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内場山墳丘墓出土の素環頭太刀と鉄鏃をめぐって 1.素環頭太刀

ドキュメント内 方墳の研究については長い歴史がある (ページ 36-39)

第9章 タニワ(兵庫)の長刀と墳墓

第3節 内場山墳丘墓出土の素環頭太刀と鉄鏃をめぐって 1.素環頭太刀

内場山墳丘墓出土の素環頭太刀を弥生時代の最大級の長刀と前述したが、今尾論文(今尾 1982)

によれば、弥生時代では、福岡県前原上町遺跡の箱形石棺出土の素環頭太刀が最大で 118.9 ㎝であ る。

奈良県東大寺山古墳出土の後漢・中平(184~189 年)の紀年銘を金象嵌した三葉環頭太刀(全長 110 ㎝)のもとの形が素環頭太刀であった可能性がきわめて高いと指摘(金関 1985)されており、

舶載された長刀としては古い例である。

日本海側で弥生時代の素環頭のない長刀の出土例が知られている。鳥取県宮内1号墓出土の後期 中葉の太刀は全長 94.5 ㎝、兵庫県妙楽寺 4A号墓第2主体の後期末から終末期初頭の太刀は全長 94.5 ㎝、福井県乃木山墳丘墓1号埋葬施設出土の終末期の太刀は全長 112 ㎝である。これらは素環

長刀が形作られた(池淵 1998、村上 2000)と捉えられ、山陰・北陸の日本海側に分布の中心がある と指摘されている。

鳥取県青谷上寺遺跡から裁断された環頭部の出土によってその蓋然性がきわめて高くなり(村上 2003)、乃木山墳丘墓では墓壙内から太刀と裁断された環頭が出土し、埋葬時に環頭裁断を伴う儀礼 の存在(池淵 2003)指摘されている。

内場山墳丘墓出土の 93.5 ㎝の素環頭太刀を超える弥生時代の長刀の例は管見では以上のような ところである。

なお、京都府椿井大塚山古墳出土の素環頭太刀 93.3 ㎝、島根県神原神社古墳出土の素環頭太刀 92.3 ㎝であり、最古期の古墳の有力な被葬者と同じ規模の素環頭太刀を内場山墳丘墓の被葬者は保 有していたことになる。

長刀や太刀と記述してきたが、その基準の分類のことを等閑視してきた。鉄剣や鉄刀等によって 分類の基準がことなるが、研究史を含めて川越哲志の『弥生時代の鉄器文化』(川越 1993)に詳述 されている。素環頭刀と素環頭刀子の区別の基準については、全長 36 ㎝以上を武器の素環頭刀とし、

36 ㎝以下を書刀・工具の素環頭刀子とする町田章説(町田 1976)を支持している。素環頭刀と素環 頭太刀については、当時の列島には刀の大小を区別する制がなかったとみられるので実際的ではな いとあえて基準を設定されない。

成案はないのであるが、今尾氏(今尾 1982)の 60 ㎝の基準を参照に、60 ㎝以上のものを素環頭 太刀とし、60~36 ㎝のものを素環頭刀と記述し、36 ㎝以下のものを素環頭刀子としておきたい。

鉄剣についても短剣と長剣の分類基準が曖昧で一定していないが、長さ 30 ㎝前後を境に区分され ていることが一般的なので、従っておきたい。

丹後地域における弥生時代の素環頭刀の出土例は、後期前半に 2 例が知られている。いずれも長 刀でなく、一つは三坂神社 3 号墓中心埋葬の第 10 主体部出土例で、全長 29.0 ㎝の素環頭刀子であ り、あと一例は左坂 26 墓第 2 主体から全長 40.8 ㎝の素環頭刀である。いずれも刀に遺存する木質 痕跡から把手・鞘が着装された状態の副葬であった。

これ以後、弥生時代後期後半の丹後地域では鉄刀が副葬されることなく、鉄剣が好まれて副葬さ れる。大風呂南1号墓の中心埋葬第 1 主体部からは 11 本の鉄剣が副葬されていた。副葬状況は長剣 2 振(第 9 図-4・5)が被葬者の右側の腰部と足下に縦列に配置され、短剣 9 振は、頭部両側に、右 5 振と左 4 振を布に巻いて束にして置かれていた。長剣は柄木と鞘の木質の痕跡が遺存しており、木 製装具を着装した状態で副葬され、短剣は抜身のまま束にして副葬されるという取扱いの違いが認 められる。

長剣には茎に目釘孔を有し、多くの短剣に認められる刃関双孔をもつ第 9 図の 5(長さ 50.2 ㎝)

ともたない第 9 図の 4(長さ 59.0 ㎝)があり、刃関双孔をもつ長剣 5 は柄木が呑式口で茎長が短い 形態である。短剣は第 9 図 8 が若干長く 40.8 ㎝であるが、他は 37.6~31.9 ㎝の間に収まる。

長剣には身に鎬がとおり、身も厚く優品であり、短剣は鎬がなく、扁平である。大風呂南 1 号墓 の長剣は福井県乃木山墳墓第 1 埋葬施設から出土した素環頭長剣の存在から、もとは素環頭の可能 性を考えたいところであり、今後の検討が必要であろう。

刀剣類の副葬状況で、優品な刀剣を特別扱いする例は、奈良県東大寺山古墳(金関 1975)でも認 められ、銅製の環頭や素環頭をもつ太刀は棺外の東側に、環頭をもたない刀剣類は棺の西側に副葬 されていた。そして、紀年銘太刀は東側刀剣類の最も北端の上に置かれていた。これらの淵源は、

すでに丹後地域の弥生時代後期後半の墳丘墓に出現していたと指摘できる。

なお、大風呂南 1 号墓の中心埋葬重複周辺埋葬第 2 主体部から短剣 2 振(第 9 図 21・22)が副葬 されており、第 9 図の短剣 21 は長さ 41.1 ㎝で木製装具を備えており、短剣 22 は長さ 24.2 ㎝で抜 身副葬であることが興味深い事例である。

2.鉄鏃について

内場山墳丘墓出土の鑿頭式鉄鏃を報告書に従い、平根系と前述したが、鑿頭式鉄鏃を分析した池 渕氏の論考(池渕 2002)の鏃身寸法による分類にあてはめれば、内場山 2 類は池渕分類 A2 類(平 根系)に、内場山 1 類は池渕分類の B2 類(有稜系)の数値に収まる。なお、池渕氏は典型的な平根 系はA1 類,典型的な有稜系はB1類とし、B2 類を平根系に近い一群と分類する。

平根系(A群)と有稜系(B群)が組合さって前期古墳の副葬鏃の成立(松木 1991)を解き、こ の分類の提唱者である松木武彦の規定の本質、すなわち、有稜系は類型的、企画的で個体差が小さ く、平根系は形態が多様で個体差大きいということを適用すれば、内場山出土の鑿頭式鉄鏃は有稜 系の副葬鏃の範疇に捉えても問題が少ないのであろう。

弥生時代終末期の丹後・内和田 5 号墓中心埋葬SX01 にも、内場山 1 類の鑿頭式鉄鏃 9 本が平根 系の柳葉式鉄鏃 1 本と副葬されていた。内和田 5 号墓は内場山墳丘墓と同時期の墳丘墓であるが、

内場山墳丘墓より小規模で、長辺 15.0m、短辺 12.5mである。また、内和田 5 号墓墳頂周辺埋葬S X12 からもSX01 と同類の鑿頭式鉄鏃 1 本が副葬されている。なお、内和田 4 号墓から、奈良県ホ ケノ山前方後円形墳丘墓から同形式の箆被のある柳葉式銅鏃 2 本が副葬されているのは興味深い現 象である。

第 10 図-15 は、但馬・駄坂舟隠 9 号墓第 11 主体から出土した箆被を付した円孔のある弥生終末 期のめずらしい鑿頭式鉄鏃である。

北陸地方の福井県原目山 2 号墓第 2 主体部に 1 本、石川県小菅波 4 号墓 2 号主体部に 2 本の平根 系の鑿頭式鉄鏃が出土している。鑿頭式鉄鏃は、定型化した古墳出現以前の丹波・丹後地域を中心 に、日本海地域に分布の中心があることは動かないであろう。鑿頭式鉄鏃の出現は弥生時代終末期 であろう。そして、この分布の中心地域で創出された鉄鏃型式である。このことはすでに池渕(池 渕 2002)が指摘されていることである

最古期の古墳である景初三年銘三角縁神獣鏡が出土した島根県神原神社古墳(長辺 27~30m、短 辺 22~26m の長方墳)から 36 本もの有稜系の鑿頭式鉄鏃が副葬されていた。その内の 3 本(第 10 図 25)は圭頭状で定角式に近いものであるが、鑿頭式の範疇で捉えられている。そして、池渕氏は この有稜系の鑿頭式鉄鏃を鉄器の製作技術からみて畿内地域から一括配布された鑿頭式鉄鏃と解釈 している。この点については賛意を表し難い。私の捉える弥生時代終末期の墳丘墓を含まれている が、池淵のいう「古墳時代初頭の鏃3形式」を副葬していない、私が捉える最古期の古墳に「鏃3

65 点の鉄鏃の内、有稜系の鑿頭式鉄鏃は 10 本出土している。

第 10 図 1・2 は丹後地域出土の弥生時代後期前半の無茎三角式鉄鏃である。第 10 図-3・4 は弥生 時代後期後半の丹後・金山 1 号墓墳丘周辺埋葬 SX10 から出土した無形三角式鉄鏃である。その間に 型式的変遷は読取れる。両者の無形三角鉄鏃は弥生時代中期から後期に列島の中で発達する通有の 鉄鏃型式である。なお、この金山 1 号墓 SX10 は墳裾平坦面に築かれた埋葬施設であるが、12 点も 多くの鉄器が墓壙上に供献されるような形で置かれた特殊な出土状態であった。その中には素環頭 状刀子鉄器が含まれており,集団な内の役割分担が彷彿とさせる出土状態であった。すなわち、鉄 器製作の工人集団の長は墳裾平坦面に埋葬されると言う実態である。

第10 図5 は但馬・長谷ハナ1 号墓の無形式の抉りが深く、身の側縁が真直ぐ延びる形態の鉄鏃は、

弥生時代後期から終末期にかけて北部九州で発達する型式である。

第 10 図 8・9 平根系の鉄鏃は、大風呂南 1 号墓中心埋葬第 1 主体部の副葬品であり、8 が定角式 鉄鏃で、9 が柳葉式鉄鏃である。丹後の王墓の系譜を引く内場山墳丘墓の鑿頭式鉄鏃を含めると「鏃 3形式」の基本形がすでに丹後の王墓に副葬されており、その萌芽が読取れるのではいうねらいで ある。

第 11 図は大和地域のホケノ山墳丘墓・中山大塚「古墳」・黒塚古墳の副葬鏃の組合せの比較を意 図したもので、ホケノ山墳丘墓に「鏃 3 形式」が採用されていないことが判るであろう。図 8 の山 口県国森墳丘墓、愛媛県朝日谷 2 号墓などにはすでに「鏃 3 形式」が成立している。

ドキュメント内 方墳の研究については長い歴史がある (ページ 36-39)