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第7章  自閉性障害児・者の表情理解に関する研究

第1節  本研究の目的

前章までで述べてきたように、社会性の障害を基本的特徴とする広汎性発 達障害児に対する教育的支援は、通常の教育においても重要な課題となって きている。近年では、より早期から社会性の障害に対する療育や教育に取り 組むべきであるという合意がなされているが、その中心課題は、対人コミュ ニケーション・スキルの向上を目的とした社会的スキルの学習である。とこ ろが、高機能自閉症やアスベルガー症候群などの高機能広汎性発達障害の成 人でも、対人関係において重要な役割を果たしている非言語的コミュニケー

ションの理解や使用にかなりの困難を持ち続けていることから、広汎性発達 障害児・者を対象とした体系的な非言語的コミュニケーション・スキルの支 援方法の開発が急務ではないかと考えられる。そして、この非言語的コミュ ニケーションの中でも、顔の表情は対人コミュニケーションの中心的役割を 担っているとされている。

顔の表情の理解や表出は、このように相手の気持ちをわかって働きかける という基本的なソーシャルスキルの主要な構成要素であり(藤枝, 1999)、自 閉性障害児の教育でも以前から取り組まれている課題であるが、教材として は絵カードや顔写真が多く用いられているのが現状であろう。これに対して、

山田(1996)は、表情表出は本来動的な過程であり、情報の忠実性の観点から は動画の方がより望ましいであろうと述べている。また、使用される表情写 真の多くはposer (表出者)によって意図的に表出されたものであり、誇張さ れたものが多く、実際場面で自発的に表出された表情とは異なっているとい

う指摘もある(鈴木, 2001)。しかしながら、知的障害の成人が主な対象であ るが、上述の表情識別訓練プログラムでは訓練の大部分で写真を用いている

(障害者職業総合センター, 2000)。これには、対象者が視知覚に困難を有す る場合があることや、個々の表情の特徴についての理解を進めたり、理解を 確認するための弁別課題を行ったりするために必要であること等が理由とし てあげられている。そして、ビデオによる訓練が行われるのは、査定での正 答率が85%に達しなかった場合である。すなわち、この訓練プログラムでは、

査定にはビデオ課題が用いられているものの、訓練自体ではビデオは補完的 に扱われていると言える。一方、 Harwood, Hall, and Shinkfield(1999)は、

知的障害の人たちは刺激が止まっている時よりも動いている時の方が感情の マッチングが容易であることを報告している。また、 Moore(2001)も、知的障 害のある人の感情理解研究に関するレビューの中で、顔の模式図や動物の漫 画などの使用は不適切であり、生態学的に妥当な顔写真の使用さえも、特に マッチング課題では知的障害の人々の感情理解能力を過小評価する可能性が

あることを指摘し、動画の感情刺激の使用が、 MAマッチングした統制群と比 べて、知的障害の人々の成績をどの程度促進するのかは、まだ明らかではな いものの、 Harwoodら(1999)やMoore, Hobson, and Lee(1997)の研究は、使 用する刺激の種類を考慮する研究者たちに、ある一定の示唆を与えるであろ うと述べている。このように、学習の教材として絵カードや顔写真などの静 止画を用いるべきか、それともビデオなどの動画を用いるべきか、あるいは 両方を併用するのが望ましいのか等に関しては、現時点では明確にされてい るとは言い難い。そして、このことは、先述したように、自閉性障害の場合 もまた同様であり、これまで十分な検討が行われていない。最近では、前述 したSilverら(2001)、 Bolteら(2002)のように、自閉性障害児・者に適して いると考えられるコンピュータでの学習プログラムも公表されているが、こ れらのプログラムでも表情写真を使用しており、より効果的なプログラムの 開発を目指そうとするならば、動画との比較検討を行うことも必要なのでは ないかと考えられる。

また、先にあげた障害者職業総合センター(2000)では、表情識別訓練プロ グラムを実施した9事例の訓練効果や課題が述べられているが、2事例は軽度 の自閉傾向、 1事例は強い自閉傾向を併せ持つ、いずれも軽度の知的障害者で あった。そのうち前者の2事例では、正答率・混同の傾向ともに改善が認め られたが、場面とは全く関係のない発言や質問、あくび、体を揺するなどの 周囲‑の配慮に欠けた行動は持続し、他者の表情をきっかけとして、自らの 発言や行動をコントロールするスキルを獲得するためのプログラムの開発や、

対象者の行動特性に配慮したプログラムの試行の必要性が示唆された。また、

他の1事例では台詞の一部にこだわり、表情識別の成績が向上しなかったこ とから、こだわりのありようによっては、対象者の言語能力の高さが自己教 示を用いる訓練プログラムの推進に抑制的に働く場合もあることが示唆され たと述べられている。これらのことから、上述の静止画と動画の比較検討や コンピュータ利用の可否なども含めて、自閉性障害児・者により適しており、

できるだけ能力の異なる幅広い範囲の対象者にも実施が可能で、療育や教育 の現場で利用しやすいような表情理解学習プログラムが必要とされているの ではないかと推測される。

コンピュータの利用については、必要な情報のみが提示されることで、不 必要な感覚情事鋸こ惑わされることが減る、混乱を招きやすい社会的要求がな

く、一貫した予測可能な反応を繰り返し提供可能、反応に対して即時に一貫 した結果を提供可能、学習のペースを学習者が統制可能等の理由から、自閉 性障害の人に特に適していると考えられる(Silverら, 2001)。また、実際コ ンピュータに興味のある自閉性障害児・者も多く見られることから、本研究 ではコンピュータの利用を前提とした学習プログラムの作製を目指すものと する。そして、こうした学習プログラムを開発するためには、表情理解にお ける自閉性障害児・者の特性を把握するための、写真やビデオ等を用いた基 礎的研究や、現状ではかなりの時間を要する、パソコンを用いた表情動画の

作成、また、段階的に表情を配列していくための、理解しやすい、あるいは 理解が難しい表情の明確化、既述した静止画と動画の比較などの準備段階を 経てプログラムを試作し、それを実際に実施した結果に基づいて、プログラ ムに改良を加えていくなどの地道な作業が必要とされるであろう。このよう な研究は、少なくとも国内では行われていない。また、Silverら(2001)、Bolte ら(2002)のプログラムも、モデルは欧米人であることから、言語の問題や般 化のしやすさなどを考慮すると、国内での利用には困難が予想され、日本人 をモデルとして独自に作成する必要がある。ただ、これまで度々言及した障 害者職業総合センターの表情識別訓練プログラムは、 F&T感情識別検査とと もに、刺激の作成や標準化、詳細な訓練手続きやマニュアルの作成などにか なりの労力を注ぎ込んだ体系的なものであると言える。しかしながら、主た る対象が知的障害の成人であるために、写真を用いた言語ベースのプログラ ムであり、療育や教育の場での使用には限界があると推測される。これらの ことから、基礎的研究の結果に基づいた、パソコンを用いた利用しやすい表 情理解学習プログラムは、一人でも、家庭等でも、さらには実際のソーシャ ルスキル・トレーニング(SST)では難しい場合も予想される反復学習も可能 な、 ssTを補完するソーシャルスキルの基礎的段階の学習教材として、教育や 福祉の実践現場に大きく寄与する可能性を持っと考えられる。越川(2004)

も、対人的スキル獲得のための、発達障害のない同年齢の子どもたちを含め た介入プログラムなどに入る前に、あるいは並行的に、表情識別スキルを集 中的に訓練しておくことは、介入プログラムの効果をより大きく確かなもの とするために有益であろうと述べている。さらには、自閉性障害児・者のみ ならず、表情理解に課題を有するアスベルガー症候群、 LD、 ADHD、知的障害 等の対象児・者‑の応用も当然ながら想定され得るであろう。

ところで、表情理解学習に関する従来の報告では、未訓練課題‑の般化の 検討は試みられているものの、日常生活場面における行動の般化の検討はエ

ピソードの記述などにとどまっており、日常場面の詳細なデータの収集はほ とんど行われていない(井上, 2004)。例えば、 Silverらは、テスト課題での 学習効果の評価は行っているものの、日常生活での社会的スキル‑の効果は 検討しておらず、 Bolteらも、向上した表情の知覚が日常生活に般化する可能 性は排除できないと論じながらも、実際の評価は実施していない。一方、前 述の障害者職業総合センターの9事例では、訓練後、全員が訓練で用いなか った人物の表情写真の識別が可能になったが、日常場面での対人行動の変化 は2事例のみで報告されている。それらは、職業準備訓練の場面で、 「話をす るときに他人と視線をあわせない」、 「自発的な言葉があまりない」、 「話すと きは友だち言葉で咳くように話す」等が改善され、他の訓練生との交流が活 発になったなどであった。しかしながら、これらの行動変化が、果たして表

情の理解力が増したことによるのかどうかは明らかではなく、職業準備訓練 の場面状況‑の慣れや、表情識別訓練での訓練者とのやりとりの影響等も想 定される。より効果的、効率的な学習プログラム‑と改良していくためにも、

今後の研究では日常場面のデータ収集などを可能な限り行い、表情理解学習 が日常生活場面での表情理解などに及ぼす効果について検証していくことが 必要であろう。

なお、前述のF&T感情識別検査や表情識別訓練プログラムでは、 4感情の 区別が可能な対象者が適用範囲であるとして、その査定のために、例えば、"ど ういうときがうれしいとき"かを尋ねる課題を実施し、十分な回答が得られ ない場合には、例えば、 "好きな人と別れるとき"の気持ちを選択する課題を 用意している。しかしながら、これらの課題を通過するためには、ある程度 の言語理解・表出能力が必要であり、それらに困難のある自閉性障害児・者 に、この基準を適用すると、対象者を限定してしまう恐れがある。そこで、

本研究では表情と感情語のマッチングができることを目標とし、それが達成 された後には、新津(2001)や太田・永井(1992)が述べているような日常場面