第9章 タニワ(兵庫)の長刀と墳墓
第6節 まとめにかえて-交易と古墳そして地域王墓の造営地の問題-
小稿で扱った地域において、周辺に可耕地のない海岸部に墳墓を築くのは、弥生時代終末期の墳 丘墓の段階からである。岩見北山4号墳丘墓の積石塚がその典型である。海を媒介とした交易を主 体とする富の形成によってこのクラスの墳丘墓を海岸部の首長が築き得たのである。
積石塚は海を活動の舞台としている集団の墳墓や古墳である可能性が高い。播磨地域のこれら積 石塚は讃岐や阿波地域の関連で捉えられる。この段階では、まだヤマト政権の成立前で、故に、大 王権の関与はなかったであろう。
古墳出現時にも沿岸部に立地する古墳がある。西求女塚古墳がその典型である。西求女塚古墳は その出自がどこにあるか判らないほどに他地域の様々な要素を取り入れている。海運力によって政 治的に力量をもった首長の古墳とはこのような状況を呈するのであるかも知れない。
墳丘墓の段階と違って、ここには航海術という特技をいかした首長にその活動の承認を与えた大 王権が存在したとみておきたい。承認といってもルーズなもので、比較的自由に海を舞台として活 躍した海運王的な性格の首長の姿を想い浮かべている。処女塚古墳や御旅山6号墳も同じような性 格をもった古墳時代前期前半の沿岸部の首長であろう。
業生産に基盤をおき、港近くに設けられた市の差配を兼ねた有力な大首長であろう。以上が古墳時 代前期前半(1・2期)の沿岸部に立地する大形前方後円(方)墳の様相であり、特殊器台埴輪も円筒 埴輪Ⅰ式も洽岸部の古墳には使用されていない。
古墳時代前期後半(3・4期)は沿岸部における海上交通の要衝の地に 200mクラスのきわめて大 形の前方後円墳が鰭付円筒埴輪を伴って出現する時期である。
典型的に古墳としては、摩湯川古墳と五色塚古墳があげられる。大王墓が大和東南部から大和北 部の佐紀盾列の地に移動する時期にあたる。移動した王権が斉一的で規格性のある鰭付円筒埴輪を 創出し、海上、陸上の主要な交通路の要衝の掌握をめざし、この埴輪祭祀をもって地域支配と交通 路の掌握という二つの政治的課題を実現しようとした時期で、沿岸部の古墳の大きな画期をなす時 期である。前期後半3期から4期の出来事である。
前期後半の3期には瀬戸内海航路の掌握には二重構造的なところがみられる。播磨灘に面する輿 塚古墳と聖陵山古墳にその現象が表れている。
聖陵山古墳は埴輪をもたず、輿塚古墳はⅡ式の円筒埴輪を使用している。揖保川流域において、
最初に埴輪を採用しているのは輿塚古墳である。
加古川流域の聖陵山古墳と日岡古墳群は、前期後半の時期になっても埴輪を採用していない。聖 陵山古墳は在地の有力首長である日岡古墳群との関係で海上交通の掌握をした姿を表しており、輿 塚古墳は王権が直接的に海上交通を把握する目的で築造した古墳といえる。これは、王権と地域政 権との政治的関係の疎密に基づくものであろう。前期後半 3 期の出来事である。
この時期不都合なことが起こったのであろう。そのことが、瀬戸内海航路の安定的な確保を重視 した王権が五色塚古墳というきわめて大形の前方後円墳を造らせたのであろう。
中期には百舌鳥古墳群が、その威容をもって海上交通を制した時期であろう。播磨灘の綾部山1 号墳やみかんのへた山古墳という大形円墳は王権の管掌下のもとで活躍した海岸部の首長であろう。
後期になると沿岸部の大形古墳の築造がなくなる。王権にとって大形古墳を築造するという示威 行為をもって制海権を掌握する必要がなくなったのである。そして、後期には海人族の小規模な古 墳の築造が始まる。
(註)
1.百舌鳥古墳群、上町台地の古墳、和泉海岸の古墳については、近藤義郎編『前方後円墳集成』近畿編 1992、『古 墳時代の研究』の天野末喜 1990 の「近畿 大阪」の項、中井正弘 1981『伝仁徳陵と百舌鳥古墳群』等の文献を 多いに参照させて頂いた。
2.久米田貝吹山古墳の発掘調査現地において、吉井秀夫氏に丁寧に説明して頂き、その後、和田晴吾氏には摩湯 山古墳やその周辺の古墳を案内して頂いた。感謝である。
3.西摂地域の古墳、六甲南麓の沿岸部の古墳については、調査報告書以外に、『兵庫県史』第 1 巻、考古資料編、
『尼崎市史』第 1 巻、『伊丹市史』第 1 巻、『西宮市史』第 1 巻、『新修神戸市史』歴史編ほかを参考にした。
4.多聞古墳群と舞子古墳群については、調査概要報告書以外に、『新修神戸市史』歴史編、渡辺信行 1986、宮本博 1984 の論考を参考にした。
5.播磨灘に面する古墳の項では、調査報告以外に、『明石市史』第 4 巻考古編、『加古川市史』第 1 巻、『龍野市史』
第 4 巻、『相生市史』第 1 巻、『赤穂市史』第 4 巻などを参考にした。
6.明石市立文化博物館編 1993『発掘された明石の歴史展』を参考に、現地の発掘調査時やその後の整理時の埴輪 の観察については、稲原明壽氏に教示を受けた。感謝。
7.淡路の古墳については、多くの文献を参考にさせて頂いたが、岡本稔・西野慶隆 1987「淡路島内古墳概観」(『淡 路・沖ノ島』)、和田晴吾 1996「淡路島の古墳」を主に参考にさせて頂いた。
終章-結語-
初期ヤマト王権は、畿内諸地域の有力首長達が、弥生時代終末期に力量を伸ばしてきた大和東南 部の有力首長を王の中の王として推戴したことから始まっている。その中に吉備地域の政治勢力も その初期から参画していた。初期ヤマト王権は連合の結果出来上がった初期国家なのである。三世 紀末ごろの出来事である。
タニワの政治勢力は、列島内の覇権ををめぐって争っていたが、帰趨が決したとみて、この政権 に吉備地域の首長達より、若干遅れて参画した。方向は決定した。
出雲・伯耆・因幡諸地域の四隅突出型墳丘墓を共有していた山陰の政治勢力は、初期には参画せ ず等閑視していたのであろう。そして、古墳時代前期には、方形墳と長大な竪穴式石室の組み合わ せの古墳を築いている。神原神社古墳と安来平野の造山古墳群である。前者は粘土棺床を設置して おり、後者は礫棺床である。
列島内に中心の政治体制が出来上がったのである。中枢部は大和東南部に置かれた政権である。
大和盆地東南部に築かれている広義の大和古墳群には、箸墓古墳→西殿塚古墳→渋谷向山古墳→
行燈山古墳という倭国王墓とも目される墳長200m以上の超大形前方後円墳が4基も継続して築造さ れ続けている。
大和古墳群の直ぐ南側の、いわゆる磐余の地には、古墳群を形成せず、単独的様相をもって築か れた桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳という 200m を超す超大形前方後円墳も存在している。
このことは、日本列島内に政治権力の中心部が形成されたことを物語がっており、奈良県東南部 の地に出現期古墳から古墳前期後半にかけて、大王墓と大王クラスの王墓とも捉えられる超大形前 方後円墳が 6 基も築造されていることが、日本列島内に中枢部が形成された状況が現出していると 捉えられる。
この現象を捉えて、初期ヤマト政権の成立と把握している。
弥生時代後期後半から終末期にかけて、瀬戸内地域の楯築墳丘墓等や山陰地域の西谷 3 号墳丘墓 等や丹後地域の今井赤坂墳丘墓等で展開された各地域の弥生王墓とも目される墳丘墓は、100m を超 える規模の墳丘墓は存在しない。
これらの弥生墳丘墓の埋葬施設の構造は多様で、楯築墳丘墓は木槨墓であり、丹後地域には舟底 形木棺と呼称される舟形木棺直葬墓という埋葬様式を共有している勢力が存在しており、丹後王墓 と称されれる今井赤坂墳丘墓も舟形木棺直葬墓である。
山陰地域の四隅突出型墳丘墓の世界では、最高位の埋葬施設は木槨墓であり、中小規模の首長墓 の埋葬施設は組合式木棺直葬墓である。
吉備地域の最高位の埋葬施設は、前述しているように楯築墳丘墓に採用された木槨墓であり、山 陰地域と共有している。しかし、ナンバー2の首長墓の埋葬施設は短小型タイプの竪穴式石室を採 用しており、支配階級の階層差のあり方が、山陰地域の四隅突出型墳丘墓の世界とは異なっていた のであろう。
これらの弥生墳丘墓の平面形態は、出雲地域・伯耆地域・因幡地域の山陰地域では四隅突出型墳 丘墓を採用していることで共有しているが、同じ現在では、山陰地域と呼称される丹後地域・但馬 地域は方形墳丘墓の世界でである。
その間の隔絶は極めて大きい。
邪馬台国問題は弥生時代の中の出来事であり、大和朝廷とも言われる古墳時代の開始期との関係 は根本的にその政治構造は異質である。
この論文の根幹である第 3 章は、いまから 30 年前の 1980 年に、『ヒストリア』に書いた論文を基 調にしているが、その後の近畿地域の主要な前期前方後円墳の発掘調査の急増やそれらを参考に新 しい視点で叙述された埋葬施設の論文は、新しい展開を示している。それらの発掘調査報告書や論 文を参考に、根幹部分は大きくは改変していないが、新稿に近いかたちに書き改めたのが第 3 章で ある。
第 3 章「畿内地域の竪穴式石室の研究―古墳時代の政治動向―」では、初期ヤマト王権が成立し て以降の政治状況を長大型竪穴式石室の基底部構造を首座において、墳形とその規模を関連づけて 論じている
古墳時代前期には、畿内地域とその周辺の 100m を前後する規模以上の前方後円墳の埋葬施設には、
長大型竪穴式石室が採用されており、木棺を安置する基底部には、粘土棺床とその四周と下部に礫 石を使用する基底部構造が採用されている。そして、その構築には幾度もの朱彩がなされるいう儀 礼的行為が実修されている。
こうした基底部を採用する目的を遺体・木棺の保護という論稿が多い傾向にあるが、正鵠を射て いないであろう。その根拠は、「畿内様式」とも言える粘土棺床とその四周・下部に礫石を使用する 基底部構造をもつ竪穴式石室が限定的な分布状況を呈しているからである。畿内地域と吉備地域を 中心に、西日本に局地的、拠点的に分布している状況にすぎない。
また、粘土棺床のみを設置し、周囲や下部に礫石を使用しない長大型竪穴式石室も広く分布して おり、粘土棺床も設置しない長大型竪穴式石室が畿内地域周辺や東海地域や関東地域にも多く知ら れている。木棺・遺体の保護とい普遍的な思想からみれば、このような状況は不適合であると言え るであろう。
古墳はその成立当初から、墳形、棺槨構造、副葬品の内容に至るまで画一的な構成要素をもって 出現している。共通のイデオロギーのもと、古墳成立前夜の弥生墳丘墓段階の政治的関係を止揚し て、小異を捨て大同団結した姿態が初期ヤマト政権であり、政治的連合関係が成立した結果にほか ならない。
古代中国は、後漢末期から混乱しつづけていた。東アジアの政治状況に対応する必要上、倭国に も中心を形成する必要に迫られていた。初期ヤマト政権は対外交渉を行なうために中枢部を形成す る必要性に迫られて出来上がった性格を帯びた政権である可能性がたかい。これは、中国における 魏王朝の冊封体制のの中に取り込まれた邪馬台国が展開できる政治情況の問題ではない。
このことを実証する手段として、大王墓や地域王墓に採用された長大型竪穴式石室の基底部構造