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『三つの建徳的講話』 (1843 年 )

1843年 5月16日に刊行された『二つの建徳的講話』の序文には、二つの講話が「歓喜 と感謝をこめて私の読者とよぶところのかの単独者 hiin Enkelte」に出会うことを目的と して書かれたものであると記されているが、1843年10月16日68に刊行された『三つの 建徳的講話』の序文にも「歓喜と感謝をこめて私の読者とよぶところのかの単独者 hiin

Enkelte を見つけるであろう」と記されている。さらに、この講話が、「声高く読まれるた

めのものder med sin Stemme løser Skrifttegnenes Fortryllelse」であり、「あの好意に満

ちた人velvillige Menneske」という別な表現を用いて、あの好意に満ちた人が自分の声で

文字の魔法を解いてくれる、と声の文化を想定して書かれていることがはっきりと読み取れ る。ここでも『二つの建徳的講話』で用いられた「かの単独者」とこの講話における「あの 好意に満ちた人」は並列的な関係性を保っている。

『二つの建徳的講話』 『三つの建徳的講話』

両腕をさしのべるところのかの単独者 私の隠れ家とよぶあの好意に満ちた人

親切にこの書を受け取ってくれるかの単独者 多く私のために尽くしてくれるあの好意に満ちた人

上記とこの二か所を合わせて三回登場している。さらに、キェルケゴールが『二つの建徳的 講話』で「私の読者min Læser」と呼ぶ箇所が、ここでは「忠実な使者trofast Sendebud 69」 に言い変えられており(それぞれ1回のみ使用)、同型的な構造を保っている。

第一節 愛は多くの罪をおおう(一) ―愛と罪:「三」、「五」、「七」の構造―

『三つの建徳的講話』は『愛は多くの罪をおおう』という講話ではじまる。冒頭には愛と は何かについて、人間を

①偉大なものにしているもの。

②全世界よりもなお強くしているもの。

③幼児よりもなお弱くしているもの。

④岩よりもなお揺ぎなきものにしているもの。

⑤蝋よりもなお柔らかくするもの。

という五つの表現を用いて愛を讃えている。このことは、これからはじまる講話の内容が「五」

の構造によって組み立てられ、講話そのものの主軸が「五」という指標をもつことを暗示し ている。このあとには、「すべてのものよりも古きものder er ældre end Alt」から「決し て別なものにならないものder aldrig bliver noget Andet」に至るまで、十七個にわたる愛 についての換喩が語られる。いずれの換喩も「~(もの)は何であろうか、それは愛である」

という決まり文句的用法が使用されており、全体として一つの塊を形成している(Ⅲ, s.303f)。

①すべてのものよりも古きもの。

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②すべてのものよりも生き延びるもの。

③奪い取られることはできないが、みずからすべてを奪い取るもの。

④与えられることはできないが、みずからすべてを与えるもの。

⑤すべてのものが見捨てるとき、変ることなく存在するもの。

⑥いかなる慰めもうまくいかないとき、慰めてくれるもの。

⑦すべてのものが変化するとき、持続しているもの。

⑧不完全なものが取り除かれるとき、なおとどまっているもの。

⑨予言が黙り込んでしまうとき、証言するもの。

⑩幻が消滅するとき、消えることのないもの。

⑪不可解な話が終わるとき、説明するもの。

⑫あり余るほどの贈物に祝福を授けるもの。

⑬天使の談話において重きをなすもの。

⑭寡婦の贈物をあり余るほどにするもの。

⑮愚直な者の話を知恵あるものにするもの。

⑯すべてが変わっても、決して変わることのないもの。

⑰決して別なものにならないもの。

それではキリスト教において、何が愛を特別なものにさせているのか。異邦人さえも愛の 美と愛の力を誉め讃えているが、異邦人の愛は何か別なものに代替可能であるのに対して、

キリスト教の場合にはそれが不可能である。キェルケゴールによれば、「異邦人のすべての 愛の中には復讐(Hævnen)が隠れている」(Ⅲ, s.304)。異邦人の愛についての思想がお粗 末であり、自己本位でわがまますぎることについて、キェルケゴールは七つの換喩を用いて、

そのことを表現している(Ⅲ, s.304)。

①復讐が隠れていたことに、何の不思議があろうか。

②追放されてはいなかったことに、何の不思議があろうか。

③敵がひそかに活動していたことに、何の不思議があろうか。

④怒りがこっそりと待ち伏せし、機会を窺っていたいたことに何の不思議があろうか。

⑤怒りが突然爆発して荒れ狂ったことに何の不思議があろうか。

⑥禁断の甘味を吸い込み、そのため魂に怒りが充満したことに何の不思議があろうか。

⑦いかなる愛も幸福ではなかったことに何の不思議があろうか。

異邦人は好意的に人間に愛の喜びを贈り与えたその権力のうちに、嫉ましげな復讐と怒りを 甘美なものとして自分のところに取っておいたのである。キェルケゴールは、ここでユダヤ 人を念頭において語っており、「敬虔なユダヤ人でさえも愛への証言をしたのであるが、彼 の愛は変化と有為転変の子であった」(Ⅲ, s.304)と述べている。ユダヤ教徒は復讐を神に 委ねたとしても、彼らの魂は復讐の甘美さを忘れることはできない。神に復讐を委ねること のうちに、神の復讐の方が人間的な復讐よりも恐ろしいものであるということを、神が幾世 代にもわたって呪うことができる、という認識もまた復讐の甘美さに他ならないからである。

28 キェルケゴールによれば、ユダヤ教の愛70は、

①不安がいつでも片目を開いていることを、

②怒りがひそやかに坐りながら勘定していたことを、

③最後の時が来るまではいかなる愛も幸福ではなかった。

と分析している(Ⅲ, s.305)。キェルケゴールは三つの例を引き合いに出すことによって、

「三」という指標をたどって『四つの建徳的講話』(1843年)における三つ目の講話(本論 文の第三章三節を参照せよ)を思い起こすように仕向けていると思われる。「与える者」と

「受け取る者」の差異はこのようにして誕生する。

キェルケゴールは、ユダヤ教の愛を分析した段落と冒頭部分が全く同じ文章71ではじま る段落を別に設けて、今度はユダヤ教の愛とキリスト教の愛を対比させている。後者の段落 ではキリスト教の愛に関する五つの説明が挙げられている(ユダヤ教の「三」からキリスト 教の「五」に変化している)。キェルケゴールによれば、キリスト教の愛は

①すべてを与えはするが、理由として要求するようなものは何も持っていない愛、

②何ものも要求せず、それゆえ失うようなものは何も持っていない愛、

③祝福し、そして呪われるときにも祝福する愛、

④自分の隣人を愛し、敵をも自分の隣人であるとする愛、

⑤みずからを慰めることによって、主に復讐を委ねる愛、

と説明している(Ⅲ, s.305)。そして、この愛はペテロの言葉(ペテロの第一の手紙4:7-12) を通じて、つまり<愛は多くの罪をおおう>72と語ることによって、愛の力が証言される のである。

そこで、愛はいかにして多くの罪をおおうかについて熟考してみることによって、ペテロ の言葉を考察する。キェルケゴールによれば、次のような五つのやり方でこの言葉について 語るべきである(Ⅲ, s.305)。

① 人間がこれに向かって努力するように定められている目標。

② 決心させるような絶好のチャンスとして利用する。

③ 怠けている者を競争し始めるように促す。

④ 始めている者により素早く疾走するように促す。

⑤ 疾走している者に完全な者をめざして急き立てる。

換言すれば、「復習は甘美である」と言うような不完全な者に向かって、ペテロの言葉は語 られるべきである。キェルケゴールは再び、五つの例を挙げて、次のような者たちに語るべ きであると主張する(以下の「復讐の甘美(さ)」は筆者が補った)(Ⅲ, s.306)。

① 復讐の甘美さが持つ「萌芽(Børnelærdom)」について知っている者たち。

② 復讐は甘美であることを忘れられない者たち。

③ 復讐の甘美さを真理として長々と熱心に老練に解釈している者たち。

④ 復讐を主に委ねることのできない者たち。

⑤ 復讐を主に委ねたからといって、きっぱりと思い切ったわけではない者たち。

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さらに、そのための課題として、キェルケゴールは七つの課題を設定する(Ⅲ, s.306)。

① 悔恨した敵を自分の隣人とするほどまでに赦すこと。

② 敵が栄えてもその耳は嫉妬の囁きを聞かず、敵が不運に陥ってもそれが自分の敵であ ることを忘れてしまっていたほどに愛すること。

③ 巧妙に人々の欠点を見つけたり、知識を濫用して人を裁いたり、好奇心によって隣人 の心を傷つけたりする、或る種の狡猾な利口さに警戒すること。

④ どの人にも、キリスト教の愛をめざして努力するように訓戒すること。

⑤ どの人にも、自分自身を裁くことで他人を裁くことを忘れるように訓戒すること。

⑥ どの人にも、人を裁いたり弾劾したりしないように警告すること。

⑦ 他人に呪いを念じることで、恐ろしい神の怒りを自分自身の上に集めることのないよ うに訓戒すること。

こんなふうにして、ペテロの言葉は語られるべきなのである。しかしキェルケゴール自身も 認めているように、これは非常に難しいことで、そのように語ってしまうことで語った内容 に反して行動することになりかねない、つまり他人を裁くようになりかねないのである。そ もそも、語る者自身が自分自身を裁くということも非常に難しいことであって、そのために 聞く者に誤解を招いたり、他人を当惑させてしまうことがしばしばある。そこで、この講話 では、キェルケゴールは次善の策として、この奇跡的なことを成し遂げる「愛の力を説明し、

賞賛することville vi udvikle og prise den Kjerlighed」に課題を再設定する。そして不完 全な人々ではなく、むしろ完全な人々に対して語りかけるように変更する。なぜなら、その 方が容易く語ることができるのであり、またペテロの言葉は「①欺瞞的な詩的な表現方法で はなく、②厚かましい感情表出でもなく、③信頼に満ちた思想であり、④理解されるべき妥 当的な証言で、⑤私たちの魂を休息させる」(Ⅲ, s.307)ものであるから、なんら人々に差 別を設けていないからである。この講話は、自分を完全なものと感じていない者にも、ペテ ロの言葉にふさわしくないことを確認した者にも、それがすべての人々にあてはまることで あったとしても、同じことを語りかける。

キェルケゴールは「愛は多くの罪をおおう」という言葉を決まり文句として、七つの段落 の冒頭に繰り返し用いており、愛の力について解説している。以下では、各段落の内容と構 造を概観する。

第一段落:古くから愛が人を盲目にすることは知られている。また清い人には、すべて のものが清いとも言われているとおりに、「愛が多くの罪をおおう」という言葉は、愛すれ ば愛するほどに、すべのものがますます愛でおおわれることを意味している。換言すれば、

「愛が愛する者の魂に所を得てから、初めて愛する者は盲目となったのであり、その愛が愛 する者のうちで勝利をおさめていくにつれて、ますますその者は盲目となる」(Ⅲ, s.307) のである。だからと言って、愛する者は、自分を欺いて実際に見えるものを見ようとしてい ない、あるいは生まれつき盲目であるということを意味しない。愛することのうちには、遂 には、もう罪を知ることさえなくなってしまうような事態が起こるのである。

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