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第1節 はじめに

映画やテレビドラマを活用した観光は,近年では フィルム・ツーリズム,メディア・

ツーリズム,コンテンツ・ツーリズムと称され,観光客を誘致する地域が増えている。

映画やテレビでとりあげられた人物や建造物,伝統芸能など は,視聴者だけでなく,

住民の関心の高まりがみられる地域もある。大河ドラマ放映の舞台となった多くの地 域では,その機会を利用した誘客効果が認められる。また,大河ドラマによって,地 域住民が知らなかった歴史を掘り起こして観光活用する傾向もみられる。大河ドラマ の主人公の名前を聞いただけで,物語の内容が分かる人もいれば ,実際にドラマを視 聴していない人でも,観光客として舞台地を訪れることもある。

大河ドラマの誘客効果の特徴は,放映年に観光客が増加し,その後は放映前 の観光 客数に戻るというものである 。これは,映像を含めすべてのメディアの有する特徴で ある。放映から時間が経過すると映像自体が消えてしまい,視聴者 (観光客)から忘 れさられるため,メディアで取り上げられた観光施設等に対する興味も低下し,訪れ る人々が減少する(浜野2000)。

メディアを使った観光について,アーリ(1995)は現代社会の多様な事象が観光対 象となっていることを指摘し,観光客がもつ固有のものの見方を 観光客の「まなざし」

と呼んだ。この「まなざし」とは,観光客が日常的に取り囲まれている事象とは異な った尺度や意味に対しての期待を指し,この期待はメディアを視聴するという非観光 的な活動によって作り上げられると述べている。

山口(2014)は,映像が地域の独自性をたくす新たな観光資源を創出する可能性が

あるとしながら,メディアには風化による観光資源の知名度低下という難問があるこ とを指摘している。そして,メディアが誘発する観光資源には経済的価値 1)と社会的 価値 2)の2 つが存在し,両者は区別して捉えるべきであると述べている。

大河ドラマ観光の多くの研究が観光客数,経済効果といった経済的価値に重点を置 いたものであり,山口(2014)が指摘する地域住民の意識変化といった社会的価値に ついて言及した研究成果は少ない 。メディアは風化による認知度低下の問題はあるも のの,地域住民の意識で持続的な地域振興が行われる可能性もあげられる。このこと から地域住民の意識を明らかにすることは重要であると考える。

本稿は,大河ドラマ「 炎ほむら立つ」(1993)をとりあげ,舞台地およびロケ地となった 岩手県奥州市江刺区(旧江刺市)における地域住民の意識変化を明らかにする。

具体的には,江刺市大河ドラマ「炎立つ」協力実行委員会編『NHK 大河ドラマ炎立 つ記録集』,歴史公園「えさし藤原の郷さと」の提供資料,『放送研究と調査』などの文献・

資料を分析する。また,現地調査は2015年9月に,奥州市ロケ推進室および歴史公園

「えさし藤原の郷」において聞き取りを行った。その際,大河ドラマ「炎立つ」実行

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図 7-1 岩手県奥州市江刺区(旧江刺市)の位置

(筆者作成)

委員(1993年当時)からも話を聞くことができた。なお、本研究におけるアンケート 調査あるいは聞き取り調査については、本研究について詳細に説明した後、その結果 は本論文作成のみのために使用することで承諾を得ている。また、調査を行った後,

複数回やり取りを行い,内容に不備がないか確認のうえ,本論文に記載している。

第2節 大河ドラマ「炎立つ」の放映

1.大河ドラマ「炎立つ」放映の経緯

大河ドラマ「炎立つ」が放映された 1993年は,大河ドラマ放映が始まって以来,暦 年で 1 年作の形式をとらなかった唯一の年である(2017年現在)。1993年 1月 10日

~6 月 13 日の半年間は,沖縄が舞台となった「琉球の風」が全 23 話で放映され,そ の後「炎立つ」が1993年7月4 日~1994年3月 13日までの9ヵ月間で全 35話放映 された。この変則的な放映方式の導入については,当時両作品のチーフ・プロデュー サーであった音成正人氏が次のように述べている。

「これまで(1992年まで)の大河ドラマは,歴史上のスターの一代記になりがちで,

中央の勝者側からみる形式が多かった。そして,日本の歴史を地方の視点から見直 すため,ドラマの題材を南と北に求めた。琉球王朝の物語は 1 年間ではきついが,

半年間なら扱える。奥州の方は 140 年間という,大河ドラマ史上最も長い期間のド ラマになるので,半年では収まらず,9か月間を提案した。」

(『大河ドラマの50 年』p.213より引用)

JR水沢駅 北上駅

奥州市江刺区支所

水沢江刺駅

❶ 歴史公園えさし藤原の郷

❷ 蔵町モール

東京 盛岡

盛 岡 市

0 30km

0 5km 奥州市役所

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このような考えから「炎立つ」の放映期間は 9 ヵ月となり,これまでとは異なった 地方政権を題材とした大河ドラマが制作されることとなった。 東北地方が舞台となっ た大河ドラマ「炎立つ」は,奥州藤原氏が活躍した 平安時代の140年間をとりあげた。

大河ドラマでは最も長い期間であったことから,物語は 3 部構成とし,これまでの大 河ドラマと異なり,時代が移り変わるとともに主人公が入れ替わる新たな取り組みが 行われた。

2.奥州藤原氏のドラマ化 ①奥州藤原氏の興亡

平安時代に,奥州藤原氏の祖である藤原経清は郡司として奥州に送られ, 亘わたり郡(宮 城県)に拠点を構えた。その当時,現在の岩手県中央部から南部 は,豪族安倍氏が勢 力を拡大し,支配域を広げていた。これに危機感をもった朝廷は,源頼義を陸奥守と して派遣し,安倍氏と戦いを始めた(前九年の役)。当初,経清は国府の役人として安 倍軍と戦っていたが,後に安倍氏の味方につき, 朝廷軍と戦った。

この戦いで安倍氏は滅亡し,彼らに味方をした藤原経清は殺された。しかし,経清 の妻は生き残り,息子の清衡を連れて敵方の 出羽の豪族である清原武貞に嫁いだ。こ の清原家には,すでに真衡という長男がおり,後に 清経の元妻と武貞との間に清原家 三男の家衡が生まれた。このため,真衡,清衡,家衡は,家庭内でも父母が異なる兄 弟であった。

清原武貞の死後,清原家を継いだのは長男の真衡であったが,真衡と清衡・家衡の 間で争いがおきた。この争い は,真衡が病死したことで沈静化した。その後,清衡と 家衡の間で争いがおき,清衡は妻子と親族を家衡によって殺害された。清衡は敵であ った源義家に助けをもとめ,家衡を倒すことに成功した(後三年の役)。後に清衡は平 泉(岩手県)に屋敷を移した。ここから奥州藤原氏の歴史が始まる。

平泉に館を移した清衡は,争いのない仏国土を目指し,中尊寺を建立した。この中 尊寺は,堂塔,堂内の装飾や仏像,経文など各地から技術者を呼び寄せてつくられた。

そして,1124(天治元)年に中尊寺金色堂が完成し,その 4年後に清衡が亡くなった。

争いのない仏国土を目指した清衡の願いとは裏腹 に,清衡が死ぬと藤原家の家督相 続争いが兄弟間でおきた。この結果,藤原家の 2 代目は基衡となった。基衡は,清衡 の考えを受け継ぎ,仏教の教えを反映 したまちづくりを行い,晩年には毛越寺の建立 を開始した。

基衡の死後,3代目を継いだのは秀衡であった。秀衡は毛越寺を完成させ,さらに無 量光院を建立した。そして,まち の整備を行いながら平泉を都市へと発展させていっ た。秀衡は 1170(嘉応 2)年に平家から鎮守将軍 3),1181(養和元)年には朝廷から 陸奥守の地位を与えられた。

そして,1180(治承 4)年から 1185(元歴 2)年にかけて複数の争いがおき,頼朝 は,当時秀衡のもとにいた弟の義経とともに平家を滅ぼした(治承・寿永の乱)。朝廷 は軍事に優れた義経を重用したが ,頼朝は義経を評価しなかったため,義経は再び秀 衡のもとに戻って来た。これを知った頼朝は,秀衡に対し義経を引き渡すよう働きか

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けるが,秀衡はこの要求を無視した。この後,秀衡は病死する。

秀衡の後を継いだのは 4 代目泰衡である。泰衡は義経とともに頼朝と戦ったが,頼 朝の圧力は強まる一方で,義経をかくまっていることで奥州 は追討を受ける。このた め泰衡は義経を襲撃し,自害 に追い込んだ。その後,泰衡は頼朝と戦うが敗北し,平 泉に火を放ち逃亡した。しかし,逃亡している最中に,家臣の裏切りにより泰衡は殺 害され,1189(文治 5)年に奥州藤原氏は滅亡する。

②大河ドラマでの取り上げられ方

奥州藤原氏は一般に 3 代とされているが,大河ドラマ「炎立つ」では,奥州藤原氏 の祖である藤原経清から滅亡する 4 代泰衡まで取り上げ,2 代基衡を除いて放映され た。第 1 部では,藤原経清が主人公の物語であり,前九年の役を含めた 奥州藤原氏の 前史を主に取り上げている。

第 2 部は,藤原氏の初代とされている清衡が主人公である。清衡と兄弟の戦いであ る後三年の役が描かれており,清衡が奥州制覇を成し遂げるまでの話である。

最終の第 3 部は,3 代秀衡が源義経を預かるところから物語が始まる。 源氏と平家 の戦いで,義経が源氏を勝利に導くが,既述のように奥州藤原氏は頼朝の怒りをかう ことになる。

義経を平泉に迎えた秀衡は亡くなり,泰衡が 後を継いだ。戦を避けるために頼朝と も話し合いをしたが,義経を匿ったことに頼朝の怒りは変わらなかった。泰衡は 義経 が自害したと見せかけて,弟の忠衡の首を頼朝に送る。しかし, このことは失敗して 頼朝の奥州攻めに発展した。泰衡は自分の命と引き換えに平泉の民と平和を守ろうと し,頼朝に平泉を明け渡したが,奥州藤原氏が滅亡していく物語となっている。

(3)低い視聴率

1993年下半期に放映された大河ドラマ「炎立つ」の平均視聴率は,17.7%であった。

当時のNHK では,大河ドラマの平均視聴率は 20%が通常であり,25%を超せば成功,

30%以上であれば大当たり 4)と考えられていた。このことから,「炎立つ」は低視聴率

に留まったといえよう。また,1988年~1998年の大河ドラマ視聴率の推移をみると,

「炎立つ」は 12作品のうち10番目の視聴率であった。

これらの数値から,「炎立つ」は視聴者の関心が低かったことがうかがえる。「炎立 つ」の視聴率の低さは,題材に対する視聴者のなじみの薄さと物話の展開が分かりに くかったことが指摘されている 5)