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―山梨県の「天と地と」(1969 年),「武田信玄」(1988 年),「風林火山」(2007 年)―

第1節 はじめに

大河ドラマは,2017年現在,50年以上続く長寿番組となっている。同番組は,1963 年放映開始当初,多くの人にテレビを見てもらうことを目的として番組が制作された

1)。同番組が放映回数を重ねるごとに,視聴者に認知され,高視聴率を記録するように なった。そして,NHK が本来目的としていた「視聴者にテレビを見てもらう」という 考えだけに留まらず,視聴者が舞台地を訪れる旅行形態が 1965年からみられはじめた

2)。このことをうけ,大河ドラマの舞台地では,大河ドラマに関連する人物や史跡の観 光活用がはじまり誘客効果があらわれた。しかし,舞台地の誘客効果は,大河ドラマ 放映年に限られたものが多かった 3)

このことに鑑みて,NHK は 1980 年代後半から 1990年代前半にかけて,舞台地と 協働し,ロケセットを建設した 4)。これは,大河ドラマ放映後も舞台地の誘客に資す ることを目的としたものであった。1994年以降,ロケセットの建設は行われなくなっ たが,舞台地による観光活用は現在も続いている。現在は観光活用だけでなく,地域 振興や災害復興支援を目的に,大河ドラマを活用する舞台地もみられるようになった

5)。このように大河ドラマの観光活用は,時代により変化している。

山梨県は,1960年代,1980年代,2000年代の合計3 度,大河ドラマの主な舞台地 となり,3作品の主要登場人物は武田信玄であった。これらの大河ドラマに関する研究 としては,以下のものがある。

及川(2011)は,武田信玄が山梨県の歴史上の人物として扱われるようになった経 緯をまとめた。そして,現在も山梨県にとって武田信玄が特別な存在として位置づけ,

象徴する人物であることを考察した。新谷(2005)は,1950年代頃に武田信玄の観光 活用がはじまったことを指摘した。そして,1966(昭和 41)年に甲府信玄公祭りが,

観光誘客の手段として創作されたことを述べた。加えて,平山(2015)は,大河ドラ マ「天と地と」(1969)の放映により武田信玄が全国的に認知され,山梨県で武田信玄 の観光活用が活発化したことを指摘した。また,鈴木(2011)は,小淵沢町(現:北 杜市)が「武田信玄」(1988)放映時に,10,000 ㎡の敷地にロケセットを建設し,同 町に例年にも増して観光客が例訪れたことを指摘した。さらには,NHK(2011)の解 説によると,「風林火山」放映時の誘客活動は,山梨県の民間企業や経済界が主導して 博覧会を実施し,成果をあげたとしている。

このように山梨県を舞台とした大河ドラマは,時代とともに活用方法が異なってい る。そこで本稿では,大河ドラマ「天と地と」(1969),「武田信玄」(1988),「風林火 山」(2007)の3作品をとりあげ,舞台地となった山梨県における大河ドラマの観光活 用の違いを明らかにする。

研究方法として,「天と地と」(1969)は大河ドラマに関連する文献・新聞記事,「武田 信玄」(1988)については小淵沢町の刊行物「八ヶ岳ジャーナル」,「広報こぶちざわ」

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や新聞記事,「風林火山」(2007)は山梨県観光部観光振興課の提供資料を各々用いた。

また,2015 年 6 月に山梨県庁及び甲府市役所において聞き取りを行うとともに,「風 林火山」(2007)放映時にガイド活動を行っていたボランティアガイドからは,当時の 観光客の動向を聴取した。なお、本研究におけるアンケート調査あるいは聞き取り調 査については、本研究について詳細に説明した後、その結果は本論文作成のみのため に使用することで承諾を得ている。また、調査を行った後,複数回やり取りを行い,

内容に不備がないか確認のうえ,本論文に記載している。

図 3-1 研究対象地域

(筆者作成)

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第2節 山梨県の観光

1.交通網の整備と観光客の推移

(1)高度経済成長期(1955~1974 年)

山梨県が観光地の開発を始めたのは,1950年代中頃からである。これは,第二次世 界大戦後,県内の交通網の整備が始まった頃と同時期とされている 6)。景勝地の昇仙 峡や,歴史上の人物武田信玄が観光資源として活用されるようになった 7)。また,1960

(昭和35)年1 月に東八代郡石和町(現:笛吹市)で,掘削により温泉が湧出したこ とを契機に,石和町の石和駅(現:石和温泉駅)周辺に 旅館やホテルが建てられ,温 泉地として整備された 8)

1958(昭和 33)年に国道20号(甲州街道)の新笹子トンネル(全長 2,953m)が開

通したことで,甲府-東京間の移動が5 時間 20分から 1 時間 40分短縮され,3 時間 40分となり9),自動車の交通量が増加した(図 3-2)。

『山梨県統計年鑑』(1965)によると,山梨県で観光統計が始まった 1956 年度に,

721 万人の観光客が訪れている。統計方法は,富士山や富士五湖などについては車の 台数を観光客数に換算した観光客入込流量調査方式を採用している。 年度統計の最後 である1963年度には 1,102万人となり,7年間で観光客数が 1.5倍に増加した。

1964(昭和39)年 4 月に,県営富士山有料道路(富士スバルライン)が開通し,河

口湖畔から富士5 合目の標高2,340mまで自動車で行くことが可能になった。1967(昭

和 42)年には,新御坂トンネル(全長 2,778m)が開通し,県庁所在地の甲府市と富

士吉田市間の時間距離が短縮された。同年の山梨県の観光客数は,前年の 1,431 万人 を189万人上回る 1,602万人を数え,1968(昭和 43)年以降も増加傾向を示した(図 3-3)。

さらに,1969(昭和 44)年に,中央自動車道富士吉田線の河口湖 IC と相模湖 IC 区間の開通に伴い,甲府-東京間の所要時間がこれまでの 2時間 46 分から 1 時間 12 分短縮の 1時間 34分,甲府-名古屋間の所要時間が 6 時間 42 分から 3 時間 13 分短 縮の 3 時間 29 分となった 10)。同年 1 月から大河ドラマ「天と地と」の放映が開始さ れ,この年の観光客数は前年比 361万人増加の2,085万人となった。

翌 1970(昭和 45)年には,国鉄中央本線新宿-甲府間の全線複線化により時間短

縮となった。続く 1971(昭和 46)年の甲府バイパス完成と河口湖大橋の開通 ,1973

(昭和48)年の甲府精進湖有料道路(現:国道358号)の開通などにより,山梨県の

交通網が整備された 11)

このように,山梨県の交通網整備に伴って観光客は増加し,1964(昭和 39)年の 1,301万人から 1974(昭和 49)年には2.1倍の 2,705万人に増加した。

高度経済成長時代の 1963(昭和 38)年に観光基本法が制定され,大衆旅行が活発 化した。高度経済成長がピークに達した 1970(昭和 45)年には,国鉄による「ディ スカバー・ジャパン」キャンペーンが行われ,レジャー・ブームが起きた。この結果 , 団体旅行だけでなく個人客による国内旅行も増加し,観光客の増加に拍車をかけた。

(2)安定経済成長期(1975~1984 年)

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図 3-2 山梨県の観光客数の推移と交通網の整備(1956~1963 年度)

資料:『山梨県の歴史(県史 19)』および『山梨県観 光統計年鑑昭和38年度版 』をもとに筆者作成 注:1956~1963年 度の統計は年度単位であり,車の台数を観光客数に換算した観光客入込流量

調査方式を採用している。

図 3-3 山梨県の観光客数の推移と交通網の整備(1966~1974 年)

資料:『山梨県の歴史(県史19)』および山梨県統計 データバンクをもとに筆者作成

注:1964年以 降の統計は年単位であ り,車の台数を観光客数に換算した観光客入込流量 調査方式を採用している。

0 500 1,000 1,500 2,000

1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963

0 500 1,000 1,500 2,000 2,500 3,000

1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974

宿

(年)

I C

(万人)

(年度)

(万人)

51

785m)が開通,同年 12 月に甲府市勝沼町から笛吹市に至る勝沼バイパスが完成した

ことで 12),翌 1978(昭和 53)年に観光客が 165万人増加の 2,986万人を数えた(図

3-4)。さらに,1979(昭和 54)年には,赤石山脈北部を横断する南アルプススーパ

ー林道が完成し,年間観光客数が3,000万人を突破した。1981(昭和 56)年は中央自 動車道甲府以西,および甲府北バイパスの完成,翌 1982年には勝沼IC-甲府昭和 IC 間が完成し,これにより中央自動車道が全線開通した13)

観光客数は,安定経済成長に移行した 1975 年は 2,729 万人であるが,1984(昭和 59)年には 3,398万人を数え,9 年間で 1.2 倍の 669 万人の増加となった。高度経済 成長時代と比較すると,観光客の 増加率は低く留まったが,交通の発展に伴い観光客 は増加傾向を示した。

(3)バブル経済期(1985~1991 年)

1985(昭和 60)年以降,山梨県を訪れる観光客数は 3,400万人を上回った(図 3-

5)。そして,大河ドラマ「武田信玄」(1988)の放映年には,過去最高の 3,920万人を

数えた。しかし,翌 1989 年に観光客数は 285 万人減少し 3,635 万人となり,その後 は1991年までほぼ横ばいの数値を示した。観光客数は,1985年の 3,452万人からバ ブル経済が終焉した1991年には3,709万人を示し,6年間の増加率は1.1倍であった。

(4)1992~1998 年

バブル経済期後は,景気が後退し平成不況と呼ばれる時代に入った。山梨県の観光

図 3-4 山梨県の観光客数の推移と交通網の整備(1975~1984 年)

資料:『山梨県の歴史(県史 19)』および山梨県統計 データバンクをもとに筆者作成

注:統計方法は車の台数を観光客数に換算した観光客入込流量調査方式を 採 用 し て い る 。 0

1,000 2,000 3,000 4,000

1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984

西

(年)

(万人)