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文献から見た「カエス」と「カヤス」

第8章 「返す」のサ行イ音便と「カヤス」の成立

5. 文献から見た「カエス」と「カヤス」

5.1. 文献調査の概要

中世語資料のサ行イ音便に関する先行研究は多いが、殆どがイ音便化している語を数え 音便化率を出したものであるので、「かえす」がその中に含まれているかは不明である。橋 本(1962)でキリシタン資料・狂言、奥村(1968)で狂言・浄瑠璃・洒落本等、高見(1978)で 抄物、坂梨(1990)で近松浄瑠璃、柳田(1993)でキリシタン資料・狂言・抄物の「返す」の イ音便化した数を知ることができるが、「カヤス」については触れられていない。他にもど う抜き出したかや底本が不明である点などが、文献上の「カエス」と「カヤス」について 検討するためには、先行研究の調査では不十分であると考え、先行研究で取り上げられて いる文献を調査することにした。

今回の調査に使用した文献は、全てサ行イ音便に関する先行研究でよく使用されている ものであり、サ行イ音便が現れることが分かっているものである。室町時代末期口語資料 の抄物・キリシタン資料、近世前期上方口語資料の狂言詞章・近松浄瑠璃で、それらの索

語幹末母音 a u e o 計

語の数 203 20 12 38 273

割合 74.4% 7.3% 4.4% 13.9% 100.0%

①語数 0 1 0 1 2

①割合 0.0% 0.4% 0.0% 0.4% 0.7%

②語数 4 1 4 4 13

②割合 1.5% 0.4% 1.5% 1.5% 4.8%

③語数 55 0 0 0 55

③割合 20.1% 0.0% 0.0% 0.0% 20.1%

①②③語数 59 2 4 5 70

①②③割合 21.6% 0.7% 1.5% 1.8% 25.6%

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引によって「カエス」「カヤス」とその複合語の数を調べた。なお、数を出す際、「返す」「返」

のように「カエス」「カヤス」のどちらか分からないものは除いている。「返し」「返い」の ように「カエス」「カヤス」のどちらか分からないけれども、音便形かそうでないかが分か る場合は音便について見るときのみ採用した。

また、近松浄瑠璃に見られるサ行イ音便について、坂梨(1990)や依田(2005)でサ行イ音 便の使用が当時既に一般的でなく、老人や地方の者の人物を特徴づけるための手法であっ たと指摘されている。これを受けて、今回はサ行イ音便が中央で既に衰退していたとされ る近松浄瑠璃以降(1700 年以降)の資料は扱わない。

5.2. 中央語文献に現れる「カエス」と「カヤス」

サ行イ音便がよく現れる中世の抄物・キリシタン資料・狂言を中心としつつ、各時代に 渡る文献資料を用いて、中央語文献に現れる「カエス」「カヤス」とその複合語の数を調べ、

表 2 を作成した。

「カエス」は上代から存在する動詞である。今回調査した資料中、イ音便形「かえい」

の初出は『西大寺蔵本護摩密記(長元八年点)』(1035 年)であった。

(1) 然して然に 箒ハハキを 反カヘイて鈴自り始めて閼伽供物等に至るまて布列せよ。

「カヤス」については『日本国語大辞典第二版』にて『九冊本宝物集』(1179 年頃)が一番 早い用例とされている。

(2) 汝かへりてかやさんとて、多く人の物をかりたり。

しかし、この写本の書写年代は小泉(1963)によると近世初期頃と考えられ、1179 年に「カ ヤス」が存在したとは考えにくい。次に早く「カヤス」が文献に現れるのは『群書類聚』

の「嫁入記」(1443~47 年)で、

(3) 縫ひやう、ふせ縫也。すそをかやして縫べからず。

これも近世後期の写本であり、1443 年に「カヤス」が存在したのかは定かではないが、『請 来目録』(1350 年)で「たかやす」が現われていることから、「カヤス」は中世前期頃成立し たのではないかと考えられる。

以下の表 2 は「カエス」のイ音便形と「カヤス」の各活用形の文献における現れ方を示 したものである。なお、単純語の他に複合語で現れるものも数に含めている。

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「カヤス」が文献に現れる以前に「かえい」という「カエス」のイ音便形が現われてい ることから、先に示した条件の(1)が確認できる。しかし「かやい」が現れるようになって も、サ行イ音便が衰退したとされる 17 世紀半ばまで、依然として「かえい」が用いられて いる。つまり条件の(2)については確認することができない。中央語文献でこの(2)が確認で きなかったのは、「カヤス」が俗語的であったことが原因ではないかと考えられる。「カヤ ス」は、坂梨(1990)で「俗語的な響きがあって」と言われているように、「かえいた」のよ うなイ音便形より更に口語的であったと考えられる。よって口語的な資料とされているも のにも文献の書記言語としての規範意識が働き、「カヤス」のイ音便形「かやい」ではなく

「カエス」のイ音便形「かえい」を用いていたのではないかと考えられる。条件(3)につい ては、今回見た限りでは「カヤス」が一番早くみられる『請来目録』で終止形「かやす」、

次の『杜詩続翠抄』で未然形「かやさ」と、連用形以外のものから現れた。これは「かや いた」という形が作り出された時に、その活用形が間を置かずに作られたので、文献上に は(3)のような現象は現れないということが考えられる。これらの文献調査では、仮説(2)(3) を証明することができなかった。それでは、方言のサ行イ音便や「カヤス」の分布状況か ら証明することはできないだろうか。

表 2 文献における「カエス」のイ音便形と「カヤス」

カエス

かえい かやい かやさ かやし かやす かやせ 1035 西大寺蔵護摩密記 1

1350 請来目録 1

1437 杜詩続翠抄 1 1

1475 論語抄 2 1 4 3

1481 日本書紀兼俱抄 1 3 1 2

1482 漢書抄 4 3 4

1524 日本書記桃源抄 1 2 2

1525 古文真宝彦龍抄 1

1529 蒙求抄 5

1530 荘子抄 1

1534 四河入海 10 3 1

1539 毛詩抄 10 2

1566 山谷抄 7 1

1592 天草版平家物語 10

1593 天草版伊曽保物語 1 1 1

1624 狂言六義 5 1 6 4 8

1643 大蔵虎明本狂言集 1 4 2 3

1666 狂言記 2 4

1700 狂言記外五十番 1 1

1700 続狂言記 5

文献資料 カヤス

成立年

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