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子ども虐待対応にみる多機関・多職種連携

第一節 子どもの権利に対する認識変化 1)戦前~終戦直後の児童福祉の諸相

子ども虐待対応において多機関・多職種連携は原則の一つとされ、制度的基盤の整備も 図られてきた。まさに、「構築・開発」の只中にある。第二章では、子ども虐待対応の史的 展開を整理し、現状の課題と多機関・多職種連携との関連を整理する。日本子ども虐待防 止学会前会長であり、小児科医の小林美智子は、1994 年の第 1 回日本子ども虐待防止学 会における元 ISPCAN(International Society for the Prevention of Child Abuse and Neglect)会長で小児科医のKrugman,Richardが、子ども虐待対応はどこの国も同じ発展 過程を辿ると講演していたことを述懐した( 小林ら2007;小林2015)。その中で、①人類 は長年、虐待を無視し続けるが、②虐待の存在に気付 くと、③かわいそうな子どもをひど い親から分離しようとし、④それだけでは何も解決しないと気づき、親の治療に挑戦する ようになり、⑤最も表面化し難い性的虐待に気づき、⑥予防こそ大切だとやっと気付いて 取り組む、と話されたという(小林ら2007;小林 2015)。子ども虐待対応を含む児童福祉 は、子どもの権利に対する社会の認識の変化と大いに関わりがある。

杉田(2008:54)によれば、日本において権利主体としての子どもという認識に基づく 議論の起点となるのは、1920 年代と見ることができるという。杉田(2008)は、この頃 から社会問題としての児童問題が論じられていたとし、その代表例として東京市(1924)

や海野(1925)を挙げている。明治時代の末から、出獄人保護事業に従事する中で青年犯

罪と子ども虐待の関係に着目した原胤昭や、救世軍にて児童虐待防止部設置に尽力した山 室 軍 平 な ど の 篤 志 家 に よ っ て 子 ど も 虐 待 へ の 対 応 に 取 り 組 ま れ て い た も の の ( 高 橋 重

2008:池田 2002:上野 2006)、まだ限られた人たちの間の議論でもあった。戦前期の未

成年者保護法制の一つである感化法には、未成年犯罪者の他に養育者のいない子どもに関 する規定は存在していたが、親権の適切な行使自体を問題として扱ったものではなかった

(田中 2013:539)。また、1922(大正 11)年に制定された少年法の制定過程において、

現在で言うところのネグレクトされた子どもの養育者に対する処罰が検討されてはいるも のの、最終的には子どもの保護が手続き上困難であるとの判断から当該項目は削除されて いる(田中 2013:540)。第一次・二次世界大戦前後は社会情勢が不安定になっていた時 期でもあり、社会的弱者に対する救貧制度としての救護法の立法化作業などを経 ることで、

貧困を背景とする子どもへの権利侵害に対する施策の必要性を認識させる要因にもなった という見方もある(田中 2013)。

国家が扱うテーマとして、「児童虐待」という言葉が公的な文書に初めて登場したのは 1933年制定の児童虐待防止法(以下、2000年施行の児童虐待防止法と区別するために1933 年児童虐待防止法と記載)といわれる(庄司ら 2010;田中ら2012)。なお、虐待という言 葉が法律上初めて登場したのは、民法である(田中ら 2012)。親子ではない関係の間で起 こる虐待の取締に重点をおいた「養児規制」の延長としての親権者や後見人といった「児 童を保護すべき責任のある者」の取り締まりをも視野に入れたものであった(杉田 2008)。

著しい虐待が行われた場合には、親子関係に介入してでも子どもを保護する必要があるこ と、14歳未満に限定されてはいるものの、不適切な使役から子どもを守る必要性があるこ

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とが謳われていた。田中(2013:556)は、この時期に議会審議においても法案の意義が 認められ、スピード可決に至ったことは、一定の理解が得られるだけの社会的土壌が備わ っていたことを伺わせると述べている。しかし、富国強兵が国家戦略 の軸であった戦時下 において、1933年児童虐待防止法は社会体制の維持の観点から子どもに対する強制的な労 働や性搾取、浮浪児問題、間引き、栄養確保の困難などへの対策が中心であった。対応は 方面委員に一任されており、専門機関の設置は行われていない。これが、児童虐待防止法 の円滑な適用を困難ならしめた原因という見方もある(田中 2013)。1933年児童虐待防止 法の意義は、戦前における数少ない児童保護立法であった点と、従来の工場法では不十分 であった児童労働を保護する性格を有した点にあるといわれる(古川ら 2009:113)。し かし、対処療法的であるとの批判もあり、戦後 1947 年に施行される児童福祉法に吸収さ れる形で廃止された。

児童福祉法は、満 18 歳未満の子どもと、妊産婦、養育者(親権者又は子どもを養育す る者)を対象とした法律であり、その第 2条では福祉的保障における国家責任が明記され た。日本の子ども虐待対応は、児童福祉法における「要保護児童」という枠組みを用いて 展開されてきた。2000 年に施行された児童虐待防止法は、この児童福祉法の枠組みを補 足・強化する役割を担う。「要保護児童」とは、児童福祉法第 6 条の 3 が規定する虐待を 受けている子どもをはじめとする援助の必要な子ども(養育者のいない子ども又は養育者 に監護させることが不適当であると認められる子ども 、非行児童等も含む)である。児童 福祉法第 25 条では、要保護児童を発見した者は、市町村や都道府県の設置する福祉事務 所、児童相談所に通告しなければならないとする通告義務を定めている(14歳以上の犯罪 少年については家庭裁判所への通告)。GHQ 主導で行われていた戦後改革の中、1944 年 GHQ 公衆衛生福祉部の覚書の影響を受け、①児童及び母子の保護、②児童の保育、③児 童の教護、④児童及び母子の保健衛生、⑤その他(他の主管に属さぬ児童に関すること)

を所掌する担当部局設置の方向が明確となり、児童福祉法は①~⑤の根拠法として成立し

た(寺脇 1976)。敗戦後、日本の社会相を特徴づけるものに上野を代表とする浮浪児問題

があり、児童福祉法も児童保護事業として当初は立法化が進められたのだが、当時の中央 社会事業委員会からの反対により「児童保護」から「児童福祉」へ、立案官僚の思想転換 があったといわれる(松崎 1948)。松崎(1948)は、児童福祉法は、児童政策のあり方を 大きく展開させ、さらに萌芽として、児童問題に対する社会の連帯責任観念を内包するこ とになったと評した。

一方、子どもの権利擁護の観点からいえば、児童福祉法が成立した後もなお、課題は残 った。児童福祉の視点から終戦直後を捉えると、戦災孤児や浮浪児の 急増だけでなく、混 乱と生活困窮の中でのベビーブーム到来により乳幼児が増加し、大人でさえも生きていく ことが困難な社会において、子どもたちは家庭の喪失や欠落、栄養失調なども含めた生存 の危機、また、貧困にかかわる問題としての 身売りといった、危機的状況にあった(子ど もの虹情報研修センター2004)。この頃の事件として、東京済生会病院に「やむをえない 人はここに捨てよ」と貼り紙がされ「捨子台」が設置される、あるいは100 人以上のもら い子(乳児)を殺害した夫婦が逮捕された事件などがあったと報告されている( 子どもの 虹情報研修センター2004)。その対策として、孤児や浮浪児などを保護する、一時保護所、

児童保護相談所(後の児童相談所)、児童鑑別所などが急速に設置され始めた(子どもの 虹情報研修センター2004)。要保護性を判断する機関としての児童相談所、要保護と判断

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された子どもを保護する施設としての一時保護所を含めた児童福祉施設という位置づ けは、

この頃には既に確立されていた。

2)児童虐待防止法成立の背景

終戦直後の子どもの危機的状況は、高度経済成長とともに収束に向かう。 高度経済成長 期に入って以降、貧しさのために子どもの生存が脅かされ る悲劇も減少する(子どもの虹 情報研修センター2004)。具体的には、児童養護施設や里親への措置数は1958 年にピー クを迎えた後は減少に転じ、1947年には20万人強であった乳児死亡者数も1975年には2万 人を割った(子どもの虹情報研修センター2004)。戦後まもなく立法化された生活保護法

(1946年)、児童福祉法(1947年)、身体障害者福祉法(1949年)に加え、1960年代に入

ると精神薄弱者福祉法(1960年)、老人福祉法(1963年)、母子及び寡婦福祉法(1964年)、

といった福祉六法が立法化され、1961年には強制加入の国民皆保険制度へ移行、同年には 年金保険制度も確立されるなど、社会保障・社会福祉制度も徐々に確立されていった 。1973 年には高齢者の医療費無料化、年金の物価スライド方式の導入、医療保険の家族給付割合 の引き上げ、などの一連の改革が進められ、1973年には当時の田中内閣が福祉元年を宣言 したことでも知られる。一方、1970年に高齢化率が7%を突破、1973年をピークに出生数 も低下した、「少子高齢化社会」の到来を迎えた。

子どもの虹情報研修センター(2004)では、全国の児童相談所が扱った事例を集めた『児 童のケースワーク事例集』を検証し、1960年代以前の事例では生い立ちや家族状況につい て赤裸々であるが具体的に捉えられていたのに比べ、1960 年代中頃から、家庭内の情報 に関して具体的記述が控えめで、乏しくなっていく傾向が読みとれると指摘した。高度経 済成長時代は、都市化、核家族化が進んだと同時に、旧来の地縁社会の崩壊が始まった時 代であり、その中では養育の中心を家族と強調される一方、周囲から家族内における子育 ての状況を見えにくくさせた(子どもの虹情報研修センター2004)。ゆえに、『児童のケ ースワーク事例集』においても明確な虐待事例の減少と具体的な状況記述の乏しさにつな がったのではないかと分析した(子どもの虹情報研修センター2004)。

1973年には、厚生省(現在の厚生労働省)が「昭和 48年度児童虐待、遺棄、殺害事件 に関する調査」を実施した。これは当時社会問題化していたコインロッカーへの乳児の遺 棄の問題を背景に行われたものである(庄司ら 2010)。当該年度中に全国の児童相談所が 受理した 3歳未満の子どもに対する虐待、遺棄のケース、および 3歳未満児の殺害事件数 について、虐待 24 件、遺棄 126 件、殺害事件 251件(殺害遺棄 135 件、殺害 51 件、心 中 65 件)と報告された。その後も実態調査は行われ、これらを通して、子ども虐待への 関心も次第に高まっていった(庄司ら 2010)。また、1970年代に入ると、子ども虐待の発 見方法として医学的な検査手法が欧米からの輸入という形で注目されるようになる。小児 科領域において、「被虐待児症候群」の概念が紹介されるようになり、症例報告も次第に増 えていった(柳澤 1999:7)。他方、上野(2006:259-260)は、この時代において日本で 子ども虐待を発見した医師たちは、臨床場面で出会ったというよりはむしろ西欧医学でい うところの battered child syndromeをめぐる研究動向と日本国内の子殺しの新聞報道を 観察していたといえなくもないと指摘した。この時代にはなお、「日本では望ましい家族制 度があるおかげで、このような問題が発生しないのだ」と言う論調の論文さえ発表されて いたという(津崎ら2008:4)。子どもの虹情報研修センター(2004)では、1970 年代を