『四つの建徳的講話』の冒頭の序文には、その中で扱われる四つの講話が、先の『二つの 建徳的講話』と『三つの建徳的講話』と一緒になることを期待してはならないと記されてい る。キェルケゴールは『四つの建徳的講話』が先行する二書より後に読まれることを想定し ており、先行する二書では見出されなかったものの、これまでに学んだ内容が読者のうちで 深く内面化され、同じテーマを再発見できることを期待している。つまり、『二つの建徳的 講話』(1843年)の講話『あらゆる善き賜物とあらゆる完全な賜物は上からやってくる(一)』 は、ここでも二回にわたって講話『あらゆる善き賜物とあらゆる完全な賜物は上からやって くる(二)と(三)』として登場し、同じ主題について建徳的講話を書き、それは講話『主 は与え、主は取り去り給う、主の御名はほむべきかな』の反復構造にも引き継がれている。
この事情は、繰り返し述べるところの「忍耐においておのれの魂をかち得ること」という表 現の内にも含意されていると言えよう。キェルケゴールによれば「この贈物を聖化し、意義 を与え、莫大なものに変えるhelliger Gaven, giver den Betydning og forvandler den til
Meget」ということが読者に求められているのである。
第一節 主は与え、主は取り去り給う、主の御名はほむべきかな
第一項 「三」の構造
ヨブは、旧約の『ヨブ記』の主人公であり、多くの苦しみの中で神への信仰を貫いた人物 として描かれる。彼は七人の息子と三人の娘、そして多くの財産によって祝福されていたが、
ヨブが幸福の絶頂にあった頃のある日、神はサタンの前にヨブの義を示す。サタンは、ヨブ の信仰心の動機を怪しみ、ヨブの信仰は利益を期待してのものであって、財産を失えば神に 面と向かって呪うだろうと指摘した。そこで、神はヨブを信頼しており、サタンの指摘を受 け入れて財産を奪うことを認め、ヨブは最愛の者と財産を失うことになる。そのとき、<ヨ ブは立ち上がり、外套を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して言った>114言葉が、この講 話の題名である。
この最初の講話は、ヨブの言葉<主は与え、主は取り去り給う、主の御名はほむべきかな
>115が取り上げられており、キェルケゴールにとっての理想の教師像が、次の三つの条件 を満たす者であり、これらを満たす具体的な人物こそがヨブである(Ⅳ, s.9)。この講話で は、前章三節二項の①~③(各(a)(b))で分析された六者が、ヨブへと深化することが 求められているということから、引き続き「三」の構造が使用されている。
①自分の生(Liv)を、あらゆる人間のための道案内(Veiledning)とする者。
②自分の名(Navn)を、多くの人々のための保証(Betryggelse)とする者。
③自分の行為(Gjern)を、試練を受ける者たちのための励まし(Opmuntring)として 残してくれた者。
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ヨブの意義は、彼の言説そのものにあるのではなく、彼がその言葉の通り、行為において実 行したということにある。だからキェルケゴールが言うように、もしヨブが自分の言葉を
①教え込むことに全人生を費やした、
②教えられるべきものの集大成と見なしていた、
③口に出して言いながら行動をしなかったの
であればこのときには、ヨブは誰か別の人間であり、彼の意義は別のものとなってしまうで
あろう 116(Ⅳ, s.10)。つまり、この場合には、肝心なのはその言葉の内容あるいはそこ
に含まれている思想ということになってしまう。だが、ヨブ自身とその言葉は有機的な関係 にあるため、一方から他方を分離することはできない。各世代の道案内役となっているのは 他ならぬヨブその人なのであり、時代を超えて各々の単独者が遍歴を始めようとするときに は、いつでもヨブが忠実な随行者として単独者を慰め守ってくれる。キェルケゴールによれ ば、ヨブは「①神の栄誉のために、②単独者自身の救済のために、③他の人々の恵みと喜び のために」、「①恐るべき苦しみが被られ、②戦慄すべきことが体験され、③絶望の戦いが戦 われたことを証言する者」(Ⅳ, s.10f)として随行してくれる(それぞれの番号は対応して いる)。そして喜ばしい日々にも、ヨブは寄り添って歩み、不安に満ちた夢を抑えてくれる。
換言すれば、ヨブは神が「①試練という試練をことごとく人間的なものとし、②私たちがそ れに耐えることができるようにし、③試練から遁れる道をつくり給う」(Ⅳ, s.11)という勝 利があることを保証してくれる存在である。
だがキェルケゴールによれば、「軽薄な者Letsindige」、「自愛にふける者 Selvkjerlige」、
「強情な者Trodsige」と「惰弱な者Blødagtige」の四者は、次のような理由でヨブを拒絶 すると分析している(Ⅳ, s.11)。
①軽薄な者:自分が努めて忘れようとしている人生の恐ろしさや不安を思い出したくない。
②自愛にふける者:自分の壊れやすい喜びを妨げたり、頑固さや自失のうちで酔って安心し ている自分自身を脅かして欲しくない。
③強情な者:(a)絶望のなかにあっても自分の心を完全に解き放つことを望む。
(b)信仰や信頼や謙遜の響きが一つもないまでに呪うことを望む。
(c)自分の強情さのうちでその叫び声を窒息させることができればよい。
④惰弱な者:一刻も早くあらゆる思いを断念し、無気力のなかであらゆる活動を放棄し、
忘却のなかに自分自身を消し去ってしまいたい。
それに対して「子供Barn」、「若者Yngre」、「一人前の男Ældre」と「試される人Prøvede」 は次のようにして、ヨブの言葉を理解する(Ⅳ, s.12)。
①子供の場合:子供はヨブが試された難儀と悲惨のすべてを知らないから、ヨブを理解しな い。子供はあるぼんやりとした予感をもつことしかできないが、「この上なく恐ろしいvar
det Forfærdeligste」という印象を受け、悲しさや忌まわしさが彼の考えを悪賢くする前
に、子供らしい確信をもってその言葉を理解する。
②若者の場合:若者はヨブが試された難儀と悲惨のすべてがどこから来るものなのか知らな
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いから、ヨブを理解しない。だが若者は今まで知らなった発見をしたかのように、難儀が 彼の思想をわがままにする前に、彼が理解しないものの下に謙虚さを覚え、その言葉を理 解する。
③一人前の男の場合:一人前の男はヨブが身をおいた難儀と悲痛を理解するが、ヨブがなぜ それを語りえたのかを理解できないから、ヨブを理解しない。だが一人前の男は、この難 儀と悲痛が彼をヨブに対して不信ならしめる前に、自分が理解しないものを堅持すること でその言葉を理解する。
④試される人の場合:試される人はどうしてヨブがそれを語りえたのか理解し、ヨブの悲惨 を理解する。たとえ彼がそれについて一言も語らなくとも、彼はヨブを理解し、ヨブの言 葉を代弁するのである。逆に、このような代弁者だけがヨブを望むのであり、ヨブから非 本質的な人間的知識を学ぶのではなく、美しく幸福なる慰めの知恵を学ぶのである。
したがってキェルケゴールが主張するように、ヨブは個々の人間たちの教師ではなく、「人
類の教師Menneskehedens Lærer」と呼ばれるべき存在である。だがヨブの存在が、さま
ざまな時代に生きた賢者や知識人たちが探り出してきたものを、彼らもヨブと同じように他 人に教えることができれば良い、と理解してはならない。なぜなら、キェルケゴールによれ ば、そのような
①人間の知恵がいったい何の助けになるのか。
②いっさいのものをさらに難解にするだけであり、
③行為の力を麻痺させ冗長な熟考の内に人間を微睡ませるもの、
だからである(Ⅳ, s.13)。しかしながら、熟考や解説にそれなりの意義や役割がないという ことにはならない。キェルケゴールも熟考する者がヨブの言葉を
①知らなかったのなら学び知ることは有益であり、
②人生にそれを体験する機会がなかったのなら、いつか使用するはずのものを理解してお くことができ、
③体験したがその言葉を欺いていたのなら、再度それを熟考すること
は有益であることを認めている(Ⅳ, s.14)。この言葉を学び知ることは、苦難の日に行為が 芽を出すという働きを齎すこともあるからである。そこで、次項ではヨブの言葉<主は与え、
主は取り去り給う、主の御名はほむべきかな>を詳細に分析することを試みる。
第二項 ヨブの言葉
キェルケゴールに倣って、ヨブの言葉を<主は与え>、<主は取り去り給う>、<主の 御名はほむべきかな>の三つに分け、それぞれの意味と関連性について考える。
かつて、息子たちを失ったヨブは、人情による絶望や悲しみに身を委ねていたときに、ま ず神と自分の立場を裁くことによって、自分の魂を鎮めたのである。その言葉が<裸で私は 母の胎を出た。裸で私はかしこに帰ろう>(1:21 前半)である。そして悲しみのためだけ