第9章 「咲く」の方言形「サス」の成立
5. 富山県呉西地域における「サス」
119 イ音便は稀である。(p.712)
と述べているように、サ行イ音便が衰退している近畿の中心部で、「差す(上記先行研究 では「指イタ」)」の一語だけがイ音便化するという現象が見られる。このことから、中央 語だけではなく、方言においても「差す」のサ行イ音便は他のサ行五段動詞より影響力を 持っていたという解釈ができる。それほど「差す」のサ行イ音便の力は強かったのであり、
カ行活用で同じ語形の音便形「サイタ」を備えていた「咲く」も巻き込んで、同じサ行活 用にしてしまう力を持っていたということが考えられる。「さいて」=「さす」というよう に、<「さいて」という音便形の原形は「さす」というサ行四段動詞である>という考え を起こしやすい環境にあったことが、サ行イ音便を起こす動詞と対応するカ行動詞の中で
「咲く」のみが「サス」という語を作り出した原因と考えられる。
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図 4 富山県呉西調査地点
表 2 「サス(咲く)」の活用 調査結果 地点
カテゴリ 「差す」 氷見 高岡 福岡 新湊 大門 砺波小矢部井波 福光 城端 平 利賀
N(否定) sa ka sa ka sa sa sa sa ka ka ka ka ka
seru(使役) sa ka ka ka ka sa sa sa ka ka ka ka ka
masu(丁寧) si si ki ki si si si ki ki ki ki ki
hajimeru(開始) si ki ki ki ki ki si si ki ki ki ki ki
soRja(将然) si ki ki ki ki si si si ki ki ki ki ki
ta(過去) i i si i i si i si i i i i i
toru(進行) i i i i i i i si i i i i i
tesimau(完了) i i i i i i si si i i i i i
tajaro(過去推量) i i i i i i i i i i i i i
言い切り su ku ku su ku su ku su ku ku ku ku ku
toki(連体) su ku ku ku ku su su ku ku ku ku ku
jaro(推量1) su ku ku ku su su su ku ku ku ku ku ku
kamosireN(推量2) su ku ku su ku ku su ku ku ku ku ku ku
rasii(推定) su ku ku su ku ku su su ku ku ku ku ku
joRja(様態) su ku ku su ku su su su ku ku ku ku ku
kara(理由1) su ku ku su ku ku su su ku ku ku ku ku
gade(理由2) su ku ku su ku ku su su ku ku ku ku ku
gani(対比) su ku ku su ku ku su su ku ku ku ku ku
ke(疑問) su ku ku ku ku su ku ku ku ku ku ku
jo(強調) su ku ku su ku ku su ku ku ku ku ku ku
naR(詠嘆) su ku ku su ku su su ku ku ku ku ku ku
gaja(準体助詞接続) su ku ku su ku su su su ku ku ku ku ku
keredomo(逆接) su ku ku su ku ku su su ku ku ku ku ku
ba(仮定) se ke ke ke ke se se ke ke ke ke ke
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調査を行った結果が表 2 である。表 2 の太い枠で囲ってあるものが、「サス」のようなサ 行活用の形が回答されたところである。サ行活用が回答された殆どの地点で、共通語であ る「サク」のようなカ行活用と併用するということだったが、サ行活用・カ行活用の両方 が回答されたところは、サ行活用のみを表に挙げている。空白のマスは、回答が得られな かったところである。地点は、表 2 の左から右へ、北から南の順に並ぶようにした。
5.2. 富山県呉西地域における「サス」の動態
調査の結果、この地域では図 5 のように、大きく山間部(井波・福光・城端・平・利賀)
と平野部(氷見・高岡・福岡・新湊・大門・砺波・小矢部)に分かれることが分かった(旧 市町村レベルの調査であるため、その境界に線を引いた)。山間部では、「咲く」は全てカ 行活用で現れ、サ行活用は現れなかった。一方平野部では、活用形によってサ行活用・カ 行活用が現れた。この山間部と平野部での違いは、山間部は歴史的に古くカ行活用を保持 しているのに対して、平野部は本来カ行活用をしていたところに、サ行活用が新たに広ま ってきたということを示しているのではないか。
この地域は一般的に、平野部は新しい語を受け入れやすく、山間部は古い語を残しやす い傾向にある。そうした一般的な傾向から考えても、山間部でサ行活用が現れず、平野部 の地域にサ行活用が現れるということは、やはり「サス」が新しい現象であると言えるで あろう。しかし、表 2 を見ると平野部を中心に「サス」が新しく入ってきているものの、
一つの地点で完全にサ行活用が揃ってしまうわけではない。また、平野部でも氷見・高岡・
新湊のように数語のみサ行活用になる地点や、福岡・大門・砺波・小矢部のように殆どの カテゴリでサ行活用になる地点もあり、混乱状態であるようである。地点によってどのカ テゴリがサ行になるかにも明確な傾向はなく、サ行活用とカ行活用が混在している状況を 考えると、「サス」は完全には成立しきっていないということがわかる。
さて今回の調査では、サ行四段動詞の「差す」の音便形は、全ての地域で「サイタ」と 回答された。富山県は、呉東の一部を除いてサ行イ音便が完全に定着している地域である。
「サス」が現れる地域はサ行イ音便が定着している地域の一部である。これは第 4 節で述 べたように、サ行イ音便が定着し、そのあとで「サス」が発生したという中央における歴 史的順序を反映している状態であると解釈できるだろう。
さらに表 2 を詳細に見てみると、サ行活用の形式の現れ方により、図 5 に示した平野部 の中を、図 6 のように沿岸部と中間部に二分することができそうである。最もサ行活用の 形式が出現するのは、中間部(福岡・大門・砺波・小矢部)であり、それに対して沿岸部
(氷見・高岡・新湊)ではサ行活用の形式の出現が少なくなっている。この沿岸部の状態 は、規範意識が働いて「咲く」がサ行活用をやめカ行活用に戻るという状態に向かいつつ あることを示しているのであって、これも第 4 節で述べたように、サ行活用がカ行活用に 戻っていく状態を実際に示しているのである。
122 図 5 平野部と山間部
このように富山県呉西地域では、「サス」が伝播しこの地域に入ってきた過程も、消滅し ていく過程も、第 4 節で述べた全国の地理的分布から推定した「サス」の成立過程と一致 しているのである。
ここで改めて山間部・平野部を合わせて、呉西地域での「サス」の動態について整理し てみよう。まず山間部のカ行活用は、沿岸部のカ行活用とは事情が異なり、まだサ行活用 が及んでいない状態を示している。中間部は上述の通り、サ行活用が活発であり、今まさ に「サス」が定着しそうな状態ではあるが、完璧にはサ行活用が揃っていない状況にあり、
一時的な現象であることを示している。そして沿岸部はサ行活用・カ行活用の混乱状態を 脱した収束状態を示す地域なのである。時間が経つと、中間部はやがて沿岸部と同じよう にカ行活用に戻るものと考えられる。
これらの変遷は、以下のように表すことができる。
沿岸部 中間部 山間部 サク < サス < サク
平 城端 福光
井波
利賀
沿岸部
中間部
山間部
福岡 高岡 小矢部
氷見
新湊 大門
砺波 新湊
平 城端 福光
井波 砺波
大門 小矢部
福岡 高岡 氷見
利賀
平野部
山間部
サ 行 活 用の 現 れ る地 域
サ 行 活 用の 現 れな い地 域
図 6 沿岸部と中間部
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6. おわりに
以上のことから「サス」は、「差す」がサ行イ音便化することに、「咲く」が引かれて成 立したものであり、連用形「さいて」が同形であることを契機に他の活用形にもサ行の形 態が及び、一時的に成立した語であることが明らかになった。成立と言っても完全に成立 したわけではなく、「サス」はサ行イ音便を持つ殆どの地域では消滅し、特定の条件が揃っ た地域で今も見られる一時的な語であると言える。
一般的には、動詞がその活用の行を変えてしまうという変化はあまり見られない。しか し、今回取り上げた「サス(咲く)」の事例のように、音便形を介し、かつ、個別の地理的 環境が影響することで、それが実現することが観察された。
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第10章 本論文のまとめ
1. はじめに
本章では、これまで各章で述べてきたことを振り返り、本研究の成果を整理した上で、
あらためて本研究の意義を示す。また、本研究を通して新たに見えてきた問題点や課題に ついても述べる。