第 5 章 生物多様性保全活動の評価基準案
5.1 企業理念・方針の中での生物多様性の位置づけ
企業が真の意味で生物多様性保全に責任を持ち、かつ貢献するには、その経営理念・方針の中に生物 多様性保全を明確に位置付けることが必要である。現実には、企業の理念や方針の中にそれを明記して いなくても、生物多様性保全活動を実施している企業が多くあるが、企業の理念や方針によって根拠づ けられないそのような活動は、永続性が疑問視される。
このような企業の生物多様性に関する理念・方針は、下記のような国際的又は国内に存在する基本的 概念に基づいていることが求められる。
① 生物多様性の定義
② 生物多様性の価値
③ 生物多様性の保全における企業の責任
④ 予防的アプローチと順応的管理
⑤ 生態系・生息地保護
⑥ 先住民族と地域社会への責任と配慮
⑦ 生物資源の利用から生じる利益の公正かつ公平な配分 上記の基本的概念について、以下で概要を説明する。
(1) 生物多様性の定義
生物多様性とは、種々さまざまな生物が存在していることである10)。生物多様性は、地球上に生物が 誕生したおよそ40億年前からという長い期間の間に進化・分化を重ねてつくられてきたものである。
生物多様性条約では、生物多様性は、「すべての生物(陸上生態系、海洋その他の水界生態系、これら が複合した生態系その他生息又は生育の場のいかんを問わない。)の間の変異性をいうものとし、種内の 多様性、種間の多様性及び生態系の多様性を含む」(第2条)と定義されている。
このように、生物多様性は、①種、②遺伝子、③生態系の3つのレベルで捉えることができる。
① 「種」の多様性:種は、繁殖上の単位であり、生物の分類の基本単位である。現在、地球上 には既知の種は少なくとも 140万種あるが、未だ発見されていないものも多数あり、それ らを合わせると数千万種以上の種が存在するともいわれている。自然界は、このような多数 の種が互いに関連しあって構成されているので、一つの種の絶滅が、自然界の他の種にも影 響を与え、その生態系の破壊に繋がる可能性がある。
② 「遺伝子」の多様性:生物を分類する上で種より下位のレベルの、個体間の遺伝的な多様性
(種内の多様性=DNAの塩基配列の違い)である。一つの種が存続し、進化を続けていく
10) 樋口(1996)
ためには、種の中での遺伝的多様性が必要である。そのためには、地域の個体群11)を保全す る必要がある。
③ 「生態系」の多様性:生態系とは、ある地域に生息・生育する生物とそれをとりまく水・空 気・土などのまとまりである。生態系の多様性とは、世界各地にさまざまな固有の生態系が 存在することをいう。多様な生態系には、多様な種が存在する。このため、種の保全のため には、生物に生活の場を提供している固有の生態系の保全が必要である。
以上のことから、生物多様性とは、地球上で、種々さまざまな動物、植物、微生物などが相互に関連 しながら生きていることということができる。
(2) 生物多様性の価値:
太古の昔から、人間は自然の一部としてその恩恵にあずかり、自然ともに生きてきた。万葉集の時代 から、自然との関わりに根ざした文化を持つわれわれ日本人にとって、自然や生物とは人智を超えたも のであり、身近でありつつも畏敬すべき存在であった。また、世界の他の地域でも同じように自然との 関わりに根ざす伝統文化が多く存在している。現在経済的発展を遂げた人間社会の直面する様々な環境 問題は、本来の自然の価値を十分に認識し責任ある行動を取ってこなかったことに起因していると言え るだろう。したがって私たちはもう一度自然の価値を再認識し、自然保護のあり方を根本的に考え直す 必要がある。
まず、現在の私たちの生活は、生物多様性のもたらすさまざまな恩恵を受けることによって成り立っ ていることがわかる。
具体的にいうと、生物多様性は人間に対し、次のような恩恵をもたらしている。
− 供給:食料、水、木材、繊維、遺伝資源などの資源の供給
− 調整:気候や洪水の調整、廃棄物処理(微生物などによる分解)、水質浄化など
− 文化:レクリエーション、審美的・精神的な恩恵など
− 生態系の基盤:栄養塩の循環、土壌形成、光合成など
生物多様性の保全を進めることでより向上する人間の生活上の便益には次のようなものが挙げられる。
− 生活のための基本的物資(食料、住居、衣料などの材料)を得る
− 健康(自然に接することで快適な気分となることや、清浄な水や空気が得られる)
− 良好な社会関係(地域の生物多様性に深く関連する文化や社会活動を通じて人々が良好な社会を 形成する)
− 安全(洪水などの災害が減る)
− 教育(大人も子どもも、より豊かな自然に触れることで精神的に成長できる)
− 科学技術(生物遺伝資源を用いた医薬品の開発、農作物の品種改良など)
− 選択と行動の自由(上記の条件がより改善されることで、より安全で良好な社会が形成されるこ とや、教育などを通じ、人々が個人の価値観で自由に行動できる)
− 生物多様性には、倫理的、歴史的、文化的、宗教的価値などの多面的な価値があるとの主張もあ る。
以上のことから、生物多様性は人類の存続のためにはもちろん、経済活動や社会活動・文化活動の 基盤であるといえる。
また、生物多様性は、上記のような人間の視点からの価値に関わらず、その存在自体に価値がある とする考えもある。このため企業は、人間にとって価値があるか否かにかかわらず、すべての種とそ
11) 個体群とは、ある空間を占め、交配によって子孫を残すことができる同種固体の集まりである(プリマック、1997)。
の多様性を保全しなければならないとされる。
(3) 企業の責務:
企業は社会の中で活動し、社会と環境に対し大きな影響を与えている。このため、企業は責任のある
「良き企業市民」として行動することが求められる。特にグローバリゼーションが進展した現代におい ては、企業は、国内のみならず海外においても、持続可能な社会の実現に向けて、自らの責務と社会か らの期待を自覚し、自主的に社会と環境に対する負の影響を減らし、正の影響を高めていくことが求め られている。
このことは、人類の生存基盤を守るために不可欠であるが、人間活動によって著しく減少している生 物多様性の保全についても当てはまる。
生物多様性は、人類共通の財産であるので、企業が営利目的の活動により持続不可能な形で利用した り、破壊したりしてはならない。また、企業活動の多くが、生態系が提供するサービスに依存している。
よって企業は、生物多様性の保全と持続可能な利用に最善を尽くすべきである。
このため、具体的には、企業は、生物多様性とそれに関連する市民の生活や文化に対する負の影響を 事前にできるだけ把握し、その影響を回避又は低減するべきである。
また、企業は、サプライヤーからの原材料や製品の購入を通じ、また、製品の販売を通じ、間接的に 生物多様性へ負の影響を与えている。このため、自社の直接の活動による生物多様性への影響のみなら ず、そのサプライチェーンを含めたバリューチェーン12)において生物多様性へ与える影響を回避又は低 減するよう努めるべきである。
(4) 予防的アプローチと順応的管理
自然界で生物多様性が維持されているメカニズムには、科学的に未解明の部分が大きい。生物多様性 は内在的に不確実なものであるとする見方もある。このような科学的な不確実さがあるため、生物多様 性保全においては予防的アプローチと順応的管理が必要不可欠である。
予防的アプローチは、ある物質や活動が環境に重大で不可逆的な影響を与えるおそれがある場合、影 響を与えることを証明する科学的証拠が不十分な場合でも、そのおそれを回避するため、または最小に するための措置をとることを延期する理由とすべきではないという考え方である。
生物多様性条約の前文では、「生物の多様性の著しい減少又は喪失のおそれがある場合には、科学的な 確実性が十分にないことをもって、そのようなおそれを回避し又は最小にするための措置をとることを 延期する理由とすべきではない」としている。
日本の生物多様性基本法(2008年)においては、「科学的知見の充実に努めつつ生物の多様性を保全 する予防的な取組方法」により対応すべきことを規定している。
順応的管理は、生態系の保全管理の原則の一つである。生態系の反応は非常に複雑であるため、我々 の知識が進んだとしても、より良く保全管理するために継続的に学ぶ必要がある。したがって、保全管 理は、実験として取り組むべきであり、不確実さに関しては柔軟に対応し順応的に対応することが必要 不可欠である(Meffeら、1997)。
生物多様性基本法(2008年)においては、事業等の着手後においても生物の多様性の状況を監視し、
その監視の結果に科学的な評価を加え、これを当該事業等に反映させる順応的な取組方法により対応す
12) サプライチェーンは、製造の川上の原材料の採取までに至る企業、個人など(以下「企業等」という)との連鎖をい う。バリューチェーンは、川上と川下の両者を含めた企業等との連鎖をいう(川下においては、企業等には最終消費者や、
場合によっては廃棄物処理業者までも含まれる)。