が実質的は罹災証明となったことは、これまでの 地方へ避難した罹災者の在り方を考えれば、首肯 できるであろう。
紙幅の関係上、震災避難者調査の過程を詳細に フォローすることはここではできなかったが、地 方へ避難した人々がどのように行政に罹災者とし て把握されるに至ったのかという点については、
ある程度の追跡できたと考える。
月中旬から約1か月での調査の実施もこうした地 方の体制を前提してはじめて可能であった。
これまでの関東大震災の研究は中央政府の震災 復興を目指す政治家、周辺の革新官僚を中心とす る人々の動きを中心に進められてきたが、公開さ れつつある行政資料群を利用して、避難民の動 向、それに対応する地方官僚の働きを含め、視野 を一層拡大させて把握する必要があると感じた。
注
1 前掲『埼玉県北足立郡大正震災誌』p.18−34 2 前掲『静岡県大正震災記録』p.80
3 『川崎市史』通史編3
4 拙稿「関東大震災罹災者バラックとその入居者 について−三井家寄贈公設バラックを手掛かり に−」『年報 非文字資料研究』第5号(神奈川 大学非文字資料研究センター 2009年)p.1〜;
拙稿「東京市政調査会避難者カードについて」
『京都災害史研究』12号(立命館大学歴史都市 防災センター 2011年3月刊予定)
5 群馬県立公文書館蔵「大震災関係書類」(請求記
号386)、ただし、ここでは、内務大臣官房から
各県内務部長宛である。
6 群馬県公文書館蔵「大震災関係書類」秘書係、
(請求記号1068)
7 上野駅は震災当日夕刻まで東北線は開通してい たが、その後火災で焼失し、一部開通は9月10 日以降であった(警視庁p.288)。この記事の鉄 道事務所間のやり取りから得られた情報はいま だ上野駅焼失前の状態である。なお、上野駅焼 失後も田端、日暮里、あるいは大宮まで徒歩に て辿り、列車に乗車したという個人記録が多い。
8 内務省社会局 1926、p.464 9 宮城県公文書館蔵、(T 12−0066)
10 拙稿「第2節医療救護」中央防災会議災害教訓 の継承に関する専門調査会『1923 関東大震災 報告書』第2編、2009年、p.28−44
11 前掲警視庁編『大正大震火災誌』p.83−84 12 『現代史資料』6 関東大震災と朝鮮人、みすず
書房、(1963年第1刷、1987年第9刷)、p.206−
207
13 (大阪府1924)p.7 14 (大阪府1924)p.53
15 (大阪府1924)p.426、京都府総合資料館蔵「大 正十二年関東震災救護一件」
16 長野県歴史館蔵「関東震災関係」(大14−2 B−1−
2)
17 長野県歴史館蔵「関東震災関係打合会ニ関スル 書類」
18 長野県歴史館蔵「長野県臨時相談所関係書類」
(大14−2 B−1−4)
19 鉄道省『国有鉄道震災誌』1927年、p.81 20 (鉄道省1927)、p.70
21 (鉄道省1927)、p.81−82 22 (鉄道省1927)、p.77−78
23 長野県歴史館蔵「関東大震災関係」救護書類
(大14−2 B−1−3)
24 (内務省社会局、1926)p.371−384 25 (新潟県1924)p.217−218 26 注21参照
27 宮城県公文書館蔵「関東地方大震災関係書類」
亘理郡役所
28 安田泰治郎『北海道移民政策史』生活社、1939 年、(再販1941年)、第五編 許可移民時代参照 29 愛知県公文書館蔵「震災関係書類」愛知郡役所
(大正12−1)
30 滋賀県政資料室蔵「災害救援」(489)のうちの
「関東震災避難者調査書類」滋賀県愛知郡、伊香 郡役所による
31 奈良県立図書館情報館蔵「関東地方震災救援一 件」二(T 12−3)
32 臨時震災救護事務局『震災被害状況並施設概要』
11月30日調、p.46−48。なお、この段階では、
いまだ11月15日の調査結果の集計は行われて いない。調査票を作成中とする内容であるから、
この原稿が作られたのは構想が固まり、実施目 途が着いた10月中旬と推定される。
33 長野県立歴史館蔵「震災救助事務日誌」(大14−
2 B−2)
34 注26に同じ
35 東京府告示427号、「警視庁・東京府公報」号外 大正12年11月16日
付記:本稿は、関西学院大学復興制度研究所山中茂 樹教授を代表とする科学研究費補助金の交付を受け た2010年度における資料調査の研究成果の一部であ る。また、本稿をなすにあっては、立命館大学歴史 都市防災センター、および神奈川大学非文字資料研 究センターにおける研究活動を踏まえた研究成果で あることも申し添える。
本稿をなすあたり、各県の公文書館、図書館には 多大のご協力をいただいたことを深く感謝します。
3関東大震災−地方への避難者 41
関東大震災において多発された勅令について(年表併用、解説)
関東大震災では多くの勅令が公布された。勅令についての帝国憲法上の規定は、第1章第8条に以下のように定め られている。
天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハソノ厄災ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合二於テ法律二代ルヘ キ勅令ヲ発ス
此ノ勅令ハ次ノ会期二於テ帝国議会二提出スヘシ
また、公式令第7条の勅令の公布の形式についての規定では、天皇が裁可した旨(上諭)を記すこと、また、親 署、御璽の後に、内閣総理大臣が年月日を記入して副署、さらに他の国務大臣の副署が必要とする規定がある。
関東大震災発災の翌9月2日に公布された徴発令、戒厳令などはこうした「安全ヲ保持シ又ハソノ厄災ヲ避クル為 緊急ノ必要」のための緊急勅令であった。帝都を直撃したこの震災がいかに緊急の国家的対応を要したものであった のかがわかる。この他、関東大震災では、天皇の意志を表明する場合の詔書が2度公布されている。
さて、2日以降出されたすべての勅令が緊急勅令に属するものではなかったが、それぞれの勅令の内容から時期を 区分をすることで、震災地の情勢を一定程度推定することができる。
なお、勅令に関連する閣令、それぞの省令などがあるが、ここでは省略する。
勅令年表によって、大まかな時期的な区分をしておきたい。
第1期:9月2日〜7日
地震発生に伴う首都の危機的状況への原則的対応を緊急勅令、通常の勅令(内閣の責任において公布)によって定 めた。
第2期:9月11日〜17日
震災地物資不足に伴う輸入税免措置及び震災地行政府の機能保全のための諸法令 第3期:9月19日〜11月15日
帝都復興審議会、帝都復興院設置など、復興審議開始と震災地・震災被害者の規定に伴う諸法令 第4期:11月15日〜13年3月31日
徴発令、戒厳令、臨時震災救護事務局廃止など、初期的緊急対応の諸法令廃止及び臨時物資供給令、特別会計失 効、帝都復興院廃止・復興局設置など、行政府の平常体制への復帰促進と、特別都市計画法に伴う東京・横浜の帝 都復興事業施行
第1期:9月2日〜7日
地震発生から1日を経た2日には、帝都を直撃した地震に伴う政治的社会的混乱を回避するための緊急勅令が発せ られた。396号非常徴発令(被害者の食糧、建築資材、衛生材料、運搬手段、労務)、397号臨時震災救護事務局救護 事務局官制(内閣総理大臣を総裁とする事務局を設置、事務官は各庁高等官、東京市助役から総理大臣が任命)を敷 き、398号戒厳令公布施行・399号戒厳令の適用条項公布施行(第9条、及び第14条)を発した。戒厳令(明治15 年太政官布告36号)のうち、関東大震災は戦地ではなく、一般の行政事務が施行される場でもあるから、戒厳適用 地域の行政事務、司法事務のうち軍事に関わることに限り戒厳司令官の管轄となることを規定する第9条、及び戒厳 司令官の権限規定の14条を適用するものであった。以上のうち、396号と398号は緊急勅令であり、国会の承認が 得られる状況下ではない場合に限り、国務大臣、さらには枢密院の承認を得る必要があったが、震災で枢密院議員の 所在不明のため、この手続きを経ずに公布施行された点が後々まで議論を生んだ。ただ、それだけではなく、朝鮮人 虐殺が東京、横浜、埼玉、群馬などで発生、これに軍部が関与したとされる状況が問題視されたことが大きく作用し た。さらに留意しておくべきことは、これら緊急勅令を含む震災対応の原則的規定が新内閣発足以前に発せられてい 42 第Ⅰ部 関東大震災から首都直下地震へ
ることである。つまり、内田康哉首相代理、後藤警保局長など、前内閣の元で発せられている点は、新内閣の震災対 応策の基本がここにすで敷かれていたことを意味するからである。
さて、戒厳の適用地域は399号において東京市と東京府下の各5郡、402号(9月4日)において埼玉、千葉の両 県が加えられた。続いて403号(9月7日)で出版通信への治安条例適用して情報統制を行い、404号(9月7日)
に支払猶予令、405号(9月7日)に暴利取締令よって震災での経済への直接的打撃を緩和した。国家的緊急事態へ の基本的な条項を整えた段階と見做される。
第2期:9月11日〜17日
この震災に対する国家的対応の基本を定めた後に着手されたのは、物資不足を補う国外からの食糧輸入を促進する ための輸入税免除である。米、牛肉、鶏卵、生活必需品全般、土木・建築用材など全般に及んだ。その他、410号
(9月12日)震災被害者の税の免除、そして414号(9月15日)において、都市計画法の適用地域である東京、横浜 の罹災地について、大正17年(1925)までは市街地建築物法適用除外を定めた。仮設住宅を暫定的に認めるための 法的措置を施すものであり、罹災地の住民のバラック居住を保護する目的であった。
第3期:9月19日〜11月15日
この期間の中心的課題は、復興への道筋の策定である。まず、418号(9月19日)に、帝都復興審議会官制が敷か れ、委員が任命された。震災を契機として帝都改造を目論む後藤新平内務大臣側の復興基本構想に対して多額な費用 への懸念から支配的な元老議員が反発、復興省は否定され、425号(9月27日)帝都復興院官制が公布された。478 号、479号(11月15日)を以て、戒厳令が解止され、同日480号東京警備司令部令が公布され、戒厳が解かれた後 の首都の治安を掌る恒常的組織が設けられた。こうしたなか、東京、横浜を中心とする震災地から避難して全国へ散
った約70〜80万の避難者を把握し、被災の実情と震災地復興後の帰還の意志を問う震災罹災者調査が1920年の第1
回国勢調査に倣って全国規模で実施された(閣令10号{11月15日})。
震災発生、戒厳令公布以来2ヶ月半で、戒厳の解止となり、ほぼ帝都の治安は常態に復し、復興策を担う当局者の 間では、復興への具体策の展開へと進むと予想された段階であった。
第4期:11月15日〜13年3月31日
勅令418号に基づいて第1回帝都復興審議会が開会されて以降2ヶ月を経て、漸く第2回帝都復興審議会が11月 24日に開会された。しかし、帝都復興法の承認が保留され、それに相応して、491号(11月29日)臨時震災救護事 務局官制が改正され、職員の縮小が図られた。継いで、帝都復興案についての議会の承認を取り付けるべく、12月11 日〜23日の間、第47回臨時帝国議会が開会され、ここで提案された復興予算案は大幅な削減が求められた。この結 果を受け、第48回通常議会が12月27日に開会されることになったが、次々と不測の事態が勃発した。まず、議会 に臨む摂政宮裕仁が虎の門を通過する際、幸徳秋水事件以来、政府の社会主義者弾圧に抗しがたい怒りを抱いていた 青年難波大助が摂政宮を狙撃する事件が起き、この事態の責任を取って内閣は総辞職に追い込まれた。こうした一連 の事件によって、第48通常議会は暫時休会となり、山本権兵衛内閣の後を受けて成立した清浦内閣によって翌年通 常議会が1月23日に再会されたものの、皇太子(後の昭和天皇)の結婚行事で再び休会となるなど、政治的混乱に よって、復興事業は著しく停滞を余儀なくされた。
漸く始動した復興事業は、まず、勅令24号(大正13年2月23日)帝都復興審議会官制廃止、25号(同日)帝都 復興院官制廃止、26号(同日)復興局官制の公布を以て開始され、予算の大幅な縮小のなか、実質的に動き始める ことになった。これにより、55号(2月28日)震災の緊急対応策全般に担ってきた臨時震災救護事務局が3月31日 を以て廃止されることになり、代って、49号(3月15日)を以て東京、横浜に適用される特別都市計画法施行令が 公布された。
(北原糸子)
3関東大震災−地方への避難者 43