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山中 茂樹 *

ドキュメント内 震災難民☆/大トビラ (ページ 89-95)

災害で全国に散った人たちにとって、情報は命 綱だ。政府や自治体、NPOなどからの支援情報、

職場やPTA、町内会といった仲間の消息など、

これからの行動を決めるうえで欠かせないデータ となる。東日本大震災では、中間支援組織や300 を超える支援団体・グループ、さらには避難者自 身が立ち上げた組織まで、ネット上にホームペー ジをアップし、仲間内は携帯メールやFace book で連絡を取り合う。阪神・淡路大震災の折、九州 に避難した人が震災の避難者仲間を捜すため、交 差点に立って、神戸ナンバーの車を一台一台呼び 止め、ネットワークを広げていったエピソードを 聞くと、隔世の感がある。しかし、依然、個人情 報保護の壁は厚く、避難者を受け入れている自治 体に支援団体や避難者が名簿の公開・提供を求め ても応じてもらえるケースは少ない。一方、避難 者を受け入れている自治体も被災自治体と名簿を 共有している例はあまりない。国は個人情報保護 法が阻害要因となっているわけではないとする が、同法が成立して以降、自治体の保秘の姿勢は よりかたくなになっている。今後、首都直下地震 や東海・東南海・南海地震など、巨大・広域災害 の発生が懸念されており、広域避難支援と個人情 報保護をどう折り合いつけるかといった問題は、

大きな課題となってくることは必至だ。IT( infor-mation technology=情報技術)や SNS(social net-working service)が、被災者支援にかかわってき た歴史を振り返るとともに、個人情報保護にどう 向き合うかという課題を考える。

■わが国の災害史上、インターネットでSOSが

発信された最初のケースは阪神・淡路大震災だ。

「We had a severe earthquake(われわれは大きな 地震に遭遇した)」──地震当日の1995年1月17 日午前11時過ぎ、神戸市西区にある神戸市外国 語大のホームページに当時、ネットワーク管理者 だった芝勝徳・助教授(現教授)が英文でこう書 き込んだ。神戸市のホームページが被災映像を世 界に伝えたのは、その翌日のことだ。

ワシントン・ポストは「ネット上の地震」とい う見出しを掲げ、「アメリカ人にとって、歴史上 初めてインターネットを通じて大災害の現場を見 ることができた」と紹介した。

1月末日までの接続件数は世界60カ国から45 万件。だが、わが国でインターネットが、一般市 民が自在に使えるツールとなるのは同年11月、

米マイクロソフト社のパソコン用基本ソフト「ウ ィンドウズ95」の日本語版が発売されてからだ。

阪神・淡路大震災の年は「ボランティア元年」

と呼ばれ、全国から延べ130万人もが被災地の救 援に駆けつけた。ほとんどが、物資の運搬や炊き 出しなどで被災者の直接的な救援をする「災害ボ ランティア」だった。パソコンを抱えた「情報ボ ランティア」もいたが、「避難所では片隅に追い やられていた」と当時、被災地へ情報支援に入っ た大学教員はふり返る。災害ボランティアから

「パソコンで遊んでいる暇があったら、荷物の一 つでも運べ」と叱声を浴びたという。たまたま避 難所でおしめが必要と知り、インターネットの掲 示板にアップしたところ、何百というおしめが届 き、困り果てたこともあったという。

■しかし、炊き出しなどの従来型の災害救援を目 的とする災害ボランティア自身が、情報面からの

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災害復興制度研究所

情報支援と個人情報

被災者支援の必要性に気付くのに、そう時間はか からなかった。

1995年5月27日、ロシア・サハリンで起きた 直下型地震では、現地に医師団を派遣したアジア 医師連絡協議会(AMDA)が、情報ボランティ アの支援を受けた。

1997年1月2日に発生した日本海重油流出事 故では、災害ボランティア自身がネットで情報を 発信する。重油の漂着予想や回収法について専門 知識を交換する大学関係者や行政担当者らによる 電子メールの会議室「オイル・メーリングリス ト」も稼働した。

だが、「専門家と現場が必ずしもつながってい なかった。現場が出す情報には勢いがあったが、

未整理だった」という。

中国河北省地震(1998年1月10日)▽トルコ 大地震(1999年8月17日)▽台湾大地震(同9 月21日)──これらの大災害は、皮肉にも一方 で災害救援の手法にみがきをかける貴重な経験と なった。被災地へ赴いて活動する現地部隊、IT 支援に携わる情報通信部隊、必要な物資や資金、

人員を調達する後方支援部隊と役割分担も進ん だ。

■IT支援の局面を大きく変えたのは、2000年3 月の北海道・有珠山の噴火災害と9月の三宅島全 島避難だ。有珠山では長万部から登別まで約100 キロにわたって避難所が点在した。三宅島全島避 難では東京だけで55市区に約3300人が分散居 住、「三宅村は東京で一番広い村になった」(村社 会福祉協議会)。

コミュニティの解体を食い止める一つの方法と して北海道や東京都の打った手が、電子の糸をは りめぐらす「ネット社会」の構築だ。道庁はパソ コン60台を購入し、噴火3日後の4月2日から 避難所に配り、ピーク時には31カ所に49台が置 かれた。都と三宅村は、約400台を目標に2000 年末から島民へのパソコン貸与を始めた。

東京都三宅村の島民をインターネットで結ぶ、

都と村の「三宅島民情報ネットワーク」が始動し たのは全島避難が4カ月を超えた2001年の年初 だった。全国に散らばった島民にパソコンを貸与 し、ネット上で情報が共有できるメーリングリス

ト「島民井戸端会議=net−miyake」を使ってバー チャルコミュニティ(仮想地域社会)「電脳三宅 村」を構築しようとの試みもスタートした。

三宅村の島民避難が完了したのは2000年9月 4日。都は阪神・淡路大震災で被災者が学校の体 育館や公園のテント村で厳しい避難生活を送った ことを教訓に、避難所−仮設住宅−復興住宅とい う通常の救援策を取らず、都営住宅の空き室への 入居を勧めた。

これが逆に徒となり、ほかの要素も加わって島 民約3800人余の避難先は、東京を中心に全国21 都道府県にも及んだ。ばらばらに住むことになっ た島民たちは、被災体験を共有できる仲間がおら ず、情報も入手しにくい。ボランティアらの支援 も得にくいなど、次第に孤立化が問題となってき た。そこでメーリングリストによる産業振興を進 めていた都の労働経済局が中心になって、ネット による村のコミュニティ再構築を計画。パソコン は企業に提供を求めた。初めてパソコンをさわる 人のために、島民25人によるサポート隊も発足。

都立技術専門校でパソコン講習会も開かれた。

2000年12月8日。東京・永田町の衆議院第二 議員会館の会議室で開かれた「三宅島噴火災害報 告集会」には100人を超す島民らが集まった。全 島避難から約3カ月。集会を呼びかけた東京都小 金井市の市議や三宅村議、渋谷区議、群馬大、東 北大の学者、北海道・有珠山ネットの主宰者ら呼 びかけ人はインターネット上で知り合った。小金 井市議が「集会はネットの力なくしてはやれなか ったでしょう。コアのメンバーが役割を分担し、

メールでやりとりしながら実現にこぎつけた」と 話したように集会はネット時代の幕開けを告げる ものだった。

21の都道府県、183の市区町村に避難して生活 している三宅島民約3800人にも集会の様子がイ ンターネットで同時中継された。島民有志による ホームページ「島魂」主宰者の一人が、「長期化 に備え、集中居住を」と避難場所の再編成を訴 え、それが盛り込まれた宣言が集会で採択され た。バーチャル(仮想)な世界でのやりとりがリ アル(現実)な市民運動に転化した瞬間だった。

■2000年に起きた二つの噴火災害は、専門家や、

86 第Ⅱ部 広域・長期避難の実相

いわゆる「パソコンオタク」らだけのものと思わ れていた情報発信の機能を一般の被災者が手にし た、災害情報の世界ではエポックメーキングな災 害となった。

被災者自身が作ったホームページに避難所や官 公庁・自治体、交通機関、マスコミ各社の情報ま でリンクさせ、さらに会員が意見を交換するメー リングリストや、だれでも書き込める掲示板をセ ットにして情報の一元管理を成功させた「有珠山 ネット」を主宰したのは地元、北海道伊達市でイ ンターネットによる花材販売を手がけていた業者 だ。この人を中心に室蘭市教委の情報教育担当者 や札幌市のネット接続業者、東北大の学者らが加 わった情報ボランティアが、三宅島の島民有志に よるホームページ「島魂」の立ち上げを手助けし た。「われわれはネットに住んでいる。島魂の主 要メンバーもネットで探した」とメンバーたち。

現在のソーシャルメディア全盛期を予想させる瞬 間だった。

「有珠山ネット」のメンバーは当時、「災害バス ターズ構想」なるものをまとめ、北海道庁などに 実現を働きかけた。山岳救助隊のような情報の専 門部隊を組織。災害対策本部の中に位置づけ、大 災害が起きれば現地へ派遣し、情報の一元化を図 る。「災害現場ではコメより情報。情報さえ出せ れば救援物資は手に入る。各地の被災地で経験し た成功例、失敗例も伝授できる。まず北海道から 始めたい」とした。

2000年4月には災害専門の情報ネットサービ ス会社「レスキューナウ」(東京都品川区)も設 立された。インターネットを駆使して、危機管理 や災害に関する情報の集配信、データベース化を 進めている。

ただ、問題はインターネット環境にない被災者 とのネットワークをどうするかだ。大震災では、

情報の途絶が行政レベルでも、個人レベルでも大 きな問題となる。インターネット環境にある少数 者だけの声が被災者の声として伝えられているの ではないか、との懸念はぬぐいきれない。

バーチャルコミュニティを試みた三宅村でも、

実際に使いこなせた人は約1900帯の2割にも満 たなかった。さらに、やっかいな問題は、あまり おおっぴらに議論されないが、電脳空間での人間

関係だ。「メーリングリスト(ML)」は、情報の 共有化に驚異的な力を発揮するが、ときたま一人 を集中攻撃するようなことが起きる。差別・中傷 するような発言も飛び出す。顔が見えない関係、

書き殴ってすぐに発信できる手軽さ……。バーチ ャルな人間関係に悩んで、MLから遠ざかる人も 多い。行政関係者は過激なMLにはハナから参 加しないという。

「無駄話はいいが、議論をしないのがMLの原 則」「熱くなってきたら、わざとゴミみたいな会 話を発信して水を浴びせる」「ML を立ち上げる ときは参加資格をしっかり問う」という意見もあ る。

当時、三宅島の避難民を支えた「三宅島災害・

東京ボランティア支援センター」のメンバーだっ た東京災害ボランティアネットワークの事務局長

・上原泰男さんは「私たちは、ファクス約160台 を島民に配った。1人1台ではなく、10数世帯に 1台とした。ファクスのある家に流した情報を、

周辺に住む人たちに取りに行ってもらいたいから だ。そこに小さなコミュニティが生まれ、安否確 認ができる。三宅島の高齢化率は30% を超える。

果たしてパソコンを使いこなせるのかという問題 もある。もちろんパソコンを否定するものではな い。しかし、人は人のまなざしを感じていない と、生きていけないのではないか」と話す。

■有珠山と三宅島の噴火から11年。東日本大震 災では、ソーシャルメディアが広域避難者支援の メーンツールとなった。約200の支援団体を対象 にアンケートし、回答のあった82団体について 調べたところ、89% にあたる73団体が自身、も しくは関連団体のホームページで情報発信をして いた。メーリングリストを運用している団体は 36.7%、ツィッター、フェイスブックを活用して いるところも34.2% あり、仲間内のネットワー ク構築は携帯メールが担っていた。ところが、避 難者の団体が避難先で仲間を募ったのは、口コミ がもっとも多く55.6% と半数を占めた。続いて 新聞、テレビ、ラジオなどマスコミの協力が33.3

%にのぼり、ホームページは2割余りにとどまっ た。依然、人と人との関係は、ネットではなく、

人のつながりが重要な要素となっている。支援の 2−(2)情報支援と個人情報 87

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