならないと思います︒すなわち︑天台のお坊さんで︑
しかも法印としての
立場
から
は︑
いわゆる承元の念仏弾圧に引き続く嘉禄三年の弾圧︑この時には同じ天台のお坊さんの隆寛律師が流さ れたのであります︒同じ天台宗の僧侶でありまずから︑とうぜん隆寛に加担すべきであるにも拘わらず︑聖覚は弾圧 者側に立つのであります︒それは︑私流に申しますならば︑聖覚法印の社会的立場が﹁法印﹂として︑天台宗の一つ の指導的立場からそうさせるのでありまして︑
それが外の面での立場であります︒しかしながら︑
﹃唯
信抄
﹄を
著わ
されたことにおいて︑実は嘉禄の念仏弾圧より前︑
かつて承元の弾圧で︑住蓮・安楽が死罪になり︑師の法然が四国
へ流
され
︑ そして親驚もまた越後へ流されるという︑
その弾圧を行なった側の朝廷︑天皇・上皇のことが寸教行信
証﹄の終りに記載されているように︑後鳥羽上皇を中心とする方々でありますが︑その後鳥羽上皇が今度は鎌倉幕府
を追
討し
よう
とし
て︑
それが反対に幕府の方から隠岐島へ流されるのであります︒かつての実力者が︑わずか十四年
後に
は流
され
ると
いう
︑ 一つの権力闘争の浮き沈みがある︒こういう中で︑聖覚は一体どのように対応しておられる かと申しますと︑それについては色々と資料がございまして︑例えば藤原定家の﹃明月記﹄をはじめ︑当時の公家の 日記とか︑或いは色々な記録に残されております︒こうした中で︑親驚の行実はこれらの日記や記録類に全く出てお