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『三つの建徳的講話』 ( 1844 年)

この講話の序文には、キェルケゴールは「語りうるということは信用のできない技術であ り、真実なことを言いうるということすら疑わしいdet at kunne tale er en tvetydig Kunst, og selv det at kunne sige det Sande en saare tvivlsom Fuldkommenhed」と警告しており、

文字に限らず、音声やコンピューターの場合も同様で、伝達の不可能性について言及してい る。換言すれば、キェルケゴールは声の文化を用いながら、文字のリズム性に基づいて、こ の不可能性に挑もうとしている 159。そして、その伝達可能性をただ「かの親切な人 hiin

Enkelte」のみに求め、この講話はその人にのみ目を向けている。このようなことを意識し

ながら、この講話は読まなければならないのであって、キェルケゴールによれば、この講話 は「①天気など気にしないden ikke paa Veiret、②風向きなど問わないspørger ikke efter

Vinden、③雲行きを眺めたりしないseer ikke efter Skyerne、④誤って何事かに目を向け

たりしないseer ikke feil af Noget」160、ただ自分自身のうちに閉じ籠っている。だから、

読者は自分自身の体験に当てはめながら考えることで、この講話を対話に変え、冷たくなっ た思想を再び白熱させる必要がある。キェルケゴールは序文の最後に、「この朽ちるべき講 話を受けとって朽ちることのないものとして復活させる、ということを遂行してくださるこ とが最高に好ましい」(Ⅳ, s.137)と述べることによって、読者自身のうちで解きほぐされ ることを強く要望している。

第一節 あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ ―「三」、「四」、「六」の構造―

第一項 客観的真理と主観的真理

この講話の冒頭では、キェルケゴールは客観的真理と主観的真理の違いについて説明し ている。前者を「無関心ligegyldig」と呼び、それは「感嘆をこめて語られ、その偉大さ、

その高貴さが常に賞賛されるような真理 Der gives en Sandhed, hvis Storhed, hvis Ophøiethed man pleier at prise ved beundrende at udsige om den」と皮肉を込めて表現 している 161。さらに、次のように四つに分け、それぞれに「無関心」という言葉を当て はめながら、客観的真理の性格を分析している(Ⅳ, s.139)。

①個々人の特別な状態には無関心である。

②その人と真理みずからとの関わりにも無関心である。

③その人がそれを発見したのか、あるいは教えられたにすぎないのか、無関心である。

④無関心になるように自己を律する者、そうした者の理解のみ真実であると感嘆する。

それに対して、後者を「気遣いの真理bekymret Sandhed」と呼び、それは「一般的にあら ゆる場合に適合するのでなく特殊的に個々の場合に適合するにすぎない ikke at passe ganske i Almindelighed ved alle Leiligheder」と言っている。したがって、客観的真理か ら見れば、主観的真理は高貴なるもののうちに含まれない。キェルケゴールは再び、次のよ うに四つに分け、それぞれに「無関心ではないikke ligegyldig」という言葉を当てはめなが

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ら、主観的真理の性格を分析している 162。この分析には、上述の客観的真理の場合と対 比させなら、それぞれの理由も述べられている(Ⅳ, s.140)。

①個々人の特別な状態に無関心ではない。なぜなら、その者にとって真理であるかどうか、

ということこそが決定的なのであり、それは彼についてゆき、いつまでも気遣う。

②それをどのように受け入れているか、心底からわがものとしているのか、口先の空言に すぎないのか、無関心ではない。なぜなら、この区別にこそ、この真理がみずからに対 して嫉妬深いことを示している。

③真理がその者にとって祝福となるか、破壊となるのか、無関心ではない。なぜなら、逆 の決定こそ同じことに対する反証となるからである。

④この真理でもってその心を慰めているのか、他人を欺こうとして自己欺瞞に陥っている のか、無関心ではない。なぜなら、怒りに満ちた報復こそ、この真理が無関心ではない ことを示している。

こうして「気遣いの真理」は、その真理を提唱したのが誰であるのかに無関心ではないし、

逆に個々人について気遣うために、たえずその真理のうちに現在的でありつつづける。<あ なたの若い日にあなたの造り主を覚えよ>163という言葉は、このような「気遣いの真理」

である。もしもこの言葉を擬人化して、その声を聞き、その姿を見ることができるのなら、

キェルケゴールはこの人を「王者の紫衣をまとう者han bar det kongelige Purpur」あるい は「伝道者Prædikeren」と呼んでいる。なぜなら、この言葉はさまざまに異なった理解を、

造り主を通して、単一な理解のうちに融和しようとしている敬虔な願望であり、この言葉そ のものがさまざまな仕方でいろいろなものについて気遣っているからである。

世間では、造り主を覚えることでは満足することがなく、他のことに心満たされ満足して いるふりをする者がいる。このような人は盲目であって、その自己満足は自慢するにも及ば ないほどの独りよがりの手柄にすぎないことに気づいていないのである。それでも、神では ないが、最高のものを要求する者は、彼が知らなった神の思いの意義を別様な仕方において、

不完全なかたちで把握しているのであって、<あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ>

という言葉は、自分自身の欺瞞を彼に理解させるであろう。

だが、みずから進んで心満たされようなどとはしない者にとっては、この言葉は王様が享 楽をほしいままにした後で辿り着いた境地として理解し、訓戒として従うことはないだろう。

彼からすれば、この言葉は悲哀から洩れる溜息、あるいは心の吐露や感動にすぎないもので ある。心境の言葉は時には耳にするが、主観的真理の言葉と同じような語勢がなく、単に気 分のうちにおののいている。キェルケゴールによれば、このような人は、若さが夢のように そのそばを通り過ぎるときに、「そうなした人は幸いであるHeld den, der gjorde det」と独 りごとを言う。この独りごとを聞こうと欲するような人は、多くの場合、彼自身が同じよう な状態にあるか、同じようなことが彼にも起ころうとしているのを了解しているのである。

そこには、自分が善いことを遂行したという信念が欠けており、他人は立派にそうするであ ろうという嫉妬が潜んでいる。キェルケゴールによれば、「このような吐露は精神がまさに

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絶えようとしているのを意味するもの dette Udbrud betyder, at Aanden vil til at

udslukkes」である。人々は無力さのうちに弱まることに慰安を見出しており、数々の空し

い努力が意味深く扱われ、賞賛され、麻酔剤のようにそれが効いている。

たしかに、伝道者は<若い日々に、心で幸福を味わえ。心の望むまま、目の望むままに従 え。若さも、髪の黒い年も、空しいものだ。>164と言っているが、造り主を覚えることが 無駄であり、覚えたとしてもやがてそれも空しいことである、などとは言っていない。むし ろ、造り主を覚えよという思想の至福な意義と、その訓戒の下に服従させられることによっ て、すべての空しい日々を解消してしまっている。キェルケゴールは、次のような四つの例 を挙げて、伝道者の発言に注意を促している(Ⅳ, s.143f)。

①若い日に喜べ、それで悲しみを取り去れ、と言っているのではない。

②やがて過去のものになってしまう、若い日の考えのように語っているのではない。

③かつては意義をもっていた過去のものについて語っているのではない。

④意義をもっていれば、と望まれるような過去のものについて語っているのではない。

そうではなくて、伝道者は次の六つのものをもって若い人に語りかけている(Ⅳ, s.144)。

①信念の力をもって、

②経験の権威をもって、

③信頼すべき確固たる洞察をもって、

④素直な喜ばしげな確信をもって、

⑤力のこもった真剣さをもって、

⑥訓戒の気遣いをもって、若い人に語りかけている。

そして伝道者は、一般的な若い日々や若者一般について語っているのではなく、読者が自分 に関することとして理解するのと同じように、その訓戒が理解されることを望んでいる。つ まり伝道者の言葉は、幾度も繰り返され無数の人々に関わっているのであるが、いつも個々 人に語りかけている。あたかも、一人に語りかけているかのように、一人のためにのみ役立 っているかのように、個々人に気遣っているのである。キェルケゴールは、「あなたが若い

のならdersom Du er ung」と三度にわたって、伝道者が訓戒すべく語りかける様子を次の

ように表現している(Ⅳ, s.144f)。

①あなたが若いのなら、もろもろの分別に通じていても、彼はあなたに語りかける。

②あなたが若いのなら、哀願しながら佇まなくても良いように、彼は造り主を覚えようと 言うのみならず、そうするようにあなたに訓戒もする。

③あなたが若いのなら、その訓戒はふさわしく、同じように訓戒の理由もふさわしい。

この訓戒は、人生の空しさに目が開くように魂を駆り立てようとし、軽率に信じることを防 いでいる。

若い日あるいは若さの定義とは、「それは私には何の楽しみでもないde behage mig ikke」 と告げる前のことであって、時間的な経過を指すものではない。永遠から見れば、老人であ ることはなんら長所ではなく、同じく若人もなんらの長所でもないからである。したがって、

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