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塚原 修一

(国立教育政策研究所)

1.はじめに

1.1 地域貢献とは何か

本稿の主題は大学の地域貢献であるが、研究全体の趣旨からいえば、都市に対する大学 の貢献を論ずるべきなのであろう。しかし、「都市貢献」という語はあまり使われないので、

少し意味を広げて本稿をまとめた。大学の地域貢献とは大学の社会貢献の一部であり、そ こに空間的な要因を加味したものである。大学の社会貢献にはふたつの意味があろう。ひ とつは、大学の役割のひとつである社会サービスを社会貢献といいかえる場合であり、も うひとつは、教育や研究を含めた大学活動の成果を総体として社会貢献という場合である。

ここでは後者をとり、大学の社会貢献ないし地域貢献をより広くとらえた。

大学の地域貢献とは、大学が原因で地域が結果であるような影響関係のうち、正の価値 をもつものをさす。大学から地域への影響には負の価値をもつものもある。たとえば、学 生の通学による道路や交通機関の混雑、いつの時代にもまれにはあるいわゆる学校紛擾な どは、周辺地域に負の影響をあたえよう。また、地域が大学にさまざまな影響をおよぼす こともある。そのなかで、大学の側からみて正の価値があることとして、たとえば地域か ら大学への寄附などがあろう。その逆に、地域が大学に負の影響をあたえることもある。

たとえば、科学研究のなかには振動や大気汚染のはげしい場所をきらうものがあろうし、

孟母三遷の故事にある教育に不向きな環境は大学も例外ではなかろう。

大学による地域貢献には、大学への投入にかかわるものと大学の産出にかかわるものが 含まれる。まず前者であるが、大学組織とその構成員である教職員や学生はしばしば巨大 な購買主体であり、それらによる支出は地域をうるおすことになる。後者については、大 学の役割である教育、研究、社会サービスのそれぞれが地域に貢献し得るであろう。その ほか、大学には象徴的な価値があると考えられる。この点は関係者の判断によるので断言 しにくいが、大学は迷惑施設ではなかろうし、自治体のなかには大学誘致に大きな努力を はらうものがある。東京の鉄道には「大学」の名を冠した駅がいくつかあり、そのなかに は、大学はとうに移転して名称だけがのこるものもある。

大学の産出要因のなかには、高度な研究成果のように専門性が高いものと、市民向けの 公開講座のように一般性が高いものがある。大学への投入要因のなかにも、たとえば食事 の提供のように、潜在的な供給者が多数にのぼる一般性が高いものと、実験設備のように 潜在的な供給者が少数にしぼられる専門性が高いものがある。大学の地域貢献のうち、一 般性の高い部分を享受することはあらゆる地域において可能である。しかし、より専門性

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の高い部分を享受するためには、それを可能とする条件が地域の側に求められる。すなわ ち、大学の地域貢献は、いかなる大学がいかなる地域に立地しているかに大きく依存する。

1.2 先行研究と本稿の位置づけ

本塙にかかわる先行研究は少なくない。稲永(2005)は「大学と地域社会」に関する1990 年以降の日本の研究成果を80件以上もとりあげた総説であり、包括的で信頼性が高いと判 断できる。そこでの先行研究の検討は、理論・概念、古典的テーマ(教育機会・人材養成、

大学立地)、新しいテーマ(産学連携・地域開発、生涯学習)、機関としての高等教育と地 域社会の4項目にわけてなされた。その結果から、最近の研究動向として、1)研究対象が高 等教育のいわゆる伝統的機能から非伝統的機能に拡大したこと、2)高等教育機関の所在地 域への影響に関する研究が、経済的効果などからイノベーションなどへの寄与へと質的に 拡大したこと、3)設置形態と地域貢献にかかわる議論がさらに展開したことの3点をあげ、

そのいずれもが近年の政策動向を反映したものだと指摘している。

大学立地政策をとりあげたものとして、古くは塚原・牧野(1989)がある。文部省、国 土庁、通商産業省、自治省の政策動向を説明するとともに、省庁や自治体などによる調査 研究の成果を列挙した。より新しい宮野(1998)は、文部省と国土庁の政策動向を記述し た。本稿は塚原・牧野(1989)の続編としての性格をもち、宮野(1998)以降の政策動向 を含めて記述する。そのため、とりあげる時期は稲永(2005)と重なるが、稲永が研究動 向の説明要因と位置づけた政策動向を対象とすることで、両者は相補的な関係にある。

2.都市地域政策と大学 2.1 日本の大学立地

近代日本における高等教育機関の地域配置政策をとりあげた代表的な研究成果のひとつ のなかで、藤原は、明治初期から敗戦までを5つの時期に区分した。第1は明治初期であ る。明治の最初期には、京都における国学ないし漢学と東京における西洋学という2つの 形態(東京大学百年史編集委員会1984、82頁)で高等教育が行われたが、後者に集約され て少数の高等教育機関が首都に集権的に配置された。第2は明治中期であり、高等教育機 関が東京に集中することの弊害が指摘され、実業専門学校が全国の要地に配置された。第 3 は明治後期であり、地域的特性に対応する専門学校の整備充実が行われるとともに、私 立学校の都市集中が問題とされた。第4は大正期であり、高等教育の規模を拡大し、地方 に分散する政策がとられた。第5は昭和期である。都市対策、国土計画(企画院)、教育政 策(教育審議会)という3つの立場から、高等教育機関の地域配置のあり方がそれぞれに 提案された(藤原1981、455-8頁)。

こうした検討をふまえて、日本における高等教育機関の地域配置政策の課題として、藤 原はつぎの4つを指摘した。第1は都会中心主義であり、高等教育機関が主として首都や

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都府的都市に設置される傾向があった。第2は国土計画的な総合政策の遅れであり、都会 中心主義や偏狭な地域優先主義がしばしばみられた。第3は私学対策の不備であり、大都 市への集中をまねいた。第4に、政治的発想の優位と政策策定における理論的基礎の脆弱 さであった(藤原1981、458-460頁)。

いくらか補足すれば、高等教育機関を全国に配置する計画は当初からあった。たとえば、

学制では、全国を8大学区にわけ、各区に大学校1所をおくとしていた(文部省1922、26 頁)。しかし、それらは各地区の「都府的都市」に設置することが想定されていたといえよ う。この傾向は、帝国大学や師範学校においてとくにみられた。これらは、主として近代 部門を建設するための人材養成を役割としたため、その立地に特別な条件がなかった結果 と思われる。これに対して、旧制専門学校は、その役割の一部として在来部門の近代化を すすめる人材の養成をになった。おそらくそのため、旧制専門学校は各地の産業に対応し た学科を設立する傾向があり、藤原のいう地域優先主義にあたる傾向がより強かったよう にみえる。私立大学は、学生や教職員が確保しやすく、利便性の高い大都市に集中した。

私学のなかには、官学の教員や官吏などが創立に参画し、本務のかたわらに講師をつとめ るものがあった。今日の法政大、明治大、東京理科大などがその代表例であるが、本務と なる職場と同じ地域、たとえば東京にこれらが設置されたことはいうまでもない(天野 1989、94-5頁、馬場2006、36頁)。

大学立地について東京は特別な存在である。まず、おそらく首都としての魅力があるた めに、地域としての東京は大学を誘致する必要があまりなかった。また、東京大学に代表 される大学は、国家的社会的な課題に対応した分野にとりくむことが少なくなかった。大 学附置研究所を例にとれば、天文、伝染病、地震、航空などがそれである。前述のように、

高等教育機関の立地が地域的に不均衡であり、とりわけ私学が都市に集中しているとの批 判は明治中期からあった。大正期に高等教育が拡張されたさいには、官立高等教育機関の 地方分散が進展したが、都市部の私学も拡大して大都市への集中傾向は改善されなかった

(伊藤1999、48、80頁)。

なお、特定の都市や地域に注目すれば、大学だけでなく一般に学校はその中心部よりは 周辺部に展開する傾向がある。都市化が進行するなかで大学が拡大しようとしても、中心 部に位置した大学がその隣接地を取得することはむずかしい。実際、歴史の古い大学の多 くは郊外地への移転ないし拡大を経験している。これらは、成長発展を期す学校が何十年 かに一度は経験しなければならないことであった。

2.2 都市問題と大学

大都市の無制限な膨張は望ましくないという考え方は古くからあった。大正13(1924)年 にアムステルダムで開催された国際都市計画会議では大都市圏計画に関する7原則が決議 されたが、これはそうした流れを集約したものであった。そこには、衛星都市による人口

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