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ギリシアの哲学者と中世に於けるその後継者

エジプト︑バビロニアのみならず一体に西方諸国の科学が 遂に民衆の共有物とならずにしまったのは非常な損失であった︒ 若し此れがそうなって居たとしたら︑ 此等国民の文化は 疑もなく今日吾々が讃歎して居るあの程度よりも一層高い程度に発達したであろうし︑又吾々の今日の文化も亦それによって現在よりももっと優れたものになったかも知れない︒紀元前四〇〇年から六〇〇年に 亘る︑最古のギリシア文化の盛期に於ける最も古い文化圏はエジプトであった︒ 而して︑当代に於ける最高の知識を 修めようと思う若いギリシア人︑ターレス︑ピタゴラス(Pythagoras)︑デモクリトス(Democritus)︑ヘロドトス(Herodotus)の 如き人々は皆此のナイル河畔の古き国土をたずね︑其の智恵の泉を汲んで彼等の知識に対する 渇を医そうとした︒そうして古代に於ける科学の最盛期というべきものはアレキサンドリアのプトレマイオス朝時代に当って見られる︒ 此処でギリシア文化が此の古典的地盤の上でエジプト文化と融合されたのであった︒紀元前六四〇︱五五〇年の人︑ミレトスのターレスが或時 日蝕を 豫言して世人の耳目を驚かしたという話が伝えられて居る︒ 疑もなく彼は此の 日月蝕を算定するバビロニア人の技術をフェニキア人から学んだであろう︒又彼がエジプト人から当代科学の諸学説を学んだという説もある︒実際︑万物の始源は水なりとする彼の学説は︑世界の原始状態に関するエジプト人の観念に縁を引いて居るようである︒此のターレスの弟子であったと思われるアナキシマンドロス︵Anaximandros 紀元前六一一︱五四七年︶は︑

81 第五章 ギリシアの哲学者と中世に於けるその後継者 各種元素より成る無限に広大な一団の 渾沌たる混合物から無数の天体が生ぜられたと説いて居る︒もう一人の哲学者アナキシメネス︵Anaximenes紀元前五〇〇年頃︶は︑此れもターレスと同じく 所謂イオニア学派の人であるが︑空気を始源元素であると考えた︒彼は此の空気が密集して大地となったと考え︑此の大地は盤状のものであって︑圧縮された空気の塊の上に安置されて居ると考えた︒太陽も太陰も星も亦同様な形状をしたものであって︑ 而して 此等が地の周囲を廻って居るとした︒此のアナキシメネスの説にはエジプト派の痕跡が全くない︒ピタゴラスは紀元前六世紀の後半︵五六〇︱四九〇年︶の人で 所謂ピタゴラス学派の元祖であるが︑此の人となると又エジプトの学風の 餘弊が可なりに強くひびいて居るようである︒彼はサモス(Samos) 島に生れたが後に南イタリアのクロトン(Croton) に移った︒彼もエジプトの学者達と同様に︑自分の知識を 唯弟子の間だけに秘伝するつもりであったが︑弟子の方ではもっと西洋流の気分があったので 此等の秘密をかまわず周囲に漏らし伝えた︒ 此等の自然科学者の諸説︵多くはフィロラオスPhilolaosの説として伝えられたもの︶に 就ては遺憾ながら原著は伝わらず︑ 唯二度或は三度他人の手を経たものしか知る事が出来ない︒ 此等の所伝に 拠ると︑宇宙に於けるあらゆるものの関係は数によって表わす事が出来る︒そうしてそれには 調和と名付づける一定の厳密な方則が存在して居る︒此の規則正しい関係が 恰も種々な楽音の高さの間の関係と同様であるから︑こう名づけたのである︒宇宙はすべての方向に一様に拡がって居る︒ 即︑一つの球である︒其の真中に中心の火があるが︑吾々は此れと反対側の地上に居るために火を見ることは出来ない︒ 併し其の反映を太陽に見ることが出来る︒此の中心火の周囲を地球︑

太陰︑太陽及び諸遊星が運行して居る︒ 此等のものも地球と同じようなもので 矢張雰囲気をもって居るものと考られるようになった︒地球は円いもので︑中心火のまわりを一日に一周する︱︱︱ 即︑どういう風にか 兎に 角自身の軸のまわりに二十四時間に一廻転する︒同様に太陰は一箇月にその軌道を︑太陽は一年の間にその軌道を一周するのである︒ 此等の三つの天体の週期は可なり精密に知られて居た︒ 若しピタゴラス派の人々が︑此の中心火の代りに太陽を置き換えさえしたら︑太陽系というものの可なり正しい概念が得られたに 相違ない︒恒星を 鏤めた天球はどうかというと︑此れも亦巨大な中空の球であって同じ中心火のまわりを廻って居るものと考られた︒其の上に又地球が一日に自分の軸で一廻転すると思ったのであるから最初の仮定は単に無駄であるばかりでなく︑ 却って全く矛盾する事になるのである︒ピタゴラス派の学説は次第に進歩すると共に其の明瞭の度を増した︒現象の物理的原因に段々立ち入るようになった︒エフェソス(Ephesos)のヘラクレイトス︵Heracleitos紀元前約五〇〇年︶は何物も完全に不変ではないと 説いた︒シシリア人エムペドクレス︵Empedocles紀元前約四五〇年︶は︑何物でも虚無から実際に生成されること︵ 即︑創造︶はあり得ないということ︑又物質的なものである以上何物でもそれを滅亡させることは不可能であるという︑吾々現代の 考と全く相当する定理に到達して居る︒ 凡ての物は土︑空気︑火及び水の四元素から成立つ︒或る物体が無くなるように見えるのは︑ 唯其物の組成︵此の四元素の混合関係︶が変る為に過ぎない︑というのである︒ペリクレス(Pericles) の師であったアナクサゴラス(Anaxagoras) は紀元前約五〇〇年に小アジアで生れ︑ペルシア戦争後アテナイに移った人であるが︑彼は以上の 考を宇宙全体に適用し︑ 即︑宇宙の永遠不滅を唱道した︒原始の 渾沌

83 第五章 ギリシアの哲学者と中世に於けるその後継者 が次第に一定の形をもつようになった︑太陽は巨大な灼熱された鉄塊であり︑其の他の星も 矢張り灼熱して居た︱︱︱それはエーテルとの摩擦の為であったというのである︒アナクサゴラスは又太陰にも生物が 棲んで居るという意見であった︒又彼が︑地球は諸天体の中で 何等特別に選ばれたる地位を占めるものでないという説の最初の言明をして居るのは注意すべきことである︒此れは後代復興期の天文学者等によって 唱えられた 考と非常に接近したものである︒プラトンやアリストテレスを読めば分る通り︑アテナイ人は星を神様だと思って居たのであるから︑アナクサゴラスは︑彼の弟子クレアンテス(Cleanthes) の 申立てによって︑神の否認者として告訴され監獄へ投げ込まれ︑あのソクラテスと同じ運命に 陥る 筈であったのをペリクレスの有力な仲介によって

漸く免れる事が出来た︒そこで彼は用心の為に亡命しランプサコス(Lampsacos) の地で一般の尊敬を受けつつ七十二歳の寿を保った︒アテナイに於ける最も優秀な人達が彼等の哲学上の意見に対する刑罰︵死罪︶を免れる為に次々に亡命したという史実を読んで見て居ると 彼の 讃歎されたアテナイの文化というものがはなはだ妙なものに思われて来るのである︒ソクラテスは亡命を恥とした為に毒杯を飲み 乾さなければならなかった︒彼の死後プラトンは其の師と同じ厄運を免れる為に十二年の歳月を異境に過ごさなければならなかった︒それで彼の教はピタゴラス派と同様イタリアで世に知られるようになった︒プラトンの弟子のアリストテレスは或るデメーテル僧から神を 冒涜したといって告訴され︑大官アレオパガスから死刑を宣告されたが︑ 際どくもエウボイア(Euboia) のカルキス(Chalkis) に逃れることを得て︑そこに 流謫の 餘生を送り六十三歳で死んだ︵紀元前三二二年︶︒神々の存在を否認したディアゴラ

ス(Diagoras)も 矢張り死刑を宣告された後に亡命し︑又彼の哲学者プロタゴラス(Protagoras)も其の著書は公衆の前で焼かれ︑其の身は国土から追われた︒神々は自然力を人格化したものだと主張したプロディコス(Prodicos)は処刑された︒︱︱︱自由の本場として称えられて来たアテナイがこういう有様であったのである︒当時のアテナイ人の間には奴隷使役が広く行われて居た︒それで今日保存されて居る古代の文書の大部分も︑遺憾ながら︑そういう自然研究などには縁の薄い人々の手になったものである︒思うに︑当時アテナイに在住して居た哲学者等は︑狂信的な多数者の迫害を避ける為に︑自分の所説に

晦渋の 衣を 蔽って居たものらしい︒エムペドクレスとアナクサゴラスの次にデモクリトス(Democritos) が現われた︒彼は後日吾々の承継するに到った原子観念の始祖である︒アナクサゴラスの生後約四十年にトラキア(Thracia) のアブデラ(Abdera)に生れ長寿を保って同地で死んだ︒巨額の財産を相続したのを修学の為の旅行に使用した︒そして︑彼自身の云うところによると︑同時代の人で彼程に広く世界を見︑彼程に色々な風土を体験し︑又彼程に多くの哲学者に接したものは一人もなかった︒幾何学上の作図や証明にかけては誰一人︑しかも又彼が満五箇年も師事して居たエジプト数学者でさえも匹敵するものがなかった︒彼は古代の思索者中での第一人者であったらしいが︑ 併し数多い彼の著述のうちで今日に伝わって居るものは 僅かな断片にすぎない︒彼の 考に 拠ると︑原子は不断に運動をして居り︑又永遠不滅のものである︒原子の結合によって万物が成立し︑そうして万象は不変の自然方則によって支配される︒又︑デモクリトスの説では︑太陽の大きさは 莫大なものであり︑又銀河は太陽と同様な星から成立って居る︒世界の数は無限で

85 第五章 ギリシアの哲学者と中世に於けるその後継者 あり︑ 其等の世界は徐々に変遷しながら廃滅し又再生する運命をもって居る︑というのである︒ところが︑此のデモクリトスに到って他の哲学者からは 疾に捨てられて居た︑大地は平坦で海に囲まれた円板だという 考が再現されて居るのである︒此の哲学者に関して知られて居る事柄の大部分は︑ 例えばアリストテレス︵紀元前三八五︱三二三年︶の 如く︑彼の学説に反対したアテナイ派其他の学者等の仲介に依るものである︒ソクラテスなどは︑天文学というものは到底理解が出来ないものである︑こんな事にかかわり合って居るのは愚なことであると云って居る︒プラトン︵紀元前四二八︱三四七︶はデモクリトスの七十二種の著書を焼払いたいという希望を言明して居る︒プラトンの自然科学の取扱い方は目的論的であって︑吾々の見地から云えば根本的に間違って居る︒一体彼が此の偉大な自然科学者デモクリトスの説を正当に理解し得たかどうか疑わしいと云われても仕方がない︒当時の哲学は吾々の眼からは到底把握しがたい 形而上学となってしまって居た︒天が球のごとく丸く︑星の軌道が円形であることの原因としては 例えばアリストテレスはこう云って居る︒﹃天は神性を有する物体である︒それ故に 此等の属性を 有つべき 筈である︒﹄彼は又︑遊星は運動器官を 有たないから自分で動くことは出来ないと云って居る︒世界の中心点に 位する大地が球形であるということは︑彼も亦︑ 月蝕の時に見える地球の影の形から正しく認めては居たが︑ 併し地球が動いているという説には反対した︒プラトンは又地球が天界の中で最古の神的存在であると云っている︒大先生達がこういう意見を述べて居る位であるから︑其の餘の人々から期待されることは大抵想像が出来るであろう︒自然科学的の内容はなくて 徒に威圧的の言辞を重ねるのが一般の風潮であった︒ 詭辯学