• 検索結果がありません。

氷見市の伝統的婚礼儀礼の変化と衰退 ―― 一刎地区を調査地として(伊藤綾奈)

伊藤 綾奈 はじめに

私の知り合いには、最近結婚したという人が何人かいる。彼らに話を聞くと、その全員 が、ウエディングドレスを着て、チャペルで式を挙げたのだという。またテレビCMやド ラマを見ていても、ウエディングドレスを着て、チャペルで挙式、ホテルで披露宴という のがほとんどである。だが、日本人の多くは、ほんの一昔前まで、白無垢や振袖を着て、

自宅で結婚式を挙げていた。例えば、1960年代に結婚した現在70代の私の祖母によると、

当時は結婚式といえば、振袖を着て、自宅で式を挙げるのが一般的だったという。私は、

そういった日本の伝統的な婚礼儀礼は、すでに日本各地で完全に廃れてしまったのだろう か、という疑問を持っていた。他方で私は、氷見の伝統的な婚礼儀礼の中のひとつ、「縁の 水」の存在を、同じ文化人類学研究室に所属していた先輩の卒業論文を通じて知ることと なった。本章では、「縁の水」を軸として、氷見市のなかでも一刎地区における婚姻儀礼の 変化について、主に聞き取り調査を踏まえた記述と考察を行う。

1. 明治・大正・昭和 30 年代頃までの嫁取り

本節では、かつての婚姻儀礼とその準備、すなわち「嫁取り」の概要を、『氷見の婚礼装 束展―打掛けを中心として―』(氷見市立博物館、1993年、pp.31-36)からまとめる。

氷見では、婚礼のことを「嫁取り」と言った。嫁取りは、「嫁迎え」、「縁の水」、「内仏詣 り」、「盃事」、「披露宴」、「草鞋わ ら じざけ」の順で執り行われた。いずれの儀式も、現在のように 結婚式場で行われるのではなく、ほとんどが婿方の家で執り行われていた。嫁取りには、

一年のなかでも適当とされる時期があった。田植えから稲刈りまでが行われる春から秋、

いわゆる農繁期は避けられ、農作業が忙しくない農閑期の12月から1月にかけて行われる のが普通であった。

戦前の頃まで、日中に儀式を行う「昼嫁取り」を行ったのはよほどの大家のみで、一般 的な世帯では「晩嫁取り」、すなわち夕方に嫁迎えを行い、夜から翌朝にかけて儀式を行う というスタイルが普通であった。嫁取り当日、婿方の家に向かう前の花嫁は、まず生家の 仏壇を拝し、両親に別れの挨拶をする。遠方や大家に嫁ぐ場合は人力車を頼むこともあっ たが、村内や近くの在所へ嫁ぐ場合は、たいてい弓張提灯を下げて歩いていった。花嫁本 人と仲人人な か ど に んのほかは、親代わりとして伯父や伯母が「親代おやしろ1」となり、家によっては道具箱

を担ぐ「道具人足衆」3,4人 行した。現在では想像しにく 珍しく、同行するのはせいぜ に加わるようになるのは、戦 婿方の家に着くと、まず道 水」という儀式を行う。これ 飲み干すもので、花嫁が生家 花嫁の持つ盃に同時に注ぎ入 ぶつけられて割る、という儀 といい、割れない場合は「足 みつけるなどした。割れる方 なるべく薄手の盃を用意した 人人の女性で、婿方では舅の

図1. 家の間取り図お

(『氷見の婚

「縁の水」の後、花嫁は親 をする。そしてお手引き役の 若夫婦の寝室となる「ヘヤ」

た、丸帯を締めた赤や黒など 少し休んだ後、花嫁と女性の

人から7,8人と、花嫁の身の回りの世話をする くいことだが、花嫁の両親がそろって嫁取りに ぜい母親だけであった。花嫁の両親がそろって 戦後になってからである。

道具2の受け渡しがある。その後、「縁の水」あ れは、花嫁の生家の水と嫁ぎ先の水をひとつに 家から竹筒や銚子に入れて持参した井戸水と婿 入れ、花嫁がこれを飲み干した後、盃を嫁ぎ先 儀式である。盃が割れると、一同口々に「めでた

足で踏んででも割るもんじゃ」などと言って、

方が縁起が良いということなので、婿方では割れ たという。花嫁の盃に水を注ぐのは、嫁方では の姉妹などが行い、盃は普通、嫁方の親代が割

よび花嫁が家にあがってからの婚姻儀礼を行う 婚礼装束展―打掛けを中心として―』より抜粋)

親代らとともに「オイ」と呼ばれる広間で婿方 の女の子 2人に導かれ、嫁のれん3をくぐって に入る(図1の経路1)。そこで、「嫁迎え」の どの色物の振袖から、白色の振袖や本上着に着 の親代らは、姑の案内で再びお手引きの女児に

る「腰元こしもと」らが同 に出席することは て、嫁取りの一行

あるいは「合わせ に合わせ、花嫁が 婿方の井戸水を、

先の玄関先の石に たい、めでたい」

嫁方の親代が踏 れやすいように、

は親代の女性か仲 割った。

う上での経路

方の人たちに挨拶 て、嫁取りの後に の際に着用してい 着替えた。ここで に導かれ、嫁のれ

んをくぐる。オイを通って仏間で仏壇を拝し、花嫁は嫁ぎ先の先祖に入家の挨拶を行った

(経路 2)。これを「内仏詣ないぶつまいり」という。あらかじめ、仏壇の前に座る婿の父親のガイモモ

4の音を合図に、花嫁らは仏壇を拝し、次のガイモモの音でもう一度、嫁のれんをくぐり、

ヘヤに戻るものとされていた(経路3)。

花嫁たちがヘヤに戻ると、次にそこで「盃事」行われた。嫁と婿の両親、あるいは嫁と 婿の父親が盃を酌み交わし、親子の縁を結ぶ。いわゆる「オヤコサカズキ(親子盃)」であ る。この後、家によっては「オチツキの膳」を出した。この膳には白い丸餅ふたつを入れ た汁椀と、2匹を腹合わせにして水引で縛った干鰯や黒豆などが並べられた。夫婦仲がよく なるようにという祝意を表すため、背中合わせにして水引で縛られた干鰯を花嫁ら自身に 腹合わせにさせるというところもあったようだ。

花嫁が婚家に入るのが、夕方から夜にかけての場合が多かったため、「披露宴」の祝宴が 始まるのは夜も更けてからであり、宴は大抵が翌朝まで続けられた。婿方の親戚衆が給仕 を務め、嫁方一同にできるだけたくさんの酒をふるまった。宴の終わりにあたって、朱の 輪島塗りの一番大きな盃で、嫁方の男性の親代をはじめ、人足衆に酒をふるまう。人足衆 に大盃が行き渡ったところで、婿方が謡曲「高砂」の千秋楽に合わせ、座敷から「カッテ」

と呼ばれる台所へ大盃を引くと、祝宴は終了する。

祝宴の後、嫁方への土産などを担いで帰る人足衆に、冷酒が湯呑み茶碗でふるまわれた。

この酒を「草鞋酒」、あるいは「道中酒」と言う。彼らが酒を呑み干した後、玄関先の石に 投げ捨てて割ってしまうものされていた。これはこうした役では二度とこの家の敷居を跨 がないという気持ちの表れで、たんすや長持等を担いできた垂木の棒も、土産を入れる道 具長持の分を残してこの場で二つに折られてしまった。宴の終わりに持ち出される大盃に しろ、嫁方一同にできるだけたくさんの酒を飲んでもらうのが一番の接待だとする、婿方 の気持ちの表れでもあった。

2. 儀式の変遷

今回の調査では、一刎地区在住または出身の男女合計41人に対して、挙式に関する聞き 取り調査を行った。以下の表1は「結婚式を行いましたか。(挙式をしたならば)どこで行 いましたか」という質問に対する回答を、挙式した年代に分けて集計し、まとめたもので ある。なお、1980年代が表2の1980年代の聞き取り人数と比べて1人少ないのは聞き忘 れによるものである。

70年代までに結婚式を挙げたと答えた人は、全員が家で結婚式を挙げたと答えている。

80年代には結婚式場やホテルでの挙式が一気に増加し、それ以降は7割以上程度(19組中 13組)の人が家以外で結婚式を挙げたと答えている。この結果から、結婚式を挙げる場所

が家から結婚式場やホテルに変わっていったのは80年代あたりであるということがわかっ た。

表1. 挙式の有無、場所の変遷

次に、一刎地区在住または出身の男女計42人に対して、縁の水に関しての聞き取り調査 を行った(なお、この41人のうちいずれの男女も婚姻関係にはない)。以下の表2は「縁 の水を執り行ったことがありますか。」という質問に対しての回答を、結婚式が行われた年 代別に集計し、まとめたものである。70代までは全員、(22組中22組)、80年代、縁の水 を8割の人々(27組中25組)が執り行っているが、90年には5割、2000年代には2割程 度の人々のみ執り行ったという結果であった。ここから、縁の水の存続にとって90年代あ たりが大きな転換期であったということがうかがえる。また割合に減っているにしても、

縁の水は2000年代続けられており、現在も存続するものである。

表2. 縁の水を執り行った人数の変遷 結婚式を行っ

た年代

1941

~1950

1951

~1960

1961

~1970

1971

~1980

1981

~1990

1991

~2000

2001

~2012 縁の水をした

人数 1 4 10 6 4 3 2

縁の水をして

いない人数 0 1 0 0 1 3 7

計 1 5 10 6 5 6 9

また、表1と表2を比較すると、結婚式を執り行う場所が、家からホテルや式場といっ た家以外の場所に変わっていったことが縁の水の衰退に一歩先立っているということがわ かる。

結婚式を行 った年

1941

~1950

1951

~1960

1961

~1970

1971

~1980

1981

~1990

1991

~2000

2001

~2012 家で挙式し

た人数 1 5 8 6 1 2 1

式場で挙式

した人数 0 0 0 0 3 4 6

挙式してい

ない人数 0 0 2 0 0 0 2

計 1 5 10 6 4 6 9