檀野 祐作 はじめに
私が漁師について興味を持ったのは、氷見の定置網漁師星野喜秀さんの語りからである。
星野さんは、漁師歴25年の中堅漁師であり、現在港近くの漁師町に住んでいる。私は、合 宿がはじまる前の4月23日に星野さんの自宅へ上がらせてもらい、実際の仕事内容や生活 リズムなどを聞くことができた。がっしりとした体格の持ち主の星野さんは、自然を相手 に仕事をすることの厳しさ、一年を通して移り変わる魚をとることの楽しさを語ってくれ た。「定置網漁は、ギャンブルのようなもので、実際に朝網を手繰りにいくまでは、どれぐ らいの魚が入っているか分からない。だからこそ面白い」「仕事中は命がかかっているから、
若いもんには厳しくなる」といった、男らしい言葉を聞いた。星野さんの語りを聞いてい くにつれて、それまでに自分の持っていた漠然とした「漁師」像が思い込みであったと感 じ、現在「漁師」を職業としている人はどのような人たちなのか調べようと考えた。
本論では、現在の定置網漁業について、聞き取りや文献資料からの技術的文化的側面の 調査結果、また聞き取りからの心理的側面を過去と比較することで「定置網漁師」につい て言及していくこととする。
1. 調査概要
1-1. 調査概要
本章の目的は、過去と現在の定置網漁や漁師について調べることで、「現在の漁師」はど のような人たちであるのかを考察することである。調査地は氷見市、調査期間は平成25年 9月14日から9月20日、10月22日、10月29日、11月11日、12月6日である。なお、
聞き取り調査は、「四よんきょう共漁業組合」という大型定置網組合に所属する漁師とその組合を引退 した漁師、富山県定置漁業協会理事(網元)、それに氷見漁協の方々を対象に行った。また、
特に氷見の定置網の歴史に関しては、文献資料も利用している。
1-2. 現在の大型定置
氷見市内の大型定置網漁組合は、氷見地区に3経営体、阿尾地区、薮田地区、宇波地区、
女め良ら地区にそれぞれ1経営体ずつの、計7経営体が存在する。昭和63年時では9つ経営体 があったが、平成に入ってからの経営体数は減少した。なお、氷見市の漁業経営総体数97
に対して、大型定置が7つしかないが、平成24年の氷見市の漁獲量の54%(14,030トン に対し7,565トン)、漁獲金額の38%(38億1千6百万円に対し14億4千万円)を占め る。大型定置の漁獲量の上位を占めるのはマイワシ、カタクチイワシ、ソウダガツオ、ス ルメイカであり、漁獲金額では、ブリ、スルメイカ、アジ、メジマグロが上位を占める。
氷見市の定置網数は大小合わせて45ヵ統、大型定置網は氷見沖に17 ヵ統ほど敷設されて いて、調査対象組合は5ヵ統所有している。
水揚げされた魚は全て氷見市南部の県営漁港である氷見漁港に集められ、各地に卸され る。氷見漁港に集められる魚の大半は近くの海で水揚げされたものだが、能登方面やたま に市北部からトラックで魚が運送されてくることもある。
2. 定置網について
2-1. 定置網の歴史
まずは、定置網漁の歴史を、「台網だいあみ」と呼ばれた頃から、現在までさかのぼって記す。氷 見の定置網の歴史は天正年間(1573~1593)までさかのぼるとされている。最古の資料と しては慶長 19 年(1614 年)にクロマグロをとる「夏網なつあみ」についての文書がある。氷見で は、明治 34 年に制定された漁業法に「定置網」という言葉が使われるまで、「台網」と呼 ばれていた。初期の台網の構造は、魚をとらえる袋状の「身網み あ み」と、回遊してきた魚群を 身網へと導く垣根のように張られた「垣網かきあみ」の二つの部分からなり、当初は藁縄を編んで 作られた藁網であった。藁網は海中に敷設ふ せ つしておくとだんだんと腐ってゆくため、秋から 冬にかけて富山湾に回遊してくるブリとブリの若魚であるフクラギをとるための「秋網」、
冬から春にかけてイワシやスルメをとる「春網はんなみ」、夏にマグロをとる「夏網」を周期ごとに 入れ替えて操業していた。その後明治40年に、当時宮崎県で使われていた「日高式大敷網おおしきあみ」 が導入され、網の構造が変化した。明治45年から大正元年にかけて氷見の上野氏が「網あみ口くち」 と呼ばれる開口部を狭くした「上野式大謀網だいぼうあみ」を考案した。この大謀網は大規模で長大な 身網を持つことから、網取りの時間の短縮と「垣網」に沿って身網に入った魚群の散逸を 防ぐため、昭和初期頃に「角斗か く と、のぼり網、身網」の三段階に分け「身網」に入った魚を 水揚げする「落とし網」の工夫がなされた。「角斗」は「運動場」とも呼び、垣網に沿って 沖へ泳いだ魚が最初に入るところである。ここで魚群を一定の範囲に囲んで行動を制限し さらに「身網」へと誘導する。「角斗」と「身網」の途中に位置するのが「のぼり網」であ る。「のぼり網」の出口は海面近くにまで上がってきているため、「身網」に入った魚はま た海面近くに上がらないと脱出することができない。昭和30年代頃から網の材質が藁から 合成繊維を編んで作られた化学繊維網が導入された。これにより、周期ごとに網を入れ替 える必要がなくなり、通年敷設することが可能になった。昭和40年代には身網の奥にさら
に「のぼり網」を設け、二つ目の身網を取り付けた「二重式落とし網」が考案された。こ れは「越中式落とし網」として、現在も敷設されている(図1)。
図1. 越中式落とし網(きときとひみどっとこむより)
次に、定置網漁に使われてきた船についてである。氷見で定置網漁が行われてきた天正 年間から、昭和30年ごろまでは、「ドブネ」と呼ぶ箱型の舟が使われた。全長14~15メー トル、幅約2.5メートル、深さ約0.7メ―トルあまりで、船体には、主に地元の杉を、網取 りの際に太い藁綱やロープが直接当たって擦れる部分には、擦れに強いアテ材を使った。
ドブネは動力がないため、後に舵をつけて曳船ひきふねに曳かれて漁場へ往復するようになるまで、
船尾の艫とも櫓ろ1丁と両脇に脇わき櫓ろを2丁のほか、6丁から8丁の櫂かいで操船した。「櫓ろ」とは水中 で翼断面を持つ棒を左右に振ることで推進力を得る道具で、「櫂かい」は船べりに支点を持つオ ールと同じものである。昭和40~45年頃には、FRP(繊維強化プラスティック)製の動力 船が導入されるようになった。それまでは曳船となる木製の動力船は存在したが、この新 しい動力船には、揚網機よ う も う きや「ユニック」と呼ばれるクレーンなども搭載された(写真1)。
写真1. 揚網機
定置網は大きく2種類に分けられる。敷設水深が27メートルより深い大型定置、それよ り浅いところに敷設される小型定置である。定置網を敷設する海域は県の許可が下りた区 画にのみ制限される。現在の氷見市の場合、大型定置網は海深27m~90mの間に敷設され ている。氷見沖には17箇所の漁場が存在する。
2-2. 調査組合について
氷見の定置網漁が組合のかたちをとるようになったのは、大正時代になってからのこと である。そのなかで、四共漁業組合ができたのは昭和 28年(1953 年)のことである。当 初、四共漁業組合の参加したのは、もともと定置網漁をしていた漁師たちではなく、八艘 張り網漁をしていた漁師たちであった。
現在の四共漁業組合の構成員は31人で、その役割は7つに分けられる。まずは、現場の 総括である「船頭」である。船頭は 1 人のみで、漁の総指揮をとり、乗組員の管理や漁獲 の管理を行う。また、現場の人間として株主の役員会に参加するのは船頭だけである。そ れに続いて、船頭を補佐する「副船頭」が2人、各船の現場監督である「監督」が3人い る。揚網機などが導入される前は構成員の人数が多く、各船に 1 人監督が乗っていた。現 在、四共漁業組合では運用している船が6隻あるが、それに対する監督が3人である。現 在の監督は、近くの船へも注意を配る。その下には、船の全体的な操作と仕事の伝達をす る「表乗り」が6人、「友取り」と呼ばれる操縦士が6人、船のメンテナンスをする「機関 士」が 6 人である。さらにその下に、船頭以下、機関士までの指示に従い働く「若い衆」
が7人いる。若い衆は組合に入った頃から、4年目ぐらいまでの漁師である。
四共漁業組合は6隻の船を所有していて、それぞれの船に5~7人ほど乗船する。最も大 きい船は16トン級で、揚網機が搭載され、網起こしがしやすいように船の先端が尖らず四 角形になっている。
所有する5つの網を、県から許可された漁場に下している。常設されている網は「茂も淵ぶち一 番」、「茂淵二番」、「茂淵三番」と呼ばれ、それらは、氷見漁港から最も近接した大型定置 漁場に下されている。この「茂淵一番」などの網の名称はその漁場の海底の状況から名付 けられたとされる。また12月20日から6月10日までの期間中網が下される「中浜六番」、
「中浜七番」と呼ばれるスルメ、イワシをとる網がある。この網の敷設に期間を設けられ ているのは、この網を期間以外に敷設すると、周囲の組合の漁獲に影響するためである。
こうした取り決めは、周囲の組合との話し合いによって決定される。
また、四共漁業組合は、同じく大型定置組合の氷見漁民合同漁業組合と網を共有してい て、平成25年は、四共は「茂淵三番」、「中浜六番」、氷見漁民合同は「茂淵一番」「茂淵二 番」、「中浜七番」の漁場で漁をしている。これは5年周期で交代になる。
2-3. 網元から組合への歴史
網元とはもともと氷見の定置網漁が始まったときに、網の資本金を出資し経営を行った 雇用主やその家族、一族のことを指す。起源は定置網の起源にほぼ等しく、文禄4年(1595 年)の文献資料には、すでに網元に関する記述が存在する。定置網漁のように巨大な網が 必要な漁の場合、漁師が網を買うことは不可能である。そのため、漁師たちは基本的に網 元の資本力に頼るほかなかった。
現在氷見の定置網漁は全て「任意組合」のかたちで運営されている。「任意組合」とは、
各当事者が出資をして共同の事業を営むことを約する合意によって成立する団体である。
一般的に氷見で組合化が始まったのは大正時代に入ってからとされるが、それは明治末に 制定された漁業法(「明治漁業法」とよばれる)によるものである。四共漁業組合が昭和28 年に八艘はっそう張網ばりあみの漁師たちによって結成されたのは、昭和26年にこの漁法が許可制となった ことに起因すると思われる。組合化したことにより、形式上組合員全員の出資により経営 され、全員がその責任を負うようになった。
3. 漁法の近代化
3-1. 網
季節ごとに網が入れ替えられていた昭和初期までは、特にブリやフクラギをとる秋網の 事を「大敷網」と呼んでいた。そのほかに、夏にマグロを水揚げする網を「シブ網」や「夏 網」といい、春にマグロをとる網を「春網」や「いわしあみ鰯網」とよんで区別していた。秋網を下 す準備として、氷見では 8 月ごろから敷設準備の陸おか仕事へかかった。当時の「垣網」はほ とんど藁縄を編んで作られており、「身網」にはトワインと呼ぶマニラ麻や、綿糸の糸網が 併用された。