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内場山墳丘墓のその後-まとめ-

ドキュメント内 方墳の研究については長い歴史がある (ページ 41-53)

第9章 タニワ(兵庫)の長刀と墳墓

第5節 内場山墳丘墓のその後-まとめ-

内場山墳丘墓を丹後の王墓の南進という基調で論述してきたが、内場山墳丘墓からのその後は、

どういう展開が考えられるであろう。

当時の海上交通の主要幹線である瀬戸内海航路の基点を目指し、更なる南進を進めたのではない かと捉えている。その証拠を示す遺跡として、兵庫県姫路市丁瓢塚古墳と兵庫県神戸市西求女塚古 墳があげられる。

姫路市丁瓢塚古墳は、播磨地域の揖保川下流域の平地に立地する。前方部が撥形に開く箸墓古墳 と相似形の平面形態を採る古墳であるが、段築の手法は異なっている。播磨地域の最古級で最大の 前方後円墳であることは動かない。丁瓢塚古墳は墳長 104m の前方後円墳である。丹後地域や山陰地

域に分布する円形や半円形のスタンプで飾る特異な土器が採集(図 13)されている。丁瓢塚古墳の 前面に広がる丁柳ヶ瀬遺跡から弥生時代終末期後半の丹後系土器がきわめて多く出土していること からその可能性を考えている。この古墳は史跡として保存されており、それ以上の情報は存在しな い。

神戸市西求女塚古墳は、六甲山南麓の標高 6m前後の砂堆上に立地している。古墳築造当時には 約 100mで海岸線に達する位置に築かれている。墳長約 95mの前方後方墳であり、後方部中央に特 異な長大型の竪穴式石室が構築されていた。石室上部から出土した供献土器群は、丹後系土器群で 占められているといってもよい状況である。副葬された 65 点の内、鑿頭式鉄鏃 10 本が出土してお り、丹後地域で伝統的な無茎小形三角鏃 26 本、無茎五角形鏃 5 本、有茎大形三角鏃 13 本という構 成である。出現期古墳古墳の中でも特異な鉄鏃型式の組合せであり、そこにも丹後の王の古墳であ る可能性が高いこと訴えている様相を示している。

論証不足の観もあるが、丹後地域の王墓の移動(南進)を考えている。以上、縷々述べてきたの は、弥生後期後半の大風呂南 1 号墓から今井赤坂墳丘墓(終末期前半)→内場山墳丘墓(終末期後 半)→丁瓢塚古墳(古墳前期前半)→西求女塚古墳(古墳前期前半)→網野銚子山(前方後円墳、

墳長 198m、古墳前期後半)→神明山古墳(前方後円墳、墳長約 190m、古墳前期後半)→蛭子山古墳

(前方後円墳、墳長 145、古墳前期後半)が、「丹後王」の本宗家ともいうべき系譜であろうと思考 していることを論証したいことにあった。

このように捉えてみれば、前期後半に大王墓クラスの丹後三大古墳が丹後の地に築造されるのも 納得できるところがある。弥生時代終末期後半から出現期古墳までは、丹後の王も覇権を目指し南 進したが、大和東南部に政権中枢が成立し、帰趨は決したのである。そこで、丹後の王は本貫地に 帰ったのである。丹後の王の果たしたヤマト政権の中で占める政治的な位置の大きさが丹後三大古 墳を丹後の地に築造させ続けたのである。

第 10 章 王権と海上交通・序説 -大阪湾と播磨灘に面する古墳を中心に-

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