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ない︒ 尚 江は獄中の秋水に母の死を弔 う再停む 送り︑﹁君の懇切な弔文にスッカリ泣かされてし まった︒予感万謝﹂
という返信をうけとっている︒秋水の判決が確 定 したのはこの年の一月十八日︑﹁ 尚江 はわかれ の手紙を書こうと 考
えな れ ろたが︑二十四日の朝︑ふと﹁屍骸をど ぅ するか ヒ という声が心の奥を矢のように過ぎた 同一つ堺君でもた ︵ 4 ︶ 死は︑ 多くの知識人の心胆をさむからしめた一般 的 衝撃とはまた格別に ︑ 彼には別個の深い痛恨 を 味わせたにちが い し ︑岡田 豊 治や百瀬興致らと提携し︑禁酒食の 運 動 とともに︑廃娼運動にものり出した︒この 禁 浦と矯風運動はいう
までもなく︑プロテスタントが当時もっとも カ せつ くしていた宗教的開化運動であって︑当時の 社会に大きな反響を
キリスト教にかなり深く傾斜していたことは明瞭 である︒前年にすで に ﹁安原徳義金﹂なっくっており︑この年の六月 八日には﹁予は如何にして基督教を信ずるに 至 りしか﹂という一誌 を 公表している︒受洗したのは翌々年の二十五 オ であるが︑その頃の尚狂ほついて︑長野の弁護 士 小木曽 庄 古家で彼 を 知った食客の高島米峰は︑当時の彼が﹁極端 な クリスチャンで︑糞の話でもしようものなら︑ それこそ六ヵし い顔 なしてにらみつげたしと回想するほど︑ピュリ タソ 的な心情にあったよ う である︒以上のような 状況が﹁年譜﹂から うかがえる︒おそらく︑問注には受洗の記憶 ょ りも︑キ リス 卜者となった理由を表明する一輪 を かいたことの記憶の 方が︑実質の﹁回心﹂として︑深く心に刻みこ まれていたのであろう︒そして︑たしかにキリ ス 卜者となったこと ほ︑ 彼の生涯の第二期を画する重大な転機であ っ たに相異ない︒
二十年一期 説にょ れば︑第三難の出発は明治四 十三年二九一 0 ︶四十三才の年に求めねばなら ない 0 この年に彼 はどのように執筆し︑また活動したか︒﹁年譜﹂ に 徴すると︑二月に﹁法然と親鸞﹂を出版した が ︑その序文をか い たのはどうやら年来の友幸徳秋水が刑場の露 と消 える直前であったようだ︒とにかく︑すでに 運 動からは身を退いて いたとはいえ︑秋水をはじめ昨日まで手をたず さえ︑危険と労苦と思想をともにしてぎた人々の ︑あの悲惨な非業の
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和た︒もちろん︑すでに言及した よう に転換 の 萌は明瞭に﹁ 戯悔 ﹂をかいたときに現れている ︒しかしキリスト教及び㌍
由江の二つの 国,し @
いするであろう︒
ついで︑この午には四月早大の大隈講堂で︑﹁ 基 督 抹殺論を よな ﹂と題して演説し︑その足で京 都へ 遊んで西田天
蚕
大島徹 氷 りにあ い ︑傾倒しはじめた法然の 祖廟知恩院を訪れた︒そのほかこの年に﹁野人語 ﹂第一・第二の両番 を 出版し︑﹁新仏教﹂﹁新潮﹂﹁実業の日本﹂ な どに数篇の論策を寄稿している︒内容的にはか なり多産な午であっ ぴ ずれて︑相談をしてみようしと思ったが︑同属 骸などどうでもよい b と思いなおして︑刻 ︑幸徳は絞首ムロ上に立っていた︒﹂︵山極︑前掲 書 ︑二三八頁︶おそらく 尚江は ︑秋水 ら
り 考えることもでぎなかったほどではなかったで あろうか︒
この時にさぎだって︑多分﹁法然と親 駕 ﹂の 序 支 はかかれていたであろう︒日付こそ
四年一月︑三河島村 町 谷の草屋にて︑木下尚江し と 署記されている︒その短い序文のな
不自然な文脈で挿入されている︒
﹁人の子 よ ︒何故に冬の悲哀に泣くか︒我等は正 に 声を合はせて冬の希望を讃美 せ
しといふ︒然れども一片の木の葉も決して徒ら に落ちぬ︒肩ょ︒下には既に新芽の
では無いか︒此の新らしい我を擁護する為に ︑旧 葉は飛んで根に帰る︒﹂
この文章の行間に︑秋水への念慮が躍動しては いないか︑そして︑この歴史的悲劇をつ
彼は痛いほどに感じ求めてはいないか︒あの 社 会主義運動︑もっと広くいえばブルジ ︐
る 革命運動の前途に一灰の光明もみとめがたい 暗い﹁冬の日﹂に ︑ 彼が待つ﹁春風﹂と
はむしろ挿入されない方が︑この書物の序文と しては文意が通るのである︒それをあえ そのままにした︒丁度その時 の処刑が脳裡を占めてじっく 省かれているが︑﹁明治四十 かに︑ つ ぎのような一節が ︑
ねばならぬ︒君は落葉を痛ま
緑を包んで春風を待って居る
つんで︑蘇生せしめる世界を
ア 民主主義を実現しようとす
は 何か︒ともあれ︑この一節
て 破った彼の衷情は推量に価
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