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ドキュメント内 『宗教研究』193号(41巻2輯) (ページ 30-35)

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同  行  」 

者(  ノ唯 

(130) 

このように︑方便法身の誓願を信楽せしむるもの が法性法身の力用なるがゆえに︑その誓願に 報 い てあらわれる 報 

30 

残間  ニ 願力  ‑ 光  ︐ 閨  報土真因決定時  剋之極促  上地︒  ﹂という﹁心得往生﹂の釈が︑﹁  得  ﹂の語を﹁  獲  ﹂として強く現生不退の紐 

    徒に即して充分明らかになっている︒即ち︑﹁ 一 吉二心得往生 ‑ 者︑ 彰レ獲レ 圭三不退位 ‑ 也︒ 経舌呈即 得ゆ墾 ム二必定の即青苗 レ ㈹ 

しての自然法爾  信楽 有 二一念 田 一念者 斯 顕二信楽開発時 討之極促 ﹁ 彰二 広大難 思 塵心 ‑ 也︒﹂︵教行信証︑信巻末︶ と ある﹁ 時 起立 極促 ﹂ 

  とは単なる信の釈ではなく︑信がつねに時と相 即するその相即の釈という意味をももつものでな げればならない︒ こ ︵ 9 ︶ こにはむしろ信の本質規定たる釈義は全くない︒ それは﹁乃至 丈 巳の釈において︑またすでに﹁ 行巻 しにおいて︑ 行  の 内面的意味とい べ き ものは 

ることはできない︒しかしこれ 

時間的過程として表象される 以 

対 に客体化されない内的本質の 

り着く時点の如きものではなく 

意味がなければならない︒信は 

する時の内的本質と全く一致す 

この信にして時︑時にして 信  ︑行 そのものの充実に体ならない︒それゆえ︑ 能  この時のほかにないのであるが︑これは行が信 と 

信の機は一面︑時をもそこに成ずる  なる時間的過程の表象を離れて考え 

はすでに時を外から見ていることとなるのである 大行が機に到りつく時は︑かかる  前の内的な時であり︑其の能信の機もそこにお いて時とともに成るのである︒この 絶 ︵ 8 ︶ 時とともに成るがゆえに︑本願 信 受の機には 絶 対 の自由がある︒これは行のそこに 到 

蒔 ︐において成り︑時すでに信である︒この ょぅ に 時と相即する信は︑ 無 別体的に時 成 

るといえる︒ 

なる大行到来の瞬間をあらぬすものが信一念の 駅 であろう︒即ち︑﹁ 夫撰二 真実信楽 ハ  その内 を意味 として 

  

る ︒ 信  囚 たる内面性を失って︑一重の因縁関係︑即ち 外因たるに 上 ることとなる︒ 内 とは絶対に客体化 されないこと 

する語でなければならない︒この内因を失 うと き ︑先の一重の因縁は現実の機相を離れて︑単な る 論理的必然  客体化される危険をもつ︒ここに信心王国がい われ︑ 能 僧位が問われる意味もあるのである︒ 

し︑ 信に即して行がいわれると ぎ ︑その行はす でに龍信に対する所信となり︑再び能所の対立 は 免れ難くな 

  とは大行が機の上に到り着くときをい う のであり ︑ 到り着いた名号はすでに所信のものである︒ それゆえ︑ 行 

金剛心をあらわしているのであるから︑この上 行 に対して信をたてれば︑反って信の固定化を免 れないであろう︒ し 

かしまた逆に ︑ 行の固定化を防ぎ︑その内面性 を 失せしめないように信に即して行をいえば︑ そ れ が い わゆる﹁信一 

念 ﹂である︒﹁信一念﹂と﹁現生不退﹂を分け てこれらの相互の関係を考えていくのが伝統的 教 学の道であろうが︑   い わかる信相即時 剋 ︑ 時剋即信 相なる信の本質 ょ り みれば︑それらはともに信楽開発の時 剋 の 極 促から聞き出された  ものといえる︒真の信一念はかかる暗射の 極促 以外にないが︑これを時間的因果過程として表象 すると き ︑獲得の吹 

第 があることとなる︒しかし︑﹁信愛本願前急命 経 ︑ 即八 二正定聚定数ハ郎 得 往生後令郎 生 ︑即時 八 % 必定﹁ 文 名工必定 

菩薩 ‑ 也 ︒﹂︵愚禿 妙 上︶の釈に よ るも︑所念後金 次第によって説かれつつ︑そこにはただ絶対 岳ご 一の信楽のみがあ 

る ︒現生不退を証するこの信楽の一念にはもはや 時間的過程としての前後はなく︑前後の次第は 一念において働く本   ︵ 几り 1 ︶ 願力の方向に従うという外はないであろう︒ こ れはまた︑時が過程的表象を伴 う 根拠ともなるの である︒ 

は 上︑絶対 聞 信の立場ともい う べき後段の自然 釈 において︑自由の問題は如何に考えらるべきか ということを追求  して︑その解明を行信次第の内面的関係に求め︑ ついに信一念の時の内的本質からそれを考える にいたった︒信一念  の時は大行の機 仁 到りつく時であるとともに︑ 真 の 宗教的個体というべき機の成ずる時である︒ しかし︑この時はま 

たそれ自体の内的本質から︑すでに時をもそこに 執せしめるものでなければならない︒ 時剋 の 極 促 ということもこれ 

を 外から見れば︑時間的過程の上の一時点に過 ぎなくなるであろ ︒このような時間的過程の上 にあるものは 未 だ 真 

個体というべきものではない︒これに対して︑ 時剋 の 極促 とは時の内的本質であり︑ 時 自体が そこに成就するので 

ある︒この瞬間においてある本願信愛の 機 こそ が︑ 最も深い意味における宗教的個体とい べき   

る 時においてある個体は ︑ 時にあって時に束縛 されることのない自由をもつ︒ 信丈ゐの 瞬間には 一面︑個体から時が 

成るという意味がなければならないのである︒ 

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は な 否定する立場ではなく︑むしろ真に主体的  な 個体の立場を基礎づけるものと い える︒﹁ モ トョリ シカラシム ル ﹂と      れ い う 言葉は法体大行に帰して考える外はな い であろうが︑これが信一念の時において充実 す る 点を考えれば︑この 人 ㈹ 

  搬 行の働くところ︑つねに同時に自覚的な個体 がある︒この信一念における同時相即をあらわ すものは︑ただ﹁ 聞 

﹂の㏄ 

凝 而立する時すでに自由であり︑自覚的な個体 もそこから考えらる べ ぎである︒ 

  みるに︑﹁自然 トハ ⁝⁝ キヘテ サフラフ﹂とい う 絶対 聞 信の立場は個体    ハ ー l Ⅰ ‑ 

に 機もそれに束縛されることはない︒これがまた 真に自覚的な個体というものでなければならぬ い ︒ 無 別体的に依 法  元来︑個体の自由とい こと 

のが考えられている︒近世 ョ ー 

がいわれる所以である︒宗教的 

の意志自由の問題に過ぎなくな 

意志的個体にはむしろ自由はな 

い︒これが自由をうるというこ 

と永遠が古来の宗教的課題とさ 

時間と永遠とのふれ合いにつ 

時間思想の基本をなしている︒ 

従って︑そこには時間と永遠の 

ない︒本願の自在力 は ついて︑ 

法 而立する時についても同様に  は 個体の自覚とともに云われてぎた︒その背後 にはしかし︑つねに個体を束縛するも 

口ッパ におけるが如く︑個体の自覚とともに﹁ 強 制からの自由﹂︵ ‑p す注銭 p nOu ゑざコ の︶ 

自由ということもこの観点から取扱えば︑いわ ゆる﹁信仰の自由﹂をい う 意味の通途  る ︒しかし︑何等かの意味で絶対的なものにかか わる宗教の立場からかえば︑かかる  いのである︒かかる個体はつねに時間のなかにあ り ︑その束縛を脱することができな  とは︑時間のなかにあって時間を超えたものに ふれることでなければならない︒時間 

れている所以である︒ 

いては﹁永遠の今﹂の如き主張もあるが︑元来 仏 教 では 無 別体的に依 法 而立する時が  時 が無別体的に成るのはその根拠たる法がすで に 待駒・流動的なるがゆえであろう︒ 

根本的対立はない︒時がこの ょう に 無 別体的に 成浩而立することは︑自然という 外は 

﹁ 讐如 阿修羅春雄 無鼓者 雨音曲自然﹂︵論詰︶ と いわれる よう に︑いま 無 別体的に依  形容することができる︒ 機受 はこの時において あるのであるが︑時が無別体なるの え 

伏シ ︑魔界外道モ 障擬 スル コトナシ 0 罪悪 モ業 報ヲ感ズルコ トアタハズ︑諸善モナコフ コトナキ ユヘ ナリ﹂ ハ 歌典 妙 ︶  といわれる如き絶対自由の生れ い ずる根本的立 場を明らかにするものが︑後段の自然 釈 および 無 上慢葉の釈であった 

のである︒ 

一 一 

これまでは後段の自然 釈は ついて︑それが主体的 な行信の立場と称しさること︑仏の行が 本 願 力 の 自然からそのま 

ま人間の行となって行者の自由を証することを︑ 行信次第の内面的関係︑即ち信一念の時の冊 造 を手がかりに追求し 

て ぎた︒すでに﹁ 行巻 ﹂の冒頭に﹁大行者別邸 社省 甘党如来格Ⅱ期待 即摂二 諸善 法 ﹁真二諸徳 本弍 極速 円満︒真如一実 

  功徳空海︒ 故 冬ニ大行ごとある如く︑﹁ 称無尋 光 如来冬﹂が期待とふまえられ︑期待 が ﹁ 極 連岡 満 ﹂するのである︒ 

ここにすでに︑行を主体的なものとする信の働 き がなければならない︒それゆえ︑同じく﹁ 行巻ヒに ﹁ 獲 玉貝 @ 実行  信ニ ︑﹁ 帰 二合断行信 ニ とあり︑それ自体充実し た 大行大悟がさらに行者の行信となって充実行を 成ずる 時 剋を予想さ  せる︒ここに﹁信楽開発時射乏 極促 ﹂という信一 念の釈があらわれることとなる︒この信一念は 確かに大行大 信 の 現  美的意味を活殺するものに相違ないが︑しかし かかる暗射乏 極促を 信前信後を分つ時点の如く 考 えることの非は先に 

指摘した︒かくしては機法一体の意味も失われ ねばならない︒また信を境に二つの別の行がある と 考えらる べ ぎでは  ‑ ㎎ 個体の自由として実現する︒﹁念仏者ハ熊 擬ノ 

  

考二八天神地祇 モ敬  一話であった この立場にたてば︑自由は法にも 機 にもなく︑機法一体なることにある︒しから しめられてしている 糾 @ は 自然法爾の行がそのまま自由である︒自由は束 縛や障害や必然に対していわるべ き ことではなく ︑もとよりそういう     対立を認めない立場である︒しかもそれは漠然 とした︑立場なぎ立場の自由といったものでもな く ︑厳然たる宗社 的 

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