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第一節 ロマン派の影響 ―詩人バイロンとの関係について―

コペンハーゲン黄金時代の若者であったキェルケゴールはバイロン主義(Byronism)の 雰囲気の影響下にいた。1815年からデンマークの新聞誌にはジョージ=ゴードン=バイロ

ン(George Gordon Byron 1788-1824)の詩が定期的に翻訳され、記事にもなっていたこ

とを考慮すると、1813年生まれのキェルケゴールが幼年のうちからバイロンを知り、強く 意識していたと考えても不自然ではない。しかしこうした1830年代のバイロン主義は単に 気取った厭世的態度ではなく、若者の感情と知的形成に訴える文学的運動でもあり、バイロ ン主義はデンマークロマン主義のモデルとして奉仕したのである。

同時代の多くの人々と同様に、キェルケゴールはJ.L.ハイベアのヴァイマール古典主義 的な人文主義に反発し、むしろヴィクトル=ユゴー、E.T.A.ホフマン、ハインリヒ=ハイネ とバイロンのロマン主義に傾倒していた218。H.ヘルテルによれば、1825-70年のデンマ ーク文学は、バイロン主義の受容と消化の下に、闘争と動乱の時期にあった219。おそら くキェルケゴールは理想主義的なオプチミズムが、失望、挫折や絶望といったテーマを産出 する事態を目の当たりにしたことだろう。世間では、ユゴー、ハイネとバイロンが文学・哲 学・宗教などの権威に反抗する、革命的な個人主義の反乱運動と見なされていた。それだけ に、バイロンは同時代のデンマークにおいて熱心に読まれ、広く模倣されたのである。バイ ロンは「絶望の詩人 the poet of despair」220と呼ばれ、デンマーク全体にその影響を奮っ ていた。また模倣は単にその詩句や美的感覚に留まるものではなく、その憂愁さと懐疑をも 含めて注目されたのである。

キェルケゴールの個人蔵書の競売記録『Auktionsprotokol over S

ø

ren Kierkegaards

Bogsamling』(H.P.Rohde版)には、彼が『バイロン卿全集』221を所蔵していたことが記

載されている。キェルケゴールがどの程度それらの巻数に目を通していたかは定かではない が、B.ライアンによれば、キェルケゴールの著作を根拠に、少なくとも『ドン・ジュアン』

(Don Juan, 1819-24年)とバイロンの最初のコレクションである『懶惰の日々』(Hours of

Idleness, 1807年)をいくらか読んでいたに違いない。さらに『マンフレッド』(Manfred,

1817年)と『カイン』(Cain, 1821年)から明らかに参照した箇所(Ⅵ, s.465-477やⅦ, s.149f) が手帳と日誌において見つかっているため、これらの作品もおそらく読んでいたことだろ う222

キェルケゴールの蔵書には他にもデンマークバイロン主義の作品が散見される。たとえば、

詩人C.ヴィンターはバイロンの詩を翻訳し、キェルケゴール蔵書の主要品目にあたる1593 -96番はすべてヴィンターの作品であり、その作品は女性の官能と情熱を賛美している。ま たヘルテルによれば、ヴィンター作品はバイロン主義による内面的葛藤あるいは不調和と苦 悩が決定的な役割を果たしており、この内面的葛藤こそがデンマークロマン主義に必要不可 欠なものであった223。またこの頃のデンマークにとって最も重要なバイロン主義的作品

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がフレデリック=ミュラー(Frederik Paludan-Müller)の『Dandserinden踊り子』(18 33年)であったと考えられる。この作品は単にバイロンの八行詩体(ottava rima)を模倣 したばかりでなく、ジュアンとへイディの悲劇的なラブストーリーはバイロンの精神と見事 に同化させている。のちにミュラーは、キェルケゴールと同様に、自身を宗教的な詩人と位 置付けるようになるのだが、この最初の文学的作品はバイロン的詩形の下、高貴な貴族的ダ ンディズムで貫かれている。ミュラーはその後も、バイロン主義の手法に固執しつづけ、翌 年の作品『Amor og Psycheアモルとプシュケー』(1834年)にも同様な作風が見られる。

キェルケゴール蔵書目録の1577番は『Dandserinden』と『Amor og Psyche』が一冊に 装丁された巻である。

若きキェルケゴールの日誌には詩人バイロンに対する早熟な熱狂ぶりが窺える。たとえば 1836年の日誌224には、バイロンの『マンフレッド』とゲーテの『ファスト』を並べて、

マンフレッドはメフィストフェレスのいないファウストであると評価している。だが1843 年には、『あれか、これか』のドン=ジュアン論において仮名を用いながら、それまでの賛 美をあっさりと退けている。そして翌年の『不安の概念』(1844年)にはバイロンの詩に対 して一定の理解を示しながら、その後に続く長くぎこちない沈黙を守った。ついには6年後

(1850年)の日誌225において、バイロンが人生を直性的に享楽しようとする美的実存者 のレッテルを貼り、否定的な覚書を残すのみであった。バイロンに向けたこうした冷たい態 度は、キェルケゴール自身の成熟によるものではなく、むしろバイロンの予弁法をキェルケ ゴールが哲学的あるいは詩的な領域に持ち込もうとしたためである、と主張する研究者

226もいるが、そうした主張はキェルケゴールのバイロンに対する誤解と相俟って、彼の著 作を表面的に準えたものであり、両者の関係性の本質をついていない。

キェルケゴールはバイロンのうちに何を見いだしたのか。詩人バイロンはメランコリーな デンマーク人を反体系的な極へと導いたものは何であったか。おそらくキェルケゴールはバ イロンのうちに、彼が苦悩していた同種の罪と呪詛を発見したに違いない。ロマン派の精神 が家族の罪と呪詛をどのように理解し、どのような予感と気分を齎したのか。呪詛を断ち切 る術はいまもなお未解決であり、両者は苦闘しながら異なる解決策を見いだしたのである。

キェルケゴールのバイロン受容を理解するためには、もう一人、同時代の強敵であった

P.L.メラー(Peder Ludvig Møller)が関連している。キェルケゴールが亡くなった頃には、

彼の蔵書にはP. L. メラーの作品が一冊しか残されていなかった(211番)。それにもかか わらず、バイロン受容に関していえばメラーは他の作家を凌ぐ、誰よりもキェルケゴールに 大きな影響を与えたと考えられる。より正確に言えば、メラーの文学的仕事が与えた影響よ り、彼のよく知られたバイロン風な人物像がキェルケゴールの哲学的小説『あれか、これか』

において賛美されたのである。キェルケゴールと同様、メラーも神学部の学生であったが、

神学よりも哲学、美学と文学に焦点を合わせていた。機知とイロニーに富んでいたメラーは、

仲間内ではおそらく唯一キェルケゴールと口論して勝てるような存在であった。高名なキェ ルケゴール学者で翻訳家でもあるW.ローリーは、次のような描写を書き記している。

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キェルケゴールは仲間内ではあまり歓迎されていなかった。彼は自身の機知と膨大な知識によって評価 されていたため大目に見られていたが、仲間は彼の恐ろしいイロニーの対象になることを恐れていた。無 防備で感傷的な偉人であるH.C.アンデルセンHans Christian Andersenはキェルケゴールの絶好の的で あったのに対して、メラーはキェルケゴールの強打を効果的に打ち返せる唯一のメンバーだった227

次の引用は、近年のキェルケゴール伝記作家であるガルフ(Joakim Garff)による、バ イロン風なメラーを通じて、小生意気なキェルケゴールを記している。

メラーはただありのままの官能を賛美し詩作する才人(bel esprit)であったわけではなく、詩的に表現 したことを実践した良い人間(bel homme)でもあった。メラーは言葉の上で単にプラトニック的に実践 した他の者とは違い、彼は実際に物事に携わっていた。だから、彼はつねに多くの非難の的であったが、

それ以上に嫉妬されていた。彼は、スペインで1,003人の女性を抱いたドン=ジュアンのように自慢する こともなかったが、コペンハーゲンでは誰よりも人気があった。それに比べて、キェルケゴール自身と言 えば、彼は無口な態度をとりつづけた228

貧しいコペンハーゲンの学生だったメラーにとっては、現実生活はプロレタリア的であ り、そのためメラーはバイロンの精神を、より世俗的な対象の批判へと向けた。彼は、詩の 限界を論理的な抽象的概念によって立証しようとする、ヘーゲル派哲学やJ.L.ハイベアの 批判に反対した。メラーは想像力と感情が最優先となるような文学を求めたのである。キェ ルケゴールが主観性や宗教的な理想主義を追求したのに対し、メラーは現実に焦点をあてた。

彼らは共通の敵をもつ盟友として認めあうことがなく、互いの違いに固執し、それを乗り越 えることができなかった。メラーはその荒々しい反ヘーゲル主義によって、逆にキェルケゴ ールの作品に「不毛な弁証法」と「体系構築」を発見したととらえ、キェルケゴールのヘー ゲル弁証法に対する議論を見逃したのである。キェルケゴールの議論はしばしばヘーゲルの 複雑な模倣のかたちをとるため、メラーが「体系構築」と非難したのはその点であろう。メ ラーはライバルの滑稽な冗談を本気にして受けとってしまったのである。たしかにキェルケ ゴールの著作を特定の仮名著作に注目することによって、体系的に識別をすることも可能で あるが、その作品全体は、ある種の整合的なシステムを導入しようとすることに反対である。

またキェルケゴールにとって、メラーがどのような抽象的議論を行ったとしても、彼自身の 実存的決断なしには、それらは微塵の価値も持たない。キェルケゴールにとってみれば、そ の場で左右される感情的な実存は結局のところ、メラーは選ばないことを選んだのであり、

換言すれば、彼は倫理的あるいは宗教的段階に飛躍する代わりに美的段階を選んだのである。

したがって、メラーはキェルケゴールの著作において、美的段階の具体的体現者として誘惑 者となって現われる。

キェルケゴールがメラーを評するところによれば、メラーはバイロンを自分自身の人生

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