『二つの建徳的講話』(1844年)の冒頭の序文には、キェルケゴールはこの書が「ある事 柄を省略しているけれども、決してそれを忘れているわけではない」(Ⅳ, s.81)と述べてお り、その省略している内容が何であるについて明示的に書かれていないが、私たちは容易に ひとつの仮説を立てることができる。ここで扱われている二つの講話が、ルカによる福音書
21:19に基づいて書かれていることから、先の『四つの建徳的講話』(1843年)の第四講話
「忍耐においておのれの魂をかち得ること」と一緒になることを期待すべきであろう。そし て題名が「魂をかち得る(erhverve)」から「魂を保持する(bevare)」に変わっているこ とから、その内容が「魂の内実」に重きが置かれており、魂の内部における忍耐の働きが語 られている。
第一節 忍耐によっておのれの魂を保持すること
第一項 「七」の構造
キェルケゴールによれば、この書では以前には書かれなかったような仕方で「宴会の家に
入るat gaae som til Gjestebudshuus」ように誘われるという。だが、以前の書と同じよう
に「入って行くのが無駄であるにちがいないようなことat dens Indgang maatte være i
Forfængelighed」を望んではいないのであり、この書を探し求めている読者は次のような
者だとしている(Ⅳ, s.81)。
①自分の途を人に気づかれないように歩む者。
②私が喜びと感謝とをもって私の読者とよんでいる者。
③右手で差し出されたものを右手で受け取るあのひとりの人。
④受け取ったものをよい折りに取り出し、取り出すまで大事にしてくれる者。
⑤このささやかな贈物に利子をつける者。
⑥たえず旅立った者としてあることだけを願ってやまない者。
⑦喜びとなって下さるあのひとりの人。
そして人間が危難や恐怖に直面した際に、おのれの魂の強さを示した者の姿を次のように描 写している(Ⅳ, s.83)。
①その姿は、幾度となく感動の心をこめて語られ、驚嘆の眼をもって見られる。
②その分別の力は、戦慄すべきことをすみやかにはっきりと見渡す。
③その沈着な精神は、まるで最も円熟した考慮の成果のような確実さで正しいものを選ぶ。
④その意志は、押し迫ってきた恐ろしいものをどんとものともしなかった。
⑤その肉体は、どんなにつらい苦しみもなんと感じさえしなかった。
⑥その腕は、人間の力を凌駕する重荷をやすやすと担った。
⑦その足は、深淵をのぞくことになろうともなんとしっかりと立っていた。
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それに対して、世俗的な人間の生活がいかにつまらないことに魂の力を使い果たしているの か、憐れむべき人生を次のように分析している(Ⅳ, s.83f)。
①自分の生涯を無思慮にうかうかと過ごしている。
②病の床につき、病気の恐ろしさが不安にみちたものとして始まる。
③生涯において初めて大切なことを悟り、自分が戦ってきたのは死であると理解する。
④世界をも動かすほどの力強い計画に心を集中した。
⑤おろそかにしたものを取り戻すべく、また混乱したままにしたものを整える。
⑥残してゆかなければならない者たちのためにいくらか配慮する。
⑦苦悩から脱却することへの非凡な克己心を得る。
彼らを賞賛するわけにはいかない。キェルケゴールによれば、「真理と完全な献身が賛美を 是とするものhvor Sandheden og den fulde Hengivelse er Ja og Amen i Lovprisningen」
(Ⅳ, s.84)が賞賛に値するのであり、危険を発見し、恐れるべきものを洞見する力は無条
件に賞賛されるわけにはいかないのである。実際、恐るべきものがその恐ろしさを伴って外 からやってくるとき、それは人間に最後の力をふりしぼらせ、ある意味で人間に力を与える ことがある。だが、こうしたことから学べる教訓は疑わしく、喜んで騙されたがる人々が喜 んで聞きたがる欺瞞的なおしゃべりに過ぎないことがある。キェルケゴールの分析によれば、
恐るべきものを発見した者が、「①不安にとらえられ、恐れにうちのめされ、③しり込みし、
④無益にも逃れようと試み、⑤群衆に隠れ家を求め、⑥想像力にかられてますます不安を呼 び起こし、⑦不安を探求するのをやめることができなかった」(Ⅳ, s.85)のなら、やはりこ のような人を賞賛しようとも思わない。
それに反して、危険や恐るべきものを正しく知るために魂の力を健全に適用し、危険は常 に脚下にあるという真理を理解し、恐れと慄きを持って努力しなければ人間は救われないも のだと把握したとしたら、このとき恐るべきものは魂の強さを人間に賦与したのである。キ ェルケゴールによれば、このとき人間は「生命の危機において戦った人と同じような魂の強 さをもち、死と戦った人と同じような内面性を現わし、保持する」(Ⅳ, s.85)。だから、人 間がこのような危険を発見したとすれば、それは人々を驚嘆させる力よりもはるかに偉大で 賞賛に値することでなる。しかし、危険が見出されていれば容易に理解できることを把握で きないとしたら、その人の心は震撼させるほどのものを体験できなかったのであり、また真 剣さという点で成熟していなかったということを意味する。
危難は非常に種々さまざまであり、健康と祝福がゆきわたっているとしても、危難はなく ならないことを人々は知っている。人々は、その所有しているものをいかにして保持し、確 実に保持しようと望む。その結果、キェルケゴールによれば、「生と死を賭してfor Livs og
Døds Skyld」(Ⅳ, s.86)という短い言葉が生まれ、相手に言い、あるいは自分自身に言う
ことで互いに了解しあうことができる。この言葉を用いて、世代から世代へとさまざまな手 段が確立され、人々は安心して商売したり取引したり、交換したり分配したりできる。それ に反して、ルカの言葉<忍耐によっておのれの魂を保持すること>は軽々しく用いられ、特
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別に関心をよせるということもないほどに幾度となく聞かれ、新たな不安を与えたこともあ ろう。ルカの言葉は、「生と死を賭して」保持する価値あるものが何であるか「生と死を賭 して」知らせてもらう必要があり、それまでは全然気にもとめられていないものが該当する 場合もある。通常、価値のあるものは時間的なものであり、すなわち種々さまざまで常に変 化し、個々の人間に応じてその生を賭して保持されることが望まれるものであるが、死に際 しては時間的なものは捨て去られるのだから、死を賭して保持されるようなことは稀である。
死を賭してほんとうに問題にされるのは、何か永遠なものであるに違いない。つまり、ルカ の言葉は死を賭すことで、すべての人を等しくあてはまり、何の羨みもなく差別もない。キ ェルケゴールによれば、死は「①世界を所有していた人も、②まったく何も持っていない人 も、③債権を残していった人も、④債務を残していった人も、⑤死以外には知られていなか った人も、⑥数千の人々が服従していた人も、⑦美しさが驚嘆の的であった人も、⑧隠れる ために墓所のみ求めた人も、同じように貧しく、無力に、哀れにしてしまう」(Ⅳ, s.87)か らである。すべての者に等しくかつ永遠なものとは何であるか。それは魂のことである。つ まり、ルカの言葉は、この上なく保持する価値のあるものが自分自身の魂であり、生きてい る間に魂を保持しておかず、そのことを学び知る前に死が自分の魂を要求するということに なると、魂を失うことは取り返しのつかないことになる、という勧告しているのである。思 考はこのような恐ろしさをほとんど把握していない。なぜなら、魂は地上の財産とは違った ふうに保持され、恐るべきものは地上の財産の場合とはちがったふうに罠を仕掛けるからで ある。キェルケゴールは、そのことを次のように三通りに分析している(Ⅳ, s.88)。
①地上の財宝は、世界のなかの或る場所、盗人が決して近づけず誰も捜そうとしないところ に隠しておける。だが、魂をこんなふうに保持しようとすれば、たびたび見に行く必要はな いが、不安は新たな恐るべきものに目覚めることから、彼はきっと魂を失ってしまうだろう。
②財宝を自分の身からはなれたところに隠すのは危険であると考えて、魂を決して自分の身 から肌身離さず持ち歩くとき、やはり絶えず喪失の危険にさらされてしまうことから、彼は きっと魂を失ってしまうだろう。
③地上の財宝を失ったならば、その喪失について自分を慰めるように努力したり、以前の栄 光を思い出させるものをすべて避けることもできよう。だが、自分を損なうことによってそ の魂を失うならば、彼はその追憶を避けることはできない。彼の魂は自己の喪失によって、
永遠にわたってつねに失われたままであろう。
このように、地上の財宝は失ったとしても、それはこの世の生活に対してのみ失われたに すぎず、永遠に失われたということもないだろう。そして死が訪れたとき、死がその喪失と 和解し、彼からその喪失を取り去るだろう。だが、もし自分の魂が失われたのならば、たと え一瞬失われたとしてもそれは永遠にわたって失われたのであり、死も彼を救うことができ ない。だから、人間は死を賭して魂を保持してきたことを、保持していることを望むべきで あって、このことについて考えれば考えるほど思慮は不安定になるため、その思いを理解し ようとしても成功しないものである。キェルケゴールによれば、「魂が保持されるべきであ