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ドキュメント内 『宗教研究』193号(41巻2輯) (ページ 71-74)

           

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圭  復 

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一通  ナキニ  回訂はオ 

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前掲 

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る  青年 

は  一七頁、をも忠     自画 

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移  進  方  記  の  以  は  余  ろ  無  る  主  夫  像  し    """"" 一 

71  く  Ⅰ 7l) 

ない︒ 尚 江は獄中の秋水に母の死を弔 う再停む 送り︑﹁君の懇切な弔文にスッカリ泣かされてし まった︒予感万謝﹂ 

という返信をうけとっている︒秋水の判決が確 定 したのはこの年の一月十八日︑﹁ 尚江 はわかれ の手紙を書こうと 考 

えな れ ろたが︑二十四日の朝︑ふと﹁屍骸をど ぅ するか ヒ という声が心の奥を矢のように過ぎた 同一つ堺君でもた  ︵ 4 ︶ 死は︑ 多くの知識人の心胆をさむからしめた一般 的 衝撃とはまた格別に ︑ 彼には別個の深い痛恨 を 味わせたにちが い  し ︑岡田 豊 治や百瀬興致らと提携し︑禁酒食の 運 動 とともに︑廃娼運動にものり出した︒この 禁 浦と矯風運動はいう 

までもなく︑プロテスタントが当時もっとも カ せつ くしていた宗教的開化運動であって︑当時の 社会に大きな反響を 

  

キリスト教にかなり深く傾斜していたことは明瞭 である︒前年にすで  に ﹁安原徳義金﹂なっくっており︑この年の六月 八日には﹁予は如何にして基督教を信ずるに 至 りしか﹂という一誌  を 公表している︒受洗したのは翌々年の二十五 オ であるが︑その頃の尚狂ほついて︑長野の弁護 士 小木曽 庄 古家で彼  を 知った食客の高島米峰は︑当時の彼が﹁極端 な クリスチャンで︑糞の話でもしようものなら︑ それこそ六ヵし い顔  なしてにらみつげたしと回想するほど︑ピュリ タソ 的な心情にあったよ う である︒以上のような 状況が﹁年譜﹂から  うかがえる︒おそらく︑問注には受洗の記憶 ょ りも︑キ リス 卜者となった理由を表明する一輪 を かいたことの記憶の  方が︑実質の﹁回心﹂として︑深く心に刻みこ まれていたのであろう︒そして︑たしかにキリ ス 卜者となったこと  ほ︑ 彼の生涯の第二期を画する重大な転機であ っ たに相異ない︒ 

二十年一期 説にょ れば︑第三難の出発は明治四 十三年二九一 ︶四十三才の年に求めねばなら ない この年に彼  はどのように執筆し︑また活動したか︒﹁年譜﹂ に 徴すると︑二月に﹁法然と親鸞﹂を出版した が ︑その序文をか い  たのはどうやら年来の友幸徳秋水が刑場の露 と消 える直前であったようだ︒とにかく︑すでに 運 動からは身を退いて  いたとはいえ︑秋水をはじめ昨日まで手をたず さえ︑危険と労苦と思想をともにしてぎた人々の ︑あの悲惨な非業の 

(172)        

和た︒もちろん︑すでに言及した  よう  に転換  の  萌は明瞭に﹁  戯悔  ﹂をかいたときに現れている  ︒しかしキリスト教及び㌍ 

  由江の二つの 国,し 

いするであろう︒ 

ついで︑この午には四月早大の大隈講堂で︑﹁ 基 督 抹殺論を よな ﹂と題して演説し︑その足で京 都へ 遊んで西田天 

蚕 

大島徹 氷 りにあ い ︑傾倒しはじめた法然の 祖廟知恩院を訪れた︒そのほかこの年に﹁野人語 ﹂第一・第二の両番     を 出版し︑﹁新仏教﹂﹁新潮﹂﹁実業の日本﹂ な どに数篇の論策を寄稿している︒内容的にはか なり多産な午であっ ぴ  ずれて︑相談をしてみようしと思ったが︑同属 骸などどうでもよい b と思いなおして︑ 

刻 ︑幸徳は絞首ムロ上に立っていた︒﹂︵山極︑前掲 書 ︑二三八頁︶おそらく 尚江は ︑秋水 ら 

り 考えることもでぎなかったほどではなかったで あろうか︒ 

この時にさぎだって︑多分﹁法然と親 駕 ﹂の 序 支 はかかれていたであろう︒日付こそ 

四年一月︑三河島村 町 谷の草屋にて︑木下尚江し と 署記されている︒その短い序文のな 

不自然な文脈で挿入されている︒ 

﹁人の子 よ ︒何故に冬の悲哀に泣くか︒我等は正 に 声を合はせて冬の希望を讃美 せ 

しといふ︒然れども一片の木の葉も決して徒ら に落ちぬ︒肩ょ︒下には既に新芽の 

では無いか︒此の新らしい我を擁護する為に ︑旧 葉は飛んで根に帰る︒﹂ 

この文章の行間に︑秋水への念慮が躍動しては いないか︑そして︑この歴史的悲劇をつ 

彼は痛いほどに感じ求めてはいないか︒あの 社 会主義運動︑もっと広くいえばブルジ ︐ 

る 革命運動の前途に一灰の光明もみとめがたい 暗い﹁冬の日﹂に ︑ 彼が待つ﹁春風﹂と 

はむしろ挿入されない方が︑この書物の序文と しては文意が通るのである︒それをあえ  そのままにした︒丁度その時 の処刑が脳裡を占めてじっく 省かれているが︑﹁明治四十 かに︑ つ ぎのような一節が ︑ 

ねばならぬ︒君は落葉を痛ま 

緑を包んで春風を待って居る 

つんで︑蘇生せしめる世界を 

ア 民主主義を実現しようとす 

は 何か︒ともあれ︑この一節 

て 破った彼の衷情は推量に価 

(174)   74  登  て  自  な  作  で  り  社  湯  波  黙  さ  か  も  、  ス  会 

主義  か 

の必然の晩年  来 其時 

て、こ  、手 

に 

、社会 

四ヵ年  教へ ト 

, 性  の  め  の  さ  的  を  の  ら 

   への、 

する 索 

という 

力  と期す る  」と い  に  を  に 力  はじめ  の道道  も急激  大きな う  乾  こ 

ギ 

の 

を明とな一行 

度 

り 

斯 

ら  を  た  た  て  な  し う  か  は かげ  じめ 

沈  潜 

し  ね  換 りと  上 ノ こ ヒ  転 の 

換 

ものと 

そうに 

は  、いく。 

かにし  如 かぎ  青木好 

精  は  外 

り 

て、 

     

。  だ  た き  っ  ち も  。  頓  の  容  困 

ドキュメント内 『宗教研究』193号(41巻2輯) (ページ 71-74)

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