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このように︑方便法身の誓願を信楽せしむるもの が法性法身の力用なるがゆえに︑その誓願に 報 い てあらわれる 報
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残間 ニ 願力 ‑ 光 ︐ 閨 報土真因決定時 剋之極促 上地︒ ﹂という﹁心得往生﹂の釈が︑﹁ 得 ﹂の語を﹁ 獲 ﹂として強く現生不退の紐
徒に即して充分明らかになっている︒即ち︑﹁ 一 吉二心得往生 ‑ 者︑ 彰レ獲レ 圭三不退位 ‑ 也︒ 経舌呈即 得ゆ墾 ム二必定の即青苗 レ ㈹しての自然法爾 信楽 有 二一念 田 一念者 斯 顕二信楽開発時 討之極促 ﹁ 彰二 広大難 思 塵心 ‑ 也︒﹂︵教行信証︑信巻末︶ と ある﹁ 時 起立 極促 ﹂
とは単なる信の釈ではなく︑信がつねに時と相 即するその相即の釈という意味をももつものでな げればならない︒ こ ︵ 9 ︶ こにはむしろ信の本質規定たる釈義は全くない︒ それは﹁乃至 丈 巳の釈において︑またすでに﹁ 行巻 しにおいて︑ 行 の 内面的意味とい 5 べ き ものは
ることはできない︒しかしこれ
時間的過程として表象される 以
対 に客体化されない内的本質の
り着く時点の如きものではなく
意味がなければならない︒信は
する時の内的本質と全く一致す
この信にして時︑時にして 信 ︑行 そのものの充実に体ならない︒それゆえ︑ 能 この時のほかにないのであるが︑これは行が信 と
信の機は一面︑時をもそこに成ずる なる時間的過程の表象を離れて考え
はすでに時を外から見ていることとなるのである 0 大行が機に到りつく時は︑かかる 前の内的な時であり︑其の能信の機もそこにお いて時とともに成るのである︒この 絶 ︵ 8 ︶ 時とともに成るがゆえに︑本願 信 受の機には 絶 対 の自由がある︒これは行のそこに 到
蒔 ︐において成り︑時すでに信である︒この ょぅ に 時と相即する信は︑ 無 別体的に時 成
るといえる︒
なる大行到来の瞬間をあらぬすものが信一念の 駅 であろう︒即ち︑﹁ 夫撰二 真実信楽 ハ その内 を意味 として
る ︒ 信 囚 たる内面性を失って︑一重の因縁関係︑即ち 外因たるに 上 ることとなる︒ 内 とは絶対に客体化 されないこと
する語でなければならない︒この内因を失 うと き ︑先の一重の因縁は現実の機相を離れて︑単な る 論理的必然 客体化される危険をもつ︒ここに信心王国がい われ︑ 能 僧位が問われる意味もあるのである︒
し︑ 信に即して行がいわれると ぎ ︑その行はす でに龍信に対する所信となり︑再び能所の対立 は 免れ難くな
とは大行が機の上に到り着くときをい う のであり ︑ 到り着いた名号はすでに所信のものである︒ それゆえ︑ 行
金剛心をあらわしているのであるから︑この上 行 に対して信をたてれば︑反って信の固定化を免 れないであろう︒ し
かしまた逆に ︑ 行の固定化を防ぎ︑その内面性 を 失せしめないように信に即して行をいえば︑ そ れ が い わゆる﹁信一
念 ﹂である︒﹁信一念﹂と﹁現生不退﹂を分け てこれらの相互の関係を考えていくのが伝統的 教 学の道であろうが︑ い わかる信相即時 剋 ︑ 時剋即信 相なる信の本質 ょ り みれば︑それらはともに信楽開発の時 剋 の 極 促から聞き出された ものといえる︒真の信一念はかかる暗射の 極促 以外にないが︑これを時間的因果過程として表象 すると き ︑獲得の吹
第 があることとなる︒しかし︑﹁信愛本願前急命 経 ︑ 即八 二正定聚定数ハ郎 得 往生後令郎 生 ︑即時 八 % 必定﹁ 文 名工必定
菩薩 ‑ 也 ︒﹂︵愚禿 妙 上︶の釈に よ るも︑所念後金 0 次第によって説かれつつ︑そこにはただ絶対 岳ご 一の信楽のみがあ
る ︒現生不退を証するこの信楽の一念にはもはや 時間的過程としての前後はなく︑前後の次第は 一念において働く本 ︵ 几り 1 ︶ 願力の方向に従うという外はないであろう︒ こ れはまた︑時が過程的表象を伴 う 根拠ともなるの である︒
は 上︑絶対 聞 信の立場ともい う べき後段の自然 釈 において︑自由の問題は如何に考えらるべきか ということを追求 して︑その解明を行信次第の内面的関係に求め︑ ついに信一念の時の内的本質からそれを考える にいたった︒信一念 の時は大行の機 仁 到りつく時であるとともに︑ 真 の 宗教的個体というべき機の成ずる時である︒ しかし︑この時はま
たそれ自体の内的本質から︑すでに時をもそこに 執せしめるものでなければならない︒ 時剋 の 極 促 ということもこれ
を 外から見れば︑時間的過程の上の一時点に過 ぎなくなるであろ 5 ︒このような時間的過程の上 にあるものは 未 だ 真
0 個体というべきものではない︒これに対して︑ 時剋 の 極促 とは時の内的本質であり︑ 時 自体が そこに成就するので
ある︒この瞬間においてある本願信愛の 機 こそ が︑ 最も深い意味における宗教的個体とい 5 べき
る 時においてある個体は ︑ 時にあって時に束縛 されることのない自由をもつ︒ 信丈ゐの 瞬間には 一面︑個体から時が
成るという意味がなければならないのである︒
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は な 否定する立場ではなく︑むしろ真に主体的 な 個体の立場を基礎づけるものと い える︒﹁ モ トョリ シカラシム ル ﹂と れ い う 言葉は法体大行に帰して考える外はな い であろうが︑これが信一念の時において充実 す る 点を考えれば︑この 人 ㈹
搬 行の働くところ︑つねに同時に自覚的な個体 がある︒この信一念における同時相即をあらわ すものは︑ただ﹁ 聞
﹂の㏄
凝 而立する時すでに自由であり︑自覚的な個体 もそこから考えらる べ ぎである︒みるに︑﹁自然 トハ ⁝⁝ キヘテ サフラフ﹂とい う 絶対 聞 信の立場は個体 ハ ー l Ⅰ ‑
に 機もそれに束縛されることはない︒これがまた 真に自覚的な個体というものでなければならぬ い ︒ 無 別体的に依 法 元来︑個体の自由とい 5 こと
のが考えられている︒近世 ョ ー
がいわれる所以である︒宗教的
の意志自由の問題に過ぎなくな
意志的個体にはむしろ自由はな
い︒これが自由をうるというこ
と永遠が古来の宗教的課題とさ
時間と永遠とのふれ合いにつ
時間思想の基本をなしている︒
従って︑そこには時間と永遠の
ない︒本願の自在力 は ついて︑
法 而立する時についても同様に は 個体の自覚とともに云われてぎた︒その背後 にはしかし︑つねに個体を束縛するも
口ッパ におけるが如く︑個体の自覚とともに﹁ 強 制からの自由﹂︵ ‑p す注銭 p nOu ゑざコ の︶
自由ということもこの観点から取扱えば︑いわ ゆる﹁信仰の自由﹂をい う 意味の通途 る ︒しかし︑何等かの意味で絶対的なものにかか わる宗教の立場からかえば︑かかる いのである︒かかる個体はつねに時間のなかにあ り ︑その束縛を脱することができな とは︑時間のなかにあって時間を超えたものに ふれることでなければならない︒時間
れている所以である︒
いては﹁永遠の今﹂の如き主張もあるが︑元来 仏 教 では 無 別体的に依 法 而立する時が 時 が無別体的に成るのはその根拠たる法がすで に 待駒・流動的なるがゆえであろう︒
根本的対立はない︒時がこの ょう に 無 別体的に 成浩而立することは︑自然という 外は
﹁ 讐如 阿修羅春雄 無鼓者 雨音曲自然﹂︵論詰︶ と いわれる よう に︑いま 無 別体的に依 形容することができる︒ 機受 はこの時において あるのであるが︑時が無別体なるの え
伏シ ︑魔界外道モ 障擬 スル コトナシ 0 罪悪 モ業 報ヲ感ズルコ トアタハズ︑諸善モナコフ コトナキ ユヘ ナリ﹂ ハ 歌典 妙 ︶ といわれる如き絶対自由の生れ い ずる根本的立 場を明らかにするものが︑後段の自然 釈 および 無 上慢葉の釈であった
のである︒
一 一
これまでは後段の自然 釈は ついて︑それが主体的 な行信の立場と称しさること︑仏の行が 本 願 力 の 自然からそのま
ま人間の行となって行者の自由を証することを︑ 行信次第の内面的関係︑即ち信一念の時の冊 造 を手がかりに追求し
て ぎた︒すでに﹁ 行巻 ﹂の冒頭に﹁大行者別邸 社省 甘党如来格Ⅱ期待 即摂二 諸善 法 ﹁真二諸徳 本弍 極速 円満︒真如一実
功徳空海︒ 故 冬ニ大行ごとある如く︑﹁ 称無尋 光 如来冬﹂が期待とふまえられ︑期待 が ﹁ 極 連岡 満 ﹂するのである︒
ここにすでに︑行を主体的なものとする信の働 き がなければならない︒それゆえ︑同じく﹁ 行巻ヒに ﹁ 獲 玉貝 @ 実行 信ニ ︑﹁ 帰 二合断行信 ニ とあり︑それ自体充実し た 大行大悟がさらに行者の行信となって充実行を 成ずる 時 剋を予想さ せる︒ここに﹁信楽開発時射乏 極促 ﹂という信一 念の釈があらわれることとなる︒この信一念は 確かに大行大 信 の 現 美的意味を活殺するものに相違ないが︑しかし かかる暗射乏 極促を 信前信後を分つ時点の如く 考 えることの非は先に
指摘した︒かくしては機法一体の意味も失われ ねばならない︒また信を境に二つの別の行がある と 考えらる べ ぎでは ‑ ㎎ @ 個体の自由として実現する︒﹁念仏者ハ熊 擬ノ