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大阪湾に面する古墳 1.百舌古墳群と上町台地の古墳

ドキュメント内 方墳の研究については長い歴史がある (ページ 54-63)

第9章 タニワ(兵庫)の長刀と墳墓

第2節 大阪湾に面する古墳 1.百舌古墳群と上町台地の古墳

古代においてこの地域は瀬戸内航路の起点であり、終点としての難波津と住吉津という重要な港 津があったところである。上町台地の大坂湾に面した西側の北に難波津が、南に住吉津が位置する。

「記紀」には様々な名称で表現されているが、そのときどきの必要に応じてお互いに利用されてき た港津であろう。

①百舌鳥古墳群 古代の住吉津にほど近い大阪湾に面した百舌鳥野の台地に百舌鳥古墳群があ る。古代では、住吉津から大津道、丹比道を通じて大和へ至る陸路があり、まさに西方からの水陸 交通の要所の地に百舌鳥古墳群が築かれている。

この古墳群は東西4km、 南北 4.5 ㎞の範囲の中に、現在 46 基の古墳が現存しており、消滅した 古墳を含めると 100 基を超える古墳群であったといわれる。いずれにしても海の道を意識した古墳 群としては最大規模の古墳群である。なお、明治時代の海図には、帝塚山古墳、田出井山古墳、(伝 反正陵古墳)、大山古墳(伝仁徳陵古墳)、石津丘古墳(伝履中陵古墳)などの古墳が航海上の目標と してその位置か明示されている。古墳時代においても古墳の雄大な姿態は海上から見え、対外関係 の使節や西方の地域政権の人々を驚かせたことであろう。

絵図や古記録でなんらかの知見がえられた古墳は 94 基であり、前方後円墳は 23 基を数え、帆立 貝式の前方後円墳9基、円頂 54 基、方墳4基である。前方後円墳をみれば、前方部を南西に向ける

百舌鳥古墳群で最初に築かれた乳の岡古墳が海に最も近い段丘崖下に立地していることもこの古墳 群の性格の一端を表しているのであろう。

この古墳群の中で最大の前方後円墳は周知のごとく大山古墳である。海を意識した最大の前方後 円墳が墳長 485m、三重濠をもつともいわれる周壕を含めた総長 800mにも達する列島内最大の規模 を誇り、最も完成した前方後円墳であることはヤマト王権が航路を重視し、制海権に対して強い意 思を表していたという性格の一面を読みとることが可能である。大山古墳そのものが海を意識した 象徴的記念物であるといえる。

百舌鳥古墳群を構成する墳丘規模による首長階層をみれば、(A)二重周壕を配し、墳長 290mを 超える大王墓クラスとみられる超大形前方後円墳、(B)墳長 150m前後の大形前方後円墳、(C)墳 長 100m前後の中形前方後円墳、(D)墳長 60~90mの間の帆立貝式の前方後円墳、(E)30~60mまで の前方後円墳、帆立貝式の前方後円墳、円墳、(F)30m以下の円頂、方墳に分けること(註 1)がで きる。

Aクラスの古墳は3基で石津丘古墳は6期に、大山古墳は7期に、土師ニサンザイ古墳は8期の 築造されている。Bクラスの古墳は中期前半の5期から中期後半の8期にかけて5期の前方後円墳 が築かれ、8期の御廟山古墳は墳頂 186mである。この古墳群がBクラスの前期後半の4期の築造 とみられる乳の岡古墳(墳長 155m)から開始されていることと海岸部に最も近い立地であることを 考え合わせると百舌鳥古墳群の性格を論じる際の象徴的な事象であると言える。

この古墳群は8期に大山古墳・土師ニサンザイ古墳など大規模な前方後円墳の築造が集中し、群 形成の頂点が8期にある。長持形石棺は乳の岡古墳と大山古墳前方部に知られており、前者は和泉 砂岩を後者は竜山石製の石棺である。

②上町台地の古墳 上町台地には、大阪湾に面した帝塚山古墳と旧の河内湖に面した御勝山古 墳と酒君塚古墳(前方後円墳、推定墳長約 60m)がある。帝塚山古墳と御勝山古墳は共に墳長約 120 mの規模で、周濠を配し、Ⅱ式の円筒埴輪が知られている。御勝山古墳からは鰭付円筒埴輪が出土 している。

帝塚山古墳は上町台地の南西端にあり、築造当時の沿岸線はおそらく 0.5mに満たない位置に築 かれており、古代の住吉津に最も近い古墳で、現住吉大社1km 北側に位置する。帝塚山古墳の隣接 地に小帝塚山古墳(前方後円墳、墳長約 30m)と地積図からの推定復原であるが大帝塚古墳(前方後 円墳、推定墳長 135m)がある。

③和泉海岸の古墳 百舌鳥古墳群より南方には、その北側から順に沿岸部の古墳をみていくと、

9期の経塚古墳(帆立貝式前方後円墳、55m)、11 期の富木車塚古墳(前方後円墳、48m)、9期の 大園古墳(帆立貝式前方後円墳、553m)、4期の和泉黄金塚古墳(前方後円墳、85m)、5期の丸笠 山古墳(前方後後円墳、80m)、3~4期の摩湯山古墳(前方後円墳、200m)、4~5期の久米田貝吹 山古墳(前方後円墳、130m)、4期の貝塚丸山古墳(前方後円墳、72m)、9期の箱作古墳(前方後円 墳、約 30m)が築かれている。そして、淡輪の地域には7期の西陵古墳(前方後円墳、210m)、8 期の淡輪ニサンザイ古墳(前方後円墳、170m)と西小出古墳(円墳、50m)があり、淡輪地域のこれ らの古墳は埴輪の分析かれたように紀伊の首長を想定するのが妥当であろう。

和泉黄金塚古墳までを沿岸部の古墳とするには躊躇を覚えざるを得ないところであるが、上町台 地から淡輪地域までのこれらの古墳を通覧していると点々ではあるが、点を結べば線になるごとく、

元寇に備えた北部九州の防塁壁とイメージが重なるような分布状況である。

これらの中で、摩湯山古墳と久米田貝吹山古墳は海を意識した古墳の要素を有している。摩湯山 古墳は海岸線から 2.5km とやや離れているが、大阪湾を睥睨する丘陵端に墳長 200mを測る大形前 方後円墳で、鰭付円筒埴輪をもち、階段状に仕切られた前方後円形の周壕をめぐらせている。周濠 の形態、段築成、鰭付円筒埴輪などは明石海峡を指呼の間に望む五色塚古墳ときわめて類似してい る。

久米田貝吹山古墳(和田・吉井 1997)は、前方部を大阪湾に向ける標高 35mの低台地に立地し、古 墳からは明石大橋、明石海峡か望見できる。海岸線からの距離は 2.5km である。この古墳も前方後 円形の周濠を配し、数カ所に仕切り堤をもつ。後円部中央は戦国時代に大きな盗掘を受けているが、

石棺の断片から石棺は香川県東部の津田町に産出する火山石(白色凝灰岩)製の刳抜式石棺を棺と しており、石棺を覆う槨としては、竪穴式石室が構築されている。竪穴式石室の壁体の石材には、

大阪府二上山の芝山で産出する輝石安山岩と中央構造線に産出する絹雲母片岩や紅簾片岩の板石が 使用されている。調査者は絹雲母片岩や紅簾片岩は徳島県吉野川流域の石材と捉えている。後述す る西求女塚古墳の竪穴式石室のごとく部所によって他地域の石材を使い分けするということなく、

壁体の石材として渾然一体に使用している。

久米田貝吹山古墳の被葬者である首長を埋葬する棺が、讃岐地域東部の火山製の石棺であり、竪 穴式石室の構成する板状石材が二上山と阿波からという遠距離を運搬してきている。大変な労力で ある。もちろん讃岐や阿波からは海を経由してしか運搬できない。この事実は久米田貝吹山古墳の 被葬者の性格を明らかにするポイントであろう。石棺を重視すれば、讃岐東部に出自をもち、各地 域と通交や交易をなしえた首長とみることも可能である。ただし、立地場所、二上山の石材の使用 などから倭王権の関係を度外視しては考えられない。盗掘坑から、碧玉製腕飾類片約5点(鍬形石、

車輪石、石釧)、碧玉製管玉約 400 点、鉄製小札による革綴冑、銅鏡片などが出土しており、従来、

4~5期の築造とみられていたが、少し古く位置づけされ、摩湯山古墳と近い時期の所産となるで あろう。摩湯山古墳の被葬者である首長の管掌のもと通交、交易を担った首長の姿が髣髴とすると ころであり、長方形の透かしをもつ鰭付円筒埴輪を使用していることもその裏付けになるであろう。

2.難波津から明石海峡までの古墳

①西摂地域の沿岸部の古墳 この地域は猪名川と武庫川による沖積作用が著しく、旧の海辺は 現在の海岸線よりもずっと北側にあり、古墳時代の海岸線は JR 東海道線付近まで入り込んでいたと ころである。古代には猪名川の河口に武庫の津(務門水門)、摂播五泊のひとつの河尻泊が、武庫川 西岸には津門という港津が存在していたことが記録にみられる。

旧沿岸部沿いに立地している古墳としては、東から伊居太古墳、水堂古墳と武庫川西岸の津門大 塚山古墳、津門稲荷山古墳の4基の前方後円墳が指摘できる。いずれも前方部を南すなわち海側に

伊居太古墳は猪名野古墳群を構成する古墳とみられ、古墳群の中では墳長約 92mで、最も規模の 大きい前方後円墳である。猪名野古墳群は市街地開発のため消滅した古墳が多く、その実態が不明 なところが多いが、猪名川左岸の伊丹段丘の南端から沖積地にかけて5基の前方後円墳と1基の帆 立貝式前方後円墳や円墳などから構成され、小規模な古墳を含めると 20 基余りの古墳からなる中期 の古墳群である。前方後円墳の分布から、首長墓は二系列に分けられる可能性もあるが、全体とし て捉えれば、池田山古墳(前方後円墳、71m)が前期後葉~中期初頭(4~5期)に最初に築かれ、伊 居太古墳が6~7期に、御願塚古墳(帆立貝式前方後円墳、52m)が7~8期に、南清水古墳(前方後 円墳、46m)が8~9期に、御園古墳(前方後円墳、60m)が9~10 期に、そして後期中葉の 10 期に 園田大塚山古墳(前方後円墳、44m)と順次規模を縮小しながらも継続して築かれているめずらしく 息の長い古墳群である。なかでも猪名野古墳群の南に分布する池田山古墳―伊居太古墳―御園古墳 の首長系列は、この地域の津の管掌者であった可能性がその立地から考えられる。

水堂古墳は伊居太古墳から西へ約4km 離れた沖積地に立地する墳長約 60mの前方後円墳である。

後円部中央に檜材の割竹形木棺を覆う長さ7mの粘土槨があり、三角縁神獣鏡、竪櫛、鉄製武器類 や鉄製工具類等が副葬されていた。葦石や埴輪は採用されていない。前期後半の4期に編年される。

なお、古墳時代の想定海岸線からは約 1km 北に位置する。

津門稲荷山古墳と津門大塚山古墳は消滅し詳しい内容は判らないが、津門稲荷山古墳は標高 3.5 mの平地に立地する墳長が約 40mの前方後円墳で、Ⅳ式の円筒埴輪が知られており、津門稲荷山古 墳は標高4mの平地に立地する墳長約 42mの前方後円墳で、横穴式石室の可能性が指摘されている。

両古墳の築造時期は、津門稲荷山古墳は6~7期に編年できる。津門大塚山古墳が横穴式石室であ れば 10~11 期に編年できるであろう。

②六甲山南麓の沿岸部の古墳 六甲山南麓に位置する狭長な臨海平野の沿岸部にも海を意識し た前方後円墳が築かれている。最も著名な古墳は、『万葉集』に「…遠き代に語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士塚 こなたかなたに 造りおける…」と高橋虫麻呂の長歌に詠まれた神戸前に ある処女塚古墳、西求女塚古墳、東求女塚古墳という海辺近くにある3基の前方後円(方)墳であろ う。中央にある処女塚古墳のみが前方部を海側に向けた前方後方墳で、2km 西に前方部を処女塚側 に向けた西求女塚古墳が、1.5km 東に前方部を処女塚古墳に向けた東求塚古墳がある。あたかも処 女塚古墳を挟むように配置されている。明治 18 年の仮製地図をみれば、処女塚古墳と西求女塚古墳 は海岸より 200m、東求塚古墳は 500mの位置にあり、瀬戸内航路を意識したところに築かれている。

西求女塚古墳から西 700mのところに式内社敏馬神社があり、万葉の時代における敏馬の浦はそ の東方の西郷川(味泥川)の河口付近と推定され、西求女塚古墳からは至近の距離である。

これら三古墳の東方には、宮川右岸に親王塚古墳、金津山古墳、打出小槌古墳なとからなる翠ケ 丘古墳群が臨海性の古墳として理解できる。西方には大輪田泊(兵庫津)の近くにある念仏山古墳が ある。他に、生田川と都賀川の間にいまは消滅して不明なところが多いが前方後円墳であったとい う脇浜天王山古墳という古墳の存在が伝えられ、そうであればこの古墳も臨海性の古墳であるとい える。

金津山古墳は芦屋川の右岸に発達する洪積台地が最も海に近づくその先端に築かれている。墳長

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