クラスレート研究に際しては,ゲスト包接や結晶のパッキングに大きな影響を与える
CH/O
やCH/!,
そして
!/!
などの微弱な相互作用を対象として議論を行うため,単結晶X線解析を基盤とした綿密な検討 が必要であると考えられる.しかし,これらの相互作用や包接現象についての詳細な情報を実験化学的手 法のみで明らかにすることは容易でなく,しかもホスト化合物の性質によってはX線解析に適した晶形を 得ること自体が困難を伴うことも多い.このようなホストの研究に関しては,推論をもとに進めていかな ければならず,結果として系統的な研究が阻まれる要因となっている.そこで,以上の不利益を補うため の新たな手法として,著者は分子軌道 (MO) 計算を用いた計算化学的アプローチを提案すべく,包接体 のX線構造を再現する計算やゲスト包接に伴う安定化エネルギーの推測を試み,新たな機能を有するクラ スレートホストの設計や分子認識の解明に分子軌道計算が利用可能か検証を行った.
2
章から4
章までの各論毎に行った分子軌道計算の検証過程では,ab initio法やDFT
法による計算が現 時点で事実上不可能とされるような大きな系(クラスレーションモデルなど)を対象とする構造最適化計 算においても,半経験的分子軌道法は十分に適用可能であることが明らかとなった.さらにその計算精度 に関しても,PM6
法による半経験的MO
計算ではCH/!
相互作用などの微弱な相互作用や包接体のX線構 造をおおよそ再現することができた.弱結合の評価に際しては,通常,分子の分極が十分に評価できる大きな基底関数系で,しかも電子相関 を考慮した
MP2/cc–pVXZ (X = T or Q)
あるいはMP2/aug–cc–pVXZ (X = D or T)
以上のハイレベルな量子 化学計算が望ましい39b).さらに,分散力の寄与が大きいCH/!
相互作用などに関しては,MP2
法では分 子間の引力を過大評価するために誤差が大きく,その結合エネルギーを正確に再現するためにはbasis set
limit
に近い非常に大きな基底関数を用いてCCSD(T)
法で電子相関を補正する必要がある.仮に,DFT計算で代用しようとしても,分散力を評価できないことが確認されている
B3LYP
などの汎関数は自ずから 除外され (p. 57),結局は高コストな計算手法を選ばざるを得ない.著者が行っているクラスレート研究に おいても,可能であればハイレベル計算を用いて適切に評価すべきと考える.しかしながら,結晶充填構 造など多数の分子を対象とした分子軌道計算は,現時点で最新の計算機性能をもってしても実際に行うこ とは不可能に近い.このような諸環境の下,計算速度と計算結果の正確性のバランスをとることで結晶場 や生化学的領域での使用を主眼としているPM6
法36g–h) は,クラスレート研究においても極めて合理的な 手法であると考えられた.実際にPM6
法を用いて計算を行ったところ,1H NMR
測定において観察され た弱結合が関与する束縛回転現象,そしてX線解析によって得られた結晶充填構造やそこで見られた弱相 互作用についても,構造的特徴を適切に再現することができ,ほとんど矛盾なく説明することが可能であ った.すなわち,これらの結果は電子相関を加味した極めてハイレベルの量子化学計算でなくても,計算 コストの低いPM6
計算で十分実用的な精度が得られる可能性を示すものである.ここで一例として,ホ スト5c
の束縛回転現象を検討する際に行った単分子構造最適化 (p. 57) に要した演算時間をそれぞれ示 した.半経験的手法であるPM6
では約90 sec
で終了したのに対し,汎関数B3LYP
を用いたDFT
計算ではその
10
3倍を超える約100,000 sec
もの膨大な時間を要した.以上の計算結果からも,DFT
やab initio
と は比較にならないほど計算コストが廉価で,しかも条件(汎関数)によってはDFT
計算よりも再現性で 勝る半経験的PM6
法は,現時点で最も実用的なツールであり,実験的な試みをも容易にする可能性を秘 めている.ただし,このように汎用性の高い
PM6
法であっても,Cl,Brなどのハロゲン原子を介したハロゲン相 互作用については現時点で正確に評価することが困難であり,本研究においてもホスト5m,5p
分子のC
aryl–N
imide束縛回転に伴うinner : outer
構造を予測した計算では,いずれもinner
配座が優位であるという結果を与えていた[実測では
outer
優位.5m (in CDCl3), 32 : 68; 5p (in CDCl
3), 27 : 73].このことは PM6
法がハロゲン相互作用(ここではC–X•••!)を過大評価していることを意味し
46),おそらくはハロゲン原 子のd
軌道により生じる反発力を適切に記述できていないのが要因の一つではないかと推察される.また,ハロゲン相互作用の評価に対する補正を含んだ
PM6–DH2X
法47a) を用いて同様の計算を試みたが,inner 優位であるとの予測に変化は見られなかった46).ところで,PM6–DH2X法ではハロゲン相互作用以外に も分散力や水素結合に対する補正項の影響を受けるため,結果としてC–X•••!
相互作用について適切に評 価できていないと判断した.また,MP2/aug–cc–pVDZ による計算結果との誤差を小さく抑えた計算手法 であることからもPM6–DH2X
法については分散力を過大評価する傾向が考えられた.以上のように,微弱なハロゲン相互作用や分散力の評価など,現時点ではまだ課題も多い半経験的分子 軌道法ではあるが,2012年には新しいハミルトニアンである
PM7
が公開されるなどパラメータの改善は たゆみなく続けられている.このような先進的な試みを支援するためにも,計算結果をただ享受するだけ ではなく,開発者へ積極的にフィードバックすることが必要であると考える.総括
著者は,phencycloneを基本骨格とする
Diels–Alder
環化付加体がクラスレート機能を有するという報告 を端緒に,CH/O 型水素結合やCH/!
相互作用などの弱い分子間力のみでゲスト分子を包接する新しい型 のクラスレートホストを合成した.そして,DTA/TG
解析や1H NMR
スペクトル解析,単結晶X線解析な どの実験化学的手法と計算化学的手法を組み合わせ,クラスレートの結晶構造や微弱な分子間相互作用に 関して詳細な検討を行った.また,より効果的なクラスレートホストの設計を指向して,系統的にホスト 構造を修飾し,その包接能を検討した結果,ホスト‒ホスト間やホスト‒ゲスト間に観察される特異的な分 子認識機構の一端を明らかにした.以下に得られた知見を記す.1) Styrene
系付加体ホスト3
群は総じて包接能が低く,その原因としてはジエノフィル由来aryl
基の高い自由度の影響が示唆された.
Guest-free 3a, 3d
のX線構造では,エナンチオマーの関係にあるホスト同 士が対称中心を挟んで立体構造的に相補的な二量体を形成し,それによりジエノフィル由来aryl
基の 配座が固定されていた.ゆえに,ホスト構造中に比較的柔軟な置換基をもつと,その自由度の高さか らゲストを包接するための空間やゲストを固定する相互作用が形成されにくいと考えられる.2) Phencyclone
付加体ホストにおいて,ホスト間ネットワークを構築する主な駆動力は橋頭位のカルボニル酸素を介した
CH/O
型水素結合であると推察した.Bridged >C=Oの酸素原子は歪みのないカルボニ ル酸素よりもわずかに塩基性が高く,また立体構造的に隣接分子の水素原子が接近しやすい.これら の性質は水素結合受容基として効果的であり,head-to-tail
連結やC-C
領域対面構造などに代表されるCH/O
ネットワークは結晶構造を決定づける重要な役割を果たしていた.また,ホストゲスト間の認 識においてもCH/O
型水素結合は有効であり,ケトン類およびエーテル類の酸素原子は積極的にCH/O
型水素結合を形成してホスト分子との結びつきを強めていた.3) ジエノフィル由来芳香環が固定された構造であるホスト 4a
は,幅広い包接スペクトルと高いゲスト保持力を示した.広い
!
平面を有するphenanthrene
環に連続するrigid
平面構造が,クラスレートホスト としての構造要件であることが確認された.また,4a の高い包接能は結晶構造中に共通して観察され たホスト柱状構造に起因し,edge-to-face 二量体やCH/!
二量体などの分散力主体の相互作用だけでも 構造的および電子的な相補性が合えば強い結びつきを得られることが明らかとなった.ところで,ホ スト柱状構造同士の接合様式の違いから,4a の包接体はcage,layer,channel
の3
型に分類できた.Cage
型ではゲスト分子が「糊」の役割を果たし,極めて強固な包接を実現していた.一方,layer 型,channel
型の両包接体は極めて不安定であり,その低いゲスト保持能についてはゲスト包接空間の構造的考察により説明できた.以上の分類は他のクラスレートにおいてもおおよそ適用可能であった.
4) Phencyclone
付加体ホストではその骨格の各領域ごとに特徴的な役割を有することが明らかとなった.橋頭カルボニル側の
phenanthrene
上空間であるA
領域は,隣接ホストの芳香環ないし芳香族ゲストが 占める傾向が極めて高く,効果的にedge-to-face
や!/!
相互作用を形成し,結晶格子の構築に寄与して いた.特にホスト5
群においては,この領域を介した調節機構が芳香族ゲストの包接構造とguest-free
結晶構造とを切り換える可能性が示され,PM6
法による安定性予測からその構造変換はわずかなエネ ルギー差で生じると考えられた.ゲスト放出温度が沸点より降下したDTA
測定結果もこの説明を支持 した.また,phenanthrene
部分のスチルベン骨格への変換は,構造の自由度を増大させ包接能の低下を もたらすと予想したが,実際にはedge-to-face
相互作用によるスチルベン部位間の特異的認識が観察さ れ,結果として包接スペクトルは狭まらなかった.しかし,そのゲスト放出温度はphenanthrene
環含 有ホスト群より軒並み低下し,柔軟な構造ゆえにホスト7
群のゲスト保持力は強くないと推察した.5) 車輪‒車軸型ホストに着想を得て設計した B
領域を介したparallel-displaced
型のホスト‒ホスト間認識はstyrene
系ホスト3
群では認められなかった.しかし,それ以外のnon-hydroxylic
ホスト,特に5
群ではホスト格子を構築する基本的な構造単位(二量体構造)としてゲスト包接空間の形成に寄与してい た.また,ホスト
5c, 5d, 5g
などではN
imide–C
sp2結合軸の束縛回転現象が観察され,phenanthrene平面と
N-フェニル置換基の間に働く分子内 CH/!
相互作用の存在が確認された.さらに,この弱相互作用による配座固定がゲスト包接空間をつくり出すことが判明し
(in 5c•butan-2-one)
,自由度が低いという 構造要件がクラスレートの形成に重要であることが改めて示された.6)
主としてホスト間ネットワークの形成に用いられたC
領域は,acetone
や芳香族の包接に対しても効果 的であった.いずれの場合も2, 3
位のメチン水素が重要な役割を果たしていた.また,5群のほぼ全て がこの領域でC-C
領域対面構造を形成し,このことから強固なホスト間連結であることが推察された.この領域はジエノフィル由来骨格の影響を直接受けるが,
maleimide
環構造を共通して有する5
群はS
領域に向けた >C=Oによる効果的な相互作用もあり類似のホスト間ネットワークを構築していた.7) S
領域はCH/!
相互作用を主としたホスト間連結に用いられ,通常この領域でのゲスト包接は弱いものであった.ただし,
4a
は例外であり強固なホスト格子に支持されたcage
型のゲスト空間を構築してい た.ところで,5群では反対方向を向いた2
つのmaleimide >C=O
が橋頭カルボニルと併せて三次的なCH/O
ネットワークを形成した.なかでも,4’
位置換体ホストでは芳香族ゲストを挟んだホストゲス ト繰り返し構造が観察され,maleimide >C=Oはゲスト包接においても有効であると考えられる.8)
ハロゲン基を導入した3d
および5
群ではN-
フェニル環同士のparallel-displaced
型構造がより柔軟に変 化し,ゲスト包接能の獲得に寄与すると考察した.ハロゲンを介した相互作用の一種であるC
aryl–Br/!
相互作用はホスト間ネットワークの構築に有効であり,guest-free
3d
ではC
aryl–H/O
型水素結合よりも 優先されていた.また,電気陰性度の高いF
原子を介したCH/F
型水素結合はホスト格子を強化する役
ドキュメント内
熊本大学学位論文
(ページ 104-110)