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東洋におけるホリスティックな思想

(1)主客未分

 第1章で述べたように、近代以降、特に戦後の日本人の思考方法は、近代科 学の「分析的思考方法」に大きな影響を受けてきた。そしてこの思考方法の基 礎となったものを辿っていくと、近代以降では、デカルト(Rene Descartes)の「物 心二元論」や「機械論的世界観」に行き着く。「物心二元論」とは、認識や行為 の主体である我(精神)と、その対象となる物質や事象を明確に区別する。つ まり主観(我)と客観(対象)とを二項対立的にとらえる考え方である。「機械 論的世界観」とは、世界は精密機械と同じようなものであるから、主観(我)

は客観(対象)を小さく分割し、基本的な要素に還元できるという考え方であ

る。

 しかし、東洋の伝統的な思想においては、このように主観と客観との区別が はっきりとなされてきたわけではない。むしろ、両者を区別しない主客未分・

主客合一の世界が重視されてきたといえる。

 西田幾多郎は『善の研究』の中で、「純粋経験においては未だ知情意の分離な く、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対 立はわれわれの思惟の要求より出てくるので、直接経験の事実ではない。直接 経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなけれ ば見らるる客観もない。恰もわれわれが美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘

      りゅうりょう

れ、天地ただ劇暁たる一楽声のみなるが如く、この刹那所謂真実在が現前して いる。これを空気の振動であるとか、自分がこれを聞いているとかいう考えは、

われわれがこの実在の真景を離れて反省し思惟するに由って起ってくるので、

この時われわれは已に真実在を離れているのである。」1と述べている。この場合 の純粋経験とは、まさに我(主観)と音楽(客観)が一体化している状態であ る。音楽に心を奪われ、我を忘れている、この純粋経験の世界こそが真の実在 であると考えたのである。

 音楽に限らず、絵画・彫刻などの芸術活動や物を作り出す創造的な職業など において、作品の製作に没頭している時にも純粋経験を経験することが多いと

いえる。

 このような純粋経験は、先述したマスローの至高経験に極めて近いものだと いえる。どちらも個を越えた深い「つながり」や「一体感」を経験するもので あり、ホリスティック教育が重視しているものである。

   ふ  に

(2)不二性

 近代の「二項対立的」・「分析的」思考方法に対し、東洋の伝統的な思想にお いては、できるだけ物事を細かく分けずに、「全体」、「ありのまま」をとらえよ

うとする考え方が優勢であった。

 例えば鈴木大拙は、「東洋的見方または考え方の西洋のと相異する一大要点は こうである。西洋では物が二つに分かれてからを基礎として考え進む。東洋は その反対で、二つに分かれぬさきから踏み出す。物といったが、これは道でも よし、理でもよし、太極でもよし、神性でもよし、絶対無でも、絶対一でも空 でもよい。とにかく何かある、それが分かれぬ前というのは、『渾然として一』

である状態である。」2と述べている。

 さらに、「一分一分に切り分けて、部分的、断片的に、これを了得せんとして        やも、駄目だ。分別識はそれを行りとげようとするから、破綻百出だ。実用面で

は、それが役立っのであるが、人間の生活はそれだけに尽きるのではない。(中 略)分けなくてはならぬのは分別識の所作で、実際のところは、分けられぬ。

その分けられぬところを、そのままに、全体にわたって、看取しなくてはなら ぬのである。」3「一二三四五と分割したり切断したり限定したりして、ついには

1西田幾多郎『善の研究』岩波書店(1950)pp.74−75

2鈴木大拙『東洋的な見方 鈴木大拙禅選集第11巻』春秋社(1992)p.88 3同上書P.93

殺してしまうような世界だけに生きていては、人間の全貌はわからぬ。したが って人間らしい生涯は営まれない。」4と述べて、分析的な思考方法に偏ることを 批判し、分けられる前の「全体」、「ありのまま」をとらえようとする「東洋的

な見方」を提唱している。

 同様の思想は、仏教の「不二」という思想にも見られる。「不二」とは「現象 世界において相対立する二者としての事象・事物が,その根底においては相即

しており,二ではなく一であること。」5である。「現象世界の一切の存在は縁起 によって成立したものであり,それ自体の固定的実体は存在しない」6という「空」

の思想を背景に、「現象世界におけるあらゆる対立する二者,例えば美醜賢愚 大小,苦楽,生死などは,それぞれの本性においてすべて無自性,空であり,

したがって両者の真実のあり方としては不二である」7という考え方である。鈴 木もこれを「東洋思想の不二性」と言い、東洋思想の重要な特質ととらえてい

る。

 これは、「二項対立的」・「分析的」思考方法に偏るのではなく、「つながり」

に焦点を当て「全体」を視野に入れるホリスティック教育の人間観・世界観と 共通するものといえる。

   そ く ひ

(3)即非の論理

 東洋の伝統的な思想の中に「即非の論理」というものがある。「即非の論理」

とは、「A即非A是名A,Aはすなわち非Aである。ゆえにそれはAである。」8と いうものである。つまり、肯定(即)と否定(非)とがそのまま自己同一だと いうことである。

 鈴木は、『金剛経』の中の「仏説般若波羅密,即非般若波羅密,是名般若波羅 密」「如来説世界,言忌世界,是名世界」9などの表現から、これを「即非の論理」

と呼んだ。

4鈴木大拙前掲書p.98

5前掲書『岩波哲学思想事典』p.1386 6同上書 p.1386

7同上書 p.1386

8高橋史朗「ホリスティック臨床教育学と鈴木大拙・西田幾多郎(1)」『明星大  学教育学研究紀要』第14号(1999)p.70

9同上書p.71

 西田は、「即非の論理」を「絶対矛盾の自己同一」と表現し、次のように述べ ている。「われわれの自己は,どこまでも自己の底に自己を超えたものにおいて 自己を持つ。自己否定において自己自身を肯定する。かかる矛盾的自己同一(即

      けんしょう非)の根底に徹することを見性という。」10

 高橋は、「即身の論理」を「Aが非Aを敵視するのではなく,Aが非Aによっ て,非AがAによって存在しているという根源的な関係に深く『気づく』こと」

11と解釈している。

 このような考え方は、近代以降優勢となっている「二項対立的」・「分析的」

思考方法とは明らかに矛盾するものである。確かに「二項対立的」・「分析的」

思考方法は、自然科学の分野や静的な対象をとらえる場合においては有効であ るが、人間という存在の真実の姿をとらえようとする場合には、不十分なもの なのではないだろうか。

 例えば、人間の感情などは正に「即非」である。「好きでありながら嫌い(A でありながら非A)」ということも有りうる。ところが「二項対立的」思考方法 でいえば、「好きは好きであり、嫌いは嫌いである」(AはAであり、非Aは非 Aである)となり、「即非」は矛盾した有りえない論理ということになる。

 しかし、行動においても「右へ行きたいと同時に左へも行きたい」、「右を選 んで進んではみたが、左も捨て難い」と思ってしまうのが人間である。そうす ると、人間という存在の真実の姿をとらえることができるのは、むしろ「一高 の論理」の考え方ではないだろうか。

 手塚が、「ホリスティックな人間観では、一人の人間の中には人間としてのす べての要素があると考えます。今、一つの姿が表面に出てきていても、かなら ず、それとは反対のものも内部にあるはずなのです。」12と述べているのは、正 にこの「即非の論理」、「絶対矛盾の自己同一」を指摘しているといえる。

(4)非言語

        ふりゅうもんじ  きょうげべつでん      けんしょう

 禅宗の教えに、「不立文字、教外別伝」「以心伝心、見性成仏」という言葉が ある。それぞれの四字熟語の意味は以下のとおりである。

10高橋史朗(1999)前掲書p.73 11同上書p.70

12ホリスティック教育協会編(1995)前掲書p.22

         きょうろん

「不立文字」禅宗で経論などは悟りのためには一個の方法・手段にすぎないと してしりぞけ、経論の説く真髄を捉え、経論を超えることを示したことば。13(経 論=釈迦の教えを記した経と、それを研究・解説した論14)

「教外別伝」経典などの文字やことばによらずに仏のさとりを心から心へと直 接伝えること。15

「以心伝心」言語を用ひず、心から心へ伝える。禅門では文字を定せず、経論 に依らず、師の悟らした所をもって直ちに弟子の心に悟らしめるので、禅の奥 義は言句や文字で伝え難きをいふ。16

「見性成仏」身に本来備わる仏性を見抜いて、仏果をさとること。17

 以上をまとめると、悟りや禅の奥義といったものは、言葉や文字では伝える ことが難しい。それは心と心のふれ合いを通じて伝えることができる。また自 身に備わる仏性を体験的に直観することによって把握できる。という意味にな

る。

 このような言葉や文字による伝達の限界を指摘する思想は、禅宗が成立する 以前から中国には存在していた。それが荘子(前4世紀頃)の思想である。

      そ

 『荘子』(論士嬉遊)の「夫れ知る者は言わず、言う者は知らず。故に聖人は

      し       しげん

不言の教えを行なう。」18「弁ずるは黙するに若かず。」19「至言は言を去(る)」

20などの言葉にそれが見られる。

 しかし、荘子が言葉を信用しないのは、言葉が事実を表わすのに不十分とい う理由からだけではない。言葉がありのままの事実、自然をそこなうからであ る。この荘子の考え方について森三樹三郎は次のように要約している。「ありの ままの自然の世界は不可分であり、無差別である。(中略)ところが人間の言葉 は一つのものを必ず二つに分けるという働きをもつ『赤い色』といえば、必ず

『赤でない色』が対立者としてあらわれ、『真』といえば『偽』が対立者として あらわれる。副本語で『わかる』というのは物を分けることであり、漢語で『弁 13『日本国語大辞典第二版第十一巻』小学館(2001)p.1063

14『日本国語大辞典第二版第四巻』小学館(2001)p.506 15同上書p.423

16諸橋轍愚詠『大漢和辞典 縮写版巻四』大修館(1966)p.949 17『日本国語大辞典第二版第五巻』小学館(2001)p.65

18金谷治訳『荘子 第三冊』岩波書店(1982)p.141 19同上書p.159

20同上書p.180

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