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新時代の曙光︒生物を宿す世界の多様性

ローマ人は科学に対して 餘り興味を 有たなかったが︑特に純理論的の諸問題に対してそうであった︒彼等の仕事は 主にギリシアの諸書の研究と註釈に限られて居た︒帝政時代の間に国民は急速に 頽廃の道をたどった為に 唯さえ薄かった科学への興味は 殆ど全く消滅した︒それでローマ帝国の滅亡した際に征服者たるゲルマン民族の科学的興味を啓発するような成果の少なかったことは怪しむに足りない︒それでもテオドリヒ王︵K¨onigTheodorich 四七五︱五二六年︶が科学を尊重しボエティウス(Boethius) という学者と 頻りに交際したという話がある︒カール大帝も亦事情の許す限りに於て学術の奨励を 勉めた︒其時代に︑フルダの有名な寺院にラバヌス・マウルス︵RhabanusMaurus七八八︱八五六年︶という博学な僧侶が居て︑一種の百科全書のようなものを書いて居る︒此れを見ると 凡そ当時西欧に於ける学問的教養の程度の概念が得られる︒此れには︑ 凡ての物体は原子から出来て居ること︑地は円板の形をして世界の中央に 位し大洋によって取り囲まれて居ること︑此の中心点のまわりを天が其れ自身の軸で廻転して居る事が書いてある︒中世の僅少な学者の中で︑特に当代に 擢んでたものとして︑フランチスカーネル派の僧侶ロージャー・ベーコン︵RogerBacon 一二一四︱一二九四年︶を挙げる事が出来る︒彼は特に光学に関しては全く異常な智識を 有って居て︑既に望遠鏡の構造を 豫想して居た︒又珍しい程偏見のない頭脳をもったドイツ人クザーヌス︵Cusanus トリールTrier の近くのクースCues で一四〇一年に生れ︑トーディTodi の大

97 第六章 新時代の曙光。生物を宿す世界の多様性 僧正になって一四六四年に死んだ︶も亦当代に傑出した人であった︒彼は︑地は太陰よりは大きく太陽よりは小さい球形の天体で︑自軸のまわりに廻転し︑自分では光らず︑他の光を借りて居る︑又空間中に静止しては居ない︑と説いて居る︒彼は他の星にも亦生住者が居ると考えた︒物体は消滅することはない︑ 唯其の形態を色々変えるだけであるとした︒同様な 考は又彼の巨人的天才︑レオナルド・ダ・ヴィンチ︵LeonardodaVinci 一四五二︱一五一九年︶も述べて居る︒彼は︑月から地球を見れば地球から月を見たと 略同じように見えるだろうということ︑又地球は太陽の軌道の中心にも居ないし又宇宙の中心にも居ないと云っている︒レオナルド・ダ・ヴィンチは︑地球は自軸のまわりに廻転して居ると考えた︒彼もまたニコラウス・クザーヌスと同様に︑地球も他の遊星と 略同種の物質から成立って居り︑アリストテレスや又ずっと後にティコ・ブラーエに到っても 未だそう云って居たように︑他の星よりも粗悪な素材で出来て居るなどというようなことはないという意見であった︒レオナルドは重力についても可なりはっきりした観念をもって居た︒彼は︑もし地球が破裂して多数の断片に分れたとしても︑ 其等の破片は再び重心に向って落ちかかってくる︑ 而して重心の前後に往復振動をするが︑ 度々衝突した後に結局は再び平衡状態に復するだろうと云って居る︒彼の巧妙な論述の中でも最も目立ったものは彼の燃焼現象に関する理論である︒其の説に 拠ると︑燃焼の際には空気が消費される︒又燃焼を支持することの出来ないような気体中では動物は生きていられないというのである︒レオナルドは非常に優れたエンジニアーであって︑特に治水工事に長じて居た︒彼の手になった運河工事は今でもなお存して驚嘆の

的となって居るものである︒

彼は又流体静力学︑静力学︑航空学︑透視法︑波動学︑色彩論に関する驚嘆すべき理論的の研究を残して居る︒其の上に彼は古今を通じての最も偉大な画家であり︑彫刻家であり︑まだおまけに築城師であり︑又最も優雅な著作者でもあった︒此の有力な人物は中世の僧侶たちとは 餘りにも型のちがったものであった︒当時既に時代は一新して居り︑ 即︑レオナルドの生れた時には既に印刷術が発明されて居り︑コロンブスは既にアメリカを発見して居た︒復興期の新気運は力強く 漲り始めて居たのである︒しかも 未だ教会改革に対する反動が思想の自由を抑制するには到らなかった時代なので︑クザーヌスやダ・ヴィンチは自由に拘束なく意見を発表する事が出来た︒其の学説というのは︑ 凡そアリスタルコス︲コペルニクスの説と同じであったが︑ 唯地球が太陽のまわりを廻るのではないとした点だけがちがって居た︒此の二人の一人は大僧正になり︑一

第十二図 コペルニクスの 太陽系図。彗星の軌道をも 示す。現時の智識に相当す る第十三図と比較せよ。

人は最も有力な王侯の寵を受けた︵彼は芸術の愛好者フランシス一世に招かれてフランスに行き︑其の国のアンボアーズ

Amboiseで死んだ︶︒当時派手好きの法王たちはミラノ︑フェラーラ︑ナポリ等︑又特にフィレンツェの事業好きな諸公侯と競争して芸術と科学の保護奨励に 勉めて居た︒シキスツス第五世は壮麗なヴァチカン宮の図書館を建設し充実した︒新興の機運は 正に熟して居て︑同時に既に始まって居た 彼の残忍な 宗教裁判を先頭に立てた反動運動も︑此れを 妨げること

99 第六章 新時代の曙光。生物を宿す世界の多様性 は出来なかった︒コペルニクス︵Copernicus一四七三︱一五四三年︶はトルン(Thorn)に生れ︑フラウエンブルク(Frauenburg)でカノニクス(canonicus)の僧職を勤めて居たドイツ種の人であるが︑彼は昔アレキサンドリアのプトレマイオス︵Ptolemaios約紀元二世紀︶が其当時の天文学上の成果を記した著述を研究し︑又自分でも観測を行った結果として︑彼一流の系統︵第十二図︶を一つの仮説として構成した︒此の説を記述した著書は彼の死んだ年に発行されて居る︒死んだおかげで彼は彼の熱心な信奉者ジョルダーノ・ブルーノ︵GiordanoBruno イタリアのノラNola で生れたドミニカン僧侶︶のような運命に遭うのを免れることが出来た︒此のブルーノはその信條の為に国を逐われ︑欧洲の顕著な国々を遊歴しながらコペルニクスの説を 辯護して歩いた︒ 而して︑恒星もそれぞれ太陽と同様なもので︑地球と同様な生住者のある遊星で囲まれて居ると 説いた︒彼は又︑太陽以外の星が自然と人間に大いなる影響を及ぼすというような︑科学の発展に有害な占星学上の迷信に対しても痛烈な攻撃を加えた︒彼は︑諸天体は無限に拡がる透明なる流体エーテルの海の中に浮んで居ると 説いた︒此の説のために︑又モーゼの行った奇蹟も実は 唯自然の方則に依ったに過ぎないと主張した為に︑とうとうヴェニスで捕縛せられ︑ローマの宗教裁判に引渡された上︑ 其処で 遂に 焚殺

の刑を宣告された︒刑の執行されたのはブルーノが五十二歳

の春二月の十七日であった︒当時アテナイに於けると同じような精神がローマを支配して居て︑しかもそれが一層粗暴で残忍であったのである︒要するにブルーノの仕事の眼目はアリストテレスの哲学が科学的観照に及ぼす有害な影響を打破するというのであった︒宗教裁判の犠牲となって尊い血を流したのは此れが最後であって︑此れをもって旧時代の幕は下ろさ

れたと云ってもよい︒ケプラー又特にガリレイの諸発見によって吾々の智識は古代とは到底比較にならない程本質的に重要な進歩を遂げるに到ったのである︒通例コペルニクスの 考は古代に於ける先輩の 考とは全く独立なものであったように伝えられて居るが︑

第十三図 諸遊星と其の衛星の運動方向を示す。太陽 中心の北側の遠距離から見た形。真中が太陽、次が水 (Me)と金星(V)、それから地球(T)と其衛星(L)、其 の外側には火星(Ms)と二衛星、次には木星(J)とガリ レイの発見した四衛星がある。近代になってから木星 を繞る小衛星が更に三つ発見され。凡て是等の天体は 一番外側のものを除いては矢の示すように右旋即ち時 計の針と反対に廻って居る。一番外側に示すのは土星 (S)で此れは九つの右旋する衛星―――図には唯一つを 示す―――と逆旋する一つの衛星、それはピッカリング の一八九八年の発見にかかるフェーベ(Phoebe)がある。

尚此の外にはハーシェルとルヴェリエとの発見した天 王星と海王星がある。此の二星の太陽からの距離は土 星迄の距離の約二倍と、三倍餘とである。天王星には 四つの衛星があるが、其軌道は黄道面に殆ど直角をな している。其上に逆旋である。海王星には逆旋の衛星 が一つある。天王、海王二遊星は右旋である。又火星 と木星の軌道間にある多数の小遊星も矢張右旋である。