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ドキュメント内 世親『法華論』訳註(2) (ページ 88-92)

勅那 麻原 提訳 では

︑﹁ 疑﹂ を﹁ 者﹂ とす る︒

勃那摩提訳では︑﹁疑L

を﹁ 者し とす る︒

勅那摩提訳では︑﹁如来L

を欠

く︒

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法華

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言え

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利弗

︒諸

仏出

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濁盛

山世

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﹃大

正蔵

﹄第

九巻

︑七

頁中

︑二

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一行

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以下

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10  9 

何時説︻

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{ 書 き 下 し 文

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・ 口

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何時説者︒諸仏如来於何等時起種種方便説法

為断此疑︒知経舎利弗諸仏出於五濁悪世所謂

劫濁

如回

疋等

故︒

﹁伺の時に説くやLとは︑諸の仏・如来は︑何等の時に於いて︑種

種なる方便を起こして法を説くや︒此の疑を断ずることを為す︒

経の如く﹁舎利弗よ︑諸仏は︑五濁の悪世に出づ︒所謂︑劫濁とL

の如き等の故なり︒

北大文学研究科紀要

世毅司法華論﹄訳注

ω

{現

代語

訳︺

﹁いつ説かれるものであるかL

とは

︑仏

・如 来た ちが

どのような時機に︑さま︑ざまな手段を用いて教えを説くので

あろうかいう疑いである︺︒この疑いを断ち切るのである︒経において﹁舎利弗よ︑仏たちは︑五種の汚れに満ち

た悪世に出現する︒︹五種の汚れとは︺すなわち︑時代そのものの汚れとL云々とあるように︒

14  13  12  11 

勃那摩擬訳では︑﹁此疑Lを﹁彼疑﹂とする︒

勃那摩提訳では︑﹁仏合会利弗﹂とする︒

勃那摩提訳では︑﹁如是﹂を欠く

寿

L (

吋大正践し第九巻︑七頁中︑二三

1

二凶行自)と対応す

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同町)︒末世における五種の汚れ︒①幼濁

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匂 出

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飢鍾︑疫病︑戦乱などが流行する︑時代そのものの汚れ)︑

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百人々が善を行わず︑悪葉市を為すこと)︑③煩悩濁

( r g P 4 5

出身出諸々の煩悩が増大ずることて④見濁

(

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山吉正しい教えが滅び︑誤った教えが流行すること)︑⑤命濁(品百

z r g

山吉人の寿命が穏くなり︑百二十歳あるいは河口

)

15 

去何知是増上慢人

{ (

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5

山 市 Y)

︹書

き下

し文

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一E鰐知是増上慢人者︒如来不為増上寝入荷説云何にして是れ増上慢の人なりと知るやとは︑如来は︑増上慢の

88‑

17

云何知彼是増上撞為断此疑︒如経若有

比丘実得間羅漢者若不信是法無有是処知日疋等 人の為に諮法を説かず︒

一五何にして彼は是れ増上慢なりと知るや︒此の疑を断ずることを

為す︒経の如く﹁若し︑比丘の︑に阿羅漢を得たる者有りて︑

若し是の法︑宇佐信ぜざれば︑是の処り︑有ること無し﹂と︑日疋の如

き等の故なり︒

{ 現 代 語 訳 ︺

﹁どのようにして(如来が︑ある人を︺思い上がった人だと知るのかLとは︑如来は思い上がった人に対しては教え

を説かない(という︺0

︹し かし

︑︺ どの よう にし て︑

その人が思い上がった者であると知るのだろうかいう疑いで

ある︺︒この疑いを断ち切るのである︒経において﹁もし︑比丘として︑阿羅漢ともなった者であれば︑この教説を信

89‑

じないなどということは︑道理としてあり得ない﹂とあるように︒

20  19  18  17  16 

勃那

摩擦

訳で

は︑

﹁是

L

およ

び﹁

人﹂

の字

を欠

く︒

靭那

腕浮

世批

訳で

は︑

﹁⁝

尚﹂

の字

を欠

く︒

また

︑﹁

説諸

L

を﹁

説法

L

とす

る︒

紡那

摩提

訳で

は︑

﹁此

疑﹂

を﹁

彼疑

﹂と

する

︒ 初那 摩提 訳で は︑

﹁如 是﹂ を欠 く

﹃妙

法難

﹄(

吋大

疋蔵

﹄第

九巻

︑七

頁下

︑四

1

行自 )に その まま の形 で存 在す る︒

北大文学研究科紀要

役親

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伊訳

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一E何堪説者︒従仏閣法寵起誘心︒如来応是不

堪説人︒一疋何不成不堪説人為断此疑︒如経験

仏滅度後現前無仏如是等故︒

{ 現 代 語 訳 }

{ 書 き 下 し 文

﹁一石何が説くに堪えるや﹂とは︑仏より法そ開きてしかも誘︑むを起

こし︑如来は応に是れ説くに堪えざるの人なり︒

一去何にして説くに堪えざる人たるを成ぜ︑ざるや︒此の疑を断ずる

ことを為す︒経の如ノ日﹁仏の滅度の後︑現前に仏無きを除く﹂と︑

の如き等の故なり︒

‑90‑

﹁どうして︑[如来が︺教えを説くことに堪えるのかLとは︑仏から教説を聴聞していながら誹詩の心を起こし︑如

どうして︑︹如来は︺教えを説くに堪え得ない人ということにならな来は教えを説く任にあたることのできない人だ︑

い場合は除くL

とあ るよ うに

いのだろうか︹という疑いであるつこの疑いを断ち明るのである︒経において﹁仏が入滅した後︑仏が現存していな

23  22  21 

勤那

摩擦

訳で

は︑

この

一文

を欠

く︒

勅那

臓障

提訳

では

︑﹁

一瓦

何如

来﹂

とす

る︒

駒郡

臨時

提訳

では

︑﹁

説人

L

﹁説

法人

L

とす

る︒

24 

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法整

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﹃大

正蔵

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第九

巻︑

七資

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五行

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形で

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去何如来不成妄語

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{ 書 き 下 し 文 } ( 勤 ︑

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ドキュメント内 世親『法華論』訳註(2) (ページ 88-92)

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