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『四つの建徳的講話』 (1844 年 )

1843年に『二つの建徳的講話』が発表されて以来、匿名の諸著作と平行して発表されて きた『建徳的講話』はこの時点ですでに五回刊行されおり、美的感性的作品群と呼ばれるキ ェルケゴールの前期の諸著作は、この『四つの建徳的講話』をもって終わる。これまで通り、

序文には、「講話Taler」と呼ばれ「説教Prædikener」と呼ばれない理由、「建徳的opbyggelige」 と呼ばれ「建徳のための講話Taler til Opbyggels」と呼ばれない理由が書かれているが、

これまでの序文には見られない「この書物が使者と同じように消えて、二度とは帰らない denne lille Bog ud som et Bud, men ikke saaledes som et Bud, at den atter vender

tilbage」(Ⅴ, s.85)ことが強調されており、最後の別れを告げている。そのため、もはや

通りすがりの人々に向けて、注目を惹きつけるために書かれた書物ではなく、「かの単独者

hiin Enkelte」を探し、その人を訪れ、その人にとどまろうとしている。実際、序文には「そ

の人(=単独者)がこの小さな書物を迎え入れたときに、そのときには存在するのをやめて しまっているSaasnart nemlig han har taget den imod, da haver den ophørt at være」(Ⅴ, s.85)と書かれており、ただ喜びと感謝に満ちた「私の読者 min Læser」のために、単独 者によることが目的である。

第一節 神を必要とすることは、人間の最高の完全性である

第一項 僅かなものに満足すること ―対、「三」、「六」の構造―

この講話は、これまでの講話形式とは異なり、主題となる聖句の出典箇所が明らかにされ ていない。だが、実際にはコリント人への第二の手紙 12:9191について論じられている。

冒頭には、「人間は生きるためには僅かのものしか必要としない。そしてこの僅かのものを 必要とするのも短い期間にすぎない」(Ⅴ, s.87)という言葉が掲げられており、キェルケゴ ールがどこからこの句を引用したかについては明らかではないが、この句の分析を通じて

「完全性 Fuldkommenhed」が議論されている。この句の表現は見事であり、意気高らか

に理解する値打ちをもつ言葉だが、重要なことは、この言葉に含まれている真剣さ(Alvorlig) を理解することである。つまり、他人に向けて何かものを言うだけのために、あるいはその 人を慰めるためにこの言葉があるわけではない。また自分自身に向かって語りかけることで、

すばらしいことを成し遂げた自分を自分でほめたたえることを目指しているものでもない。

それでは、私たち自身にとっても、この言葉にとっても、何の役にも立たないものとなる。

「人間が必要とする僅かなものEt Menneske behøver kun Lidet for at leve」とは何か。

この問いは、一般的な形で答えられるものでもなければ、一般的に規定できるものでもない。

時間とともに、時間が少しずつ必要とするものを奪っていき、あるものなしに済ませられる ことはよくある。特に悩んでいる者に対しては、時間は何かと寛容に心を向けるのであって、

キェルケゴールによれば、

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①悲しんでいる人に新しい慰めをもたらし、

②打ちひしがれた人に新しい励ましを示し、

③多くのものを失った人に新しく補いになるものを与える(Ⅴ, s.88)。

だが、問題なのは「新しい慰め・励まし・補い」などの、僅かなものそれ自体についてでは なく、僅かのものを必要としつづけること、つまりそれほどにこの僅かなものが必要となる、

そのこと自体にある。

完全性とは、まさに多くを必要とするにいたる過程ではない。しかし、人間が必要とする 僅かなものとは、どれほどのものなのか。キェルケゴールは、「必要とするものがどれほど 僅かであるのかを知るために、人間に衣服を脱いでもらう」と、次の六つのものを実験的に 取り去る(Ⅴ, s.88f)。

①財力と権力と威力

②不実な友人たちの見せかけのまめまめしさ

③願望のいうままになっている欲情

④有頂天になっている見栄っ張りな勝利感

⑤群衆に媚びへつらう注目

⑥颯爽とした登場ぶり

こうして、最も惨めな人が、これらのものを取り去ったがために、①自分で自分がわからな くなってしまった者なのか、それとも②臆病で気の弱さから自分の慰めが欺瞞であることに 気づいていない者なのか、そのどちらかは明白である(Ⅴ, s.89)。前者の場合、彼自身にと って自分が誰であるかがわからなくなったけれども、彼の身のまわりの変化のため、人々に とって彼が誰であるかがわからなくなることに比べれば、それははるかに自然なことであり、

また理解する喜びも大きい。また人々が外面的な諸々の所有物によってのみ、その男を見分 けているのであれば、ほめたたえている衣服がなくなることによって、その男ではなくなる ということは、逆説的に言えば、いままさにその男は着替えをして、晴れ着を身に着けよう としているのである。持ちものは乏しくても、満足していることは、それだけですでに偉大 な収穫をしたのである。最も惨めな人は後者の場合である。

そして遂には、「彼が所有する最後の持ちものを、彼から奪い去ろう」とする。キェルケ ゴールによれば、このとき

①彼は哀れである。なぜなら、この言葉が自分自身について言っていることは間違いない のだが、彼が生きるために必要な僅かなものを手に入れるにはどうすればよいかという ことについて、彼にはわからないままである。

②彼の気持ちは複雑である。なぜなら、この人は虚栄を捨てたとはいえ、自分の所有物を 放棄した人とは違うので、ひとまわり大きい虚栄の力を借りて、以前よりも心地よく暮 らしている(Ⅴ, s.89)。

こうして、キェルケゴールは、僅かしか必要としないことがわかっていながら、必要とする その僅かなものを手に入れることができるかどうかは、確実にはわからないと結論づける。

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だが、これまでの講話で示されているように、「僅かなもの」とは「忍耐」のことであると 容易に想像できる 192。耐える人こそは、僅かしか必要とせず、この僅かなものが保証さ れているのを知ることさえも必要としないことから、僅かなものを必要とするのは「短い期 間にすぎない」のである。しかしながら、たしかに人生は長いものに見えるかもしれない。

そのため、人が時として必要とするものは、ごく僅かであることについて納得がいかなくな ることがあるが、再度この言葉を繰り返す以外には何も語ることができない。なぜなら、こ の言葉は人間を慰めようとするだけではない。人が僅かなものしか必要としないことから、

忍耐という僅かなもののうちに、人は神を求めるようになるからである。そして神を必要と すればするほど、神を必要とすることについての理解が深められ、その苦しみのなかで神に 向かって突き進んでゆけばゆくほど、その人は完全さに近づく。

第二項 神の恵み ―「三」の構造―

一命をとりとめるために致命的な傷を負うことがある。キェルケゴールによれば、一命を 救うもの、それは「神の恵みに満足することAt nøies med Guds Naade」である(Ⅴ, s.92)。

神の恵みこそ、すべてのもののうちで最もすばらしいものであることに議論の余地はないが、

人間がこの確信に思いを向けることは少ない。この思いのうちに考えを据えれば、たちどこ ろに世俗的な思索と努力は無化され、一切をひっくり返すが、現実ではこのことに長く耐え られる人は少ない。なぜなら、「神の恵みに満足すること」というこの言葉は、世俗的な話 のなかに混ざり合わせることが困難であり、その使い方には違和感をもつ人が多い。実際、

良心はこの言葉に対する疚しさにかられて、すぐに世俗的な領域に退き、慣れ親しんだ話や 考えにすがりつく。語り手と聞き手という関係は、両者が同じ慰めを見つけている場合にの み、その話は成立するのであって、たとえば貧しい者に僅かなものを与えて「それで満足し なさい」と言うと、両者に誤解が生じる。およそ、世俗的な差異は妬み合うものであるから、

その只中に神という差異を持ち込み混ぜ合わせると、神という差異は世俗的な次元で理解さ れ、根本的に排除されてしまうからである。世間では「十分nøies」とされるものはごく僅 かなものであるにちがいないが、ありとあらゆるもののうちのもっともすばらしいもので十 分である、ということは矛盾した話のように思われる。それにもかかわらず、キェルケゴー ルによれば、「すべての善きもののうちで、もっともすばらしいものは神の恵みであるGuds Naade det Herligste af Alt」(Ⅴ, s.90)。

「神の恵みに満足すること」と語るとき、その確信は言葉で伝達できるものではない。な ぜなら、たとえ神の恵みが示されていたとしても、人々にとってわかりやすく好ましいよう な状況になっていることは少なく、むしろいちだんと難解な言葉で述べられている。人間が 神の恵みを願い求めるならば、神の恵み深さについて十分に理解したつもりになってしまう が、それは誤解である。事実、「神にならできる」という考えには、人間が有限的なやり方 で神になしえないことがあるとは確信することはできないため、いわば逆説的に人間的のい

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