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第1節 はじめに

2000年以降,多くの放送局でテレビ番組の視聴率の低迷が深刻化してきた。この視 聴率の低迷は,NHKの大河ドラマも同様であった 1)

1990 年代まで,大河ドラマの年間平均視聴率が 20%を下回る時には,ドラマの題 材に対する視聴者のなじみの薄さや,物語の分かりにくさが指摘されていた 2)。この 指摘がある一方,2000~2009 年の大河ドラマの年間平均視聴率が 20%を上回ったの は,「利家とまつ」(2002),「功名が辻」(2006),「篤姫」(2008),「天地人」(2009)

の 4 作品であった 3)。この作品の主人公らは,歴史の教科書や小説の題材として取り 上げられることは少なく,視聴者のなじみは薄いと考える。

とくに「篤姫」(2008)は,出身地の鹿児島県内でも大河ドラマ放映まで殆ど知られ ていなかった人物であった 4)。しかし,年間平均視聴率は 24.5%となり 5),大河ドラ マ放映後には,鹿児島市と指宿市の両市で篤姫の銅像が建立された 6)。さらに指宿市 では,大河ドラマ放映中から地域住民の観光客に対する意識変化がみられた。また,

放映後は,指宿市内の小学校で,篤姫に関する教育が行われるようになり,観光活用 だけでなく,地域の教育に広がりをみせ,地域振興につながっている。

深見(2009)は,「篤姫」(2008)を活用した鹿児島県内の観光動向や波及効果につ いて述べている。その中で,大河ドラマが持つマス・ツーリズム的要素と,まち歩き という景観や街並みを地域資源として捉えるスモール・ツーリズム的な観光形態 が融 合するためには,地域住民が主体となり,住民自身が暮らしているまちの特質を知る ことが必要であると指摘している。

中谷(2007)は,メディアが与える観光地のイメージ形成に関して,観光地に訪れ ようとする人々が訪問先を選択する際に,メディアが大きな影響力を持ち,さらに,

メディアに紹介された場所が新たに観光地化される可能性をも含むと指摘している。

また,中西(2011)は,これまでメディアという情報媒体は,観光資源を媒介する ことに利用されてきたことを複数の事例をあげて示した。しかし,近年ではメディア が観光地を創造するという現象がみられ,メディアが観光地のイメージ形成の一助と なっていると論じている。

神田(2014)も,テレビや映画,アニメなどのメディアが,地域のイメージをつく

ることで,誘客に有効であると述べている。一方,メディアがつくりだしたイメージ が必ずしも地域住民に肯定的に受け入れられず,観光客による一方的な地域イメージ がつくられることにより,地域住民に被害があるこ とも指摘している。

下平尾(1997)は,地域振興について,産業振興,若者の定着,地域住民が郷土に

対し誇りを育む政策推進,基盤整備を総合的に推進することと定義しており,本稿で は,この定義を当てはめる。

本稿は,大河ドラマ「篤姫」(2008)をとりあげ,舞台地となった鹿児島県指宿市に おける地域振興を明らかにする。

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具体的には,鹿児島県観光交流局からの提供資料『大河ドラマ「篤姫」キャンペー ン事業報告書』,指宿市観光協会から提供された資料などの文献・資料を整理し,分析 する。また,現地調査は2015年12月に鹿児島県観光交流局,指宿市観光協会篤姫観 光ガイド,鹿児島市ボランティア協会に対して聞き取り調査を行った。その際,指宿 市観光協会篤姫ボランティアガイド発足時から活動されているガイドからも話を聞い た。なお、本研究におけるアンケート調査あるいは聞き取り調査については、本研究 について詳細に説明した後、その結果は本論文作成のみのために使用することで承諾 を得ている。また、調査を行った後,複数回やり取りを行い,内容に不備がないか確 認のうえ,本論文に記載している。

図 8-1 鹿児島県指宿市の位置

(筆者作成)

第2節 大河ドラマ「篤姫」の放映

1.大河ドラマ「篤姫」の制作者の見解

大河ドラマ「篤姫」は,鹿児島県出身の天璋院篤姫を主人公にした作品である 。2008 年 1月 6 日から 12月 14 日までに,全 50 回放映された。幕末を舞台にした大河ドラ マは,視聴率が低い状況にあるなかでの女性を主人公にした作品であった。この「篤 姫」の脚本を担当した田渕久美子は,作品に対する考えを次のように述べている。

「この国が混乱を極めていた時代に、最後まで『誇り』と『覚悟』を失わなかった

指宿市役所

JR指宿駅 池田湖

枕 崎

JR薩摩今和泉駅

鹿児島県立指宿商業高校 鹿 児島

指宿市立今和泉小学校

鹿児島市

JR東開聞駅 開聞岳

鰻池

鹿児島湾

JR指宿枕崎線

0 2km

0 25km

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女性,篤姫。愛する故郷である薩摩が,そして皮肉にも婚礼の仕度役だった西郷が 刃を向けてきたとき,実家よりも婚家を守り通そうとしたその姿勢に ,日本人が失 ってしまった,そして,今の日本人になによりも必要な『何か』が秘められている のではないか。(後略)」7)

また,チーフ・プロデューサーをつとめた佐野元彦は,女性を主人公にした「篤姫」

放映の意義を次のように述べている。

「坂本龍馬,高杉晋作,勝海舟……。幕末の英雄といえば,男性ばかりにしか目が いっていなかった私にとって,『天璋院篤姫』は本当に新鮮な驚きでした。(中略)

もし,江戸城に薩摩藩出身の篤姫がいなかったら ,薩摩藩を中心とした討幕軍は,

江戸城を総攻撃した可能性があったのでは。もしそうなっていたならば ,幕末はさ らなる長い大混乱に陥ったのでは ―― そう思えてならないのです。」8)

これまでの大河ドラマは,幕末の主人公は男性が多く,男性の視点から幕末の世相 を描かれることが多かった。しかし,「篤姫」は女性の活躍に着目し,女性の視点から 幕末を描いた。そして,これまでテレビで取り上げられることが少なかった人物にも,

着目した作品であった。

2.篤姫のドラマ化 (1)天璋院篤姫の生涯

指宿市の資料 9)には,篤姫の生家である今和泉家は,薩摩藩主島津家の一門である と記されている。鎌倉時代の 1318(文保 2)年に,今和泉家の祖である和泉家が島津 第4代当主忠宗の次男忠氏によって構えられた。1417(応永23)年に和泉家の第5代 当主直久が戦死したことで,和泉家は断絶した。327年後の 1744(延享元)年に,島 津家第22代当主継豊の弟忠郷が今和泉家を再興した。

篤姫は,1835(天保6)年 12月19日に,今和泉家第 5代当主忠ただたけの第 4子一子か つ こと して,現在の鹿児島市大龍町で誕生した。当時,今和泉家の本邸は,生誕地と同じ場 所にあり,今和泉家の別邸が,現在の指宿市今和泉地区にあった。この別邸で,篤姫 は18歳で嫁ぐまで過ごしたといわれている。

第 13代将軍徳川家定の妻に島津家が候補となった。しかし,当時の島津家には適齢 の娘がおらず,島津家一門である今和泉家の篤姫が選ばれた。そして,島津家の養女 となった篤姫は,島津家第28代当主斉彬の実子として幕府に届け出された。

1853(嘉永 6)年に,篤姫は薩摩藩をたち,京都の近衛家で再び養女となった。そ

して, 1856(安政 3)年12月18 日に徳川家に輿入れをし,家定の正室となった。し

かし,2 年後の 1858(安政 5)年 7 月に家定が亡くなったため,落飾して天璋院と号

し,前将軍の妻として大奥をとりまとめることになったのである。

1866(慶応 2)年の薩長同盟討幕派の形成により,島津家が徳川家の敵となった。

そこで薩摩藩が,天璋院に対して薩摩藩に戻ってくるよう諭したが,天璋院は戻るこ

170 とはなかった。

1867(慶応 3)年 10月に第 15 代将軍徳川慶喜が大政奉還したことで江戸幕府は終

焉した。翌 1868(明治元)年に,天璋院は官軍の西郷隆盛に対して嘆願書をしたため,

江戸城無血開城と徳川家存続のために尽力した。同年,新政府による天皇を主権とす る新政権が成立し,明治に改元された。

明治維新後も,天璋院は薩摩藩へ戻る機会はあった。しかし,天璋院は終生故郷に は戻らず,一橋邸で余生を送り 1883(明治 16)年 11月20日に 49歳の生涯を閉じた

10)

(2)大河ドラマの内容

大河ドラマの内容 11)をまとめると,篤姫は,島津家の分家である今和泉島津家で生 まれ育った。そして,幼馴染には 肝付尚五郎(後の薩摩藩家老小松帯刀)がいた。幼 少の頃から島津本家の養女になるまで,西郷隆盛や大久保利通など後の明治維新の立 役者となる人物と出会い,交流を深めていく。

篤姫は 19歳の時,薩摩藩当主の島津斉彬の養女となり,島津本家の娘としての教育 を受けた。その後,徳川家第13代将軍家定に輿入れをすることになる。一方,篤姫の 幼馴染である肝付尚五郎は,小松家の養子になり小松帯刀と名前を変える。

篤姫の輿入れは,次期将軍に徳川慶喜を推挙することであり,これは島津斉彬の考 えであった。しかし,篤姫は養父の斉彬の考えとは異なり,慶喜よりも慶福(後の徳 川家茂)の方が将軍にふさわしいと考え推挙する。そのころ篤姫は,家定をハリスに 会見させたが,その後,家定は病状が悪化して死亡した。

家定の死後,篤姫は落飾し天璋院と名を改める。そして,天璋院の望んだとおり,

徳川家茂が第 14代将軍となった。その後,幕府が公武合体を考え,家茂の妻に皇女和 宮が降嫁してきた。和宮と天璋院の間で,公家と武家のしきたりの違いから,大奥で 様々な諍いが起きる。

この間に,日本は開国に向けて進んでいく。これは,幕府の考え方とは異なってい た。開国に向けて活動していたのは,天璋院の故郷である薩摩藩であった。その後,

西郷隆盛が主導して徳川家を取り潰そうと江戸城総攻撃を考えるが,天璋院から送ら れた手紙を読み,西郷は考えを改める。そして,江戸城無 血開城が行われる。

元号が明治に変わり,廃藩置県が行われた。大奥がなくなり,天璋院は住居を移し た。天璋院の転居先に,小松帯刀や西郷隆盛,勝海舟が訪れ,さらに天璋院の母と兄 も訪れ,天璋院を見舞う。誰もが自由に人と会うことができる世の中になったのであ る。

そして,薩摩藩の家老であり,天璋院の幼馴染である小松帯刀が亡くなり,西郷隆 盛も大久保利通と考え方の違いから西南戦争を起こし戦死する。天璋院は,49歳の天 寿をまっとうし,魂が故郷の薩摩へと帰っていく物語である。

第3節 篤姫の認知度

1.大河ドラマ「篤姫」放映決定前の認知度