――目次――
論文
1,
本居宣長の遺言について:「遺言書」にあらわれた宣長の思想と心理, 松本滋, On the Last Will of
Motoori Norinaga, Shigeru MATSUMOTO, pp.1-21.
2,
充実行としての自然法爾, 遠山諦虔, Jinenhōnials Erfülltheit mit Nenbutsu-gyō, Taiken TŌYAMA,
pp.23-42.
3,
太平天国の宗教思想についての一考察, 冨倉光雄, The Religious Thought of the Taiping Movement,
Mitsuo TOMIKURA, pp.43-64.
4,
木下尚江の二つの回心:彼の生涯と思想における仏教の役割についての試論, 森龍吉, Double
Conversion in the life of Naoe Kinoshita, Ry
ūkichi MORI, pp.65-92.
追悼文
5,
フリートリヒ・ハイラー先生を悼む, 浜田本悠, Hon’yū HAMADA, pp.93-99.
ぬ 事はほとんどなかった。村岡典嗣さえも、 油 曇 重言にまつわる後述の 一 問題点につぎ、﹁に は かに推測しがたい﹂と 判
に 見える室長の遺言が、彼自身の思想と心理に かに密接に結びっ ぃ ㈹ 長 相 ていたかを考察せんとするものである。 言は ついて ﹁催事﹂つまり長男 春 庭と、﹁太郎兵衛﹂すなわ ち 小西家の養子になった次男 春村 とであっ ﹂の遺言書は、世間 一般のそれとはお ょそ 趣を異にする、ある意味で 型破りなものであった。それはたんなる辞世で もなく、家督や家産 の 相続についての指示でもない。また鈴屋一門に 対する訓戒の言葉でさえない。その主たる内容 は 、彼自身の葬儀、 墓地、祥月等に関する希望であり要求である。 し かもその中には、世間的常識では真意をはかり かねるような項目す ら 含まれていた。官長が何故にこういう 油墾舌を圭 串き 留めたかは、貫長に関心を抱く我々にとり 一 つの興味深い問題な のである。 ︵ 2 ︶ この遺言書は、これまでも二、三の識者の目にと まってはぎたが、官長の思想、心理との関連に おいて分析された ヘ エ ・ ︶ 本居宣長は 、 死の一年程前に﹁油萱 目書 ﹂一通を 書 きのこした。寛政十二年 セ月 、宣 長セ 十一歳の 時 である。宛先は
|
﹁ せ桿
言書﹂にあらわれた
宣
長の思想と
心理
||
松
滋
本
本居宣長の
ヰ 早言
は
ついて
先ず、﹁遺言書﹂の概略を記そ う 。 我等相乗候は ビ必 英日を以て忌日と定むべし、 勝 手に任せ口取を違 候 享有志開敷 候 、 扱 時刻は前 夜之九 , 時過ょ り 某日 之夜之九ッ 迄を其 日 と定むべし、 讐へば 晦日立板 之九ッ過 よりは来月朔日にて、朔日 之夜 九ッ迄 朔日 也 、 右左刻を以て定, 候 べし︵句読点は筆者が付し た 。以下同様。︶ この几帳面な忌日の指定に続いて、葬儀の段取り に関する指示がある。 柑 果 候て 送葬造立 間念 例中 候事 無用に 候 、但し 法樹 院参候 て 備前にて 勤致候 儀は格別 也 沐浴は世間並にてよろし、沐浴 相憤 候はど 、如 平日髪を剃 候て 髪を結 呵申候 、衣服はさらし木綿 之 絹天 膏ッ、幣 同断、 尤袷 にても草物にても稚子にても、 某時 範之 服可為候 、麻 之 十徳木造。芝蝦 にて宜候、随分 麓禾 にて 貝 形計の 道 。付にて宜候、 棺中 へさ ら し 木綿左心 ギ布回 を敷回申 候 、町仔細うす , y て宜 分麓 未成柿木綿を可用 候 、 扱 稿を紙にていくつ も包 ,福中所々死骸 之 不動様につめ回申 候 、但し 丁寧にひしと っ め 候には不及、動ぎ下中様に所々つめ 候 てよ るし く候 、棺は箱にて 、 板は一通り 之杉之 六分 板可 為 ざっと一週 削 り 内外典美濃紙にて一週強司 侯 、 蓋 同断、 釘メ、 尤 ちやんなど流し侯には不及、必々 板等 念人 候 儀は可為 無用 候 、随分免 相成板 にて宜候 右の引用 中 、宣 長が 衣服等は﹁ 麓禾 ﹂なもので よろしいと繰返している点に注意しておきたい。 この後、宣長は葬送 について二重の指示をしている。これは﹁ 油 磐田 童 巳中 、もっとも興味をひく箇所の一つである。 石棺は山室 妙 染寺 へ 奏可中條、夜中密々右左手 へ 送り可中條、太郎兵衛 井 門弟 之 内重両人送り可 被 参候
居 貫長 の 遺言に とある。遺体というのは、室長の曽祖父で木綿 業 に成功し、江戸大伝馬町に店を三つも構えた 人 である。室長 は ﹁ 家 のむかし物語﹂の中で道体を﹁ 吾 家の中興の祖﹂ とたたえ、﹁すべて松坂は富める 商 多くして、 い づれも江戸店とい ふ 物をもてるが、その中にも、すぐれたる中に 戒名は 、 自ら﹁寓居 焼 石上通 啓 居士﹂とっけ 、 また 妻お 勝の分も﹁ 圓明院清 窒息 鏡 大姉﹂と定め 、これを 樹 敵手 の 3@ (103) 樹 敏幸にて墓は道 体 大徳 御 基之 右隣 へつ どげ、 遭 へ張出し地取可敦 候 、丸君立地面 威尺 五寸評 道 へ 出し 候 所、 樹 つ、 敏幸 へ 教相 艶 買収回申 候 、後日お 勝 柑果候はど 此 墓地へ 葬 回申 候 葬儀の事につ ゾ いて、墓に関しても室長は細か な 注文をつけている。かれは、 樹 敵手と妙染寺 の 両方に墓をつくる よ う 指示する。先ず掛数寺の方については、 行列構造は、寛政六年、宣 長 が紀伊藩主ょ り加 増 を受 け 御針 医格 になっての帰途、松坂入りに 当 って組んだ行列の構 ヘ 4 Ⅰ︶ 造 と大体一致している。ただ、この葬列の中心 である乗物は空である。死骸を入れた棺は、すで。, に ﹁夜中密々﹂山室 妙 染寺の方へ送られている筈だからである。 宣 長 はそれを、﹁右左道にて掛数寺本堂 迄空 力 , , 達也﹂ 。。 と断 わっている。 ﹁ 健亭 苦患﹂、﹁同人草履取﹂、﹁
独揮
、﹁草履取﹂、 次いで﹁合羽籠﹂、そして親類、門弟が入り交 りこれに続く。この 次に宣 長は 掛数 寺 までの行列の順序を 、 図を書 い て示している。それに よ ると、先ず﹁ 挑灯持 ﹂ 二人、その間に ﹁長刀持﹂、続いて﹁決闘 院 ﹂︵ 樹 散手住職︶ 、乗惣
乗物の両脇に﹁ 若薫 ﹂二人、乗物に従って ﹁催事﹂、その両側に り 何彼 申候 我等死骸 之儀は 妙 興 寺 へ 葬り申 度 、 葬式は樹敬宇勿論 之事 、右 左 段本人遺言教 侯旨 掛数 寺 へ送葬以前早速に相 勘 この事は、やや後にも念を入れて繰返している。 送葬之夫 は 掛数 寺 にて執行 候事 勿論 也墓地に建てる石塔に刻むのみでなく、﹁家内 佛 壇 に安置 候 位牌も此 通可為候 ﹂とした。また石塔 の 脇には二人の役牛 月日を 、 裏には﹁本居春庭 建 ﹂の文字を入れる よさにと指示している。 妙 染寺の墓については、さらに念の人った説明 がなされている。 妙 楽手墓地 之儀は 、右左手境内にて 能 ,所見つ く るひ、セ尺 四方計立地面 買 取帳面相宏司 申候 、 葬儀節穴 深 サセ 尺館 にて宜候、埋, 様 世間並にて子細 無之候 墓地 セ尺 四方計 其 ,中夕。 後 。 へ 寄せて塚を築 候而其 上へ櫻の木を植回申 候 、 塚 左前に石碑を建 回申 候 、 塚高サ 三四足許、 惣体 芝を伏せ随分堅く致し崩れ下中 様 、後々君朝。 候 所あらは、折々見廻り直し回申 候 、植候 楼は山 櫻之 随分化之宣 ぎ 木を致吟味 植 回申 候 、勿論後 々もし 枯 候は ゴ植 曹司中條 貫長 は 油蛋 @ 胃を書いたその年の九月、弟子たち を 連れて山室 妙 楽手に赴き、自ら墓地を見立てて 買 求めた。葬列の場 合 と同様、墓地のあり方についても丹念な図解 がついている。石碑には、右に見た戒名ではなく 、ただ﹁本居宣長 之 奥津 紀 ﹂とのみ記すよさにとの指定がある。 樹 敬 寺の石塔 と 具り、﹁石碑の裏 丼脇 へは何事も書 中間数 候 ﹂という 注 意 書まで付せられている。更に石碑の体裁につ いても細々とした指示があり、その中に﹁石碑 之 前に花筒など立候 事 無用に 候 ﹂という一項がある。また、 セ尺 四方 0% 忙は 延 石を伏せたいが、﹁ 飲程 代物掛り可 申 候間 、夫は迫耐乏 事 に 致し、 先 富倉 丸 石にてもひろひ集め並べ貴司 申 候 ﹂と述べている。 吹 には墓参に関する指示が続く。 後々妙 興 寺墓参は一年に 壷度 祥月計にて宜候、夫 も 雨天或は差文筆右左候は ゴ 、 必 宮口には下限 前後立内見計 ひ 参 何彼中條、祥月には毎年 妙 染寺 へ 喬木 萱 外銀 札萱包づつ 施入司教 候 、毎月忌日墓参りは 樹 敵手 にて宜候 これと並んで次の様な一条がある。 (104) 4
他所 他國之 人我等 墓を尋 候は Y 、妙薬寺を教へ 遣し回申 侯 ﹁忌中 之 儀法事 其外 諸事﹂については、すべて﹁ 世間並に﹂ 行 な う よう、また﹁家内俳壇 へ致安 置候 位牌﹂も﹁ 世 間近 之 通り﹂にするよ う 、とある。同様に 、 ﹁ 毎月の忌日露 膳 等も是迄 致 来儀御先祖達之通りに 可敦 候 、 致 精進 候儀 も 同断に 候 ﹂としている。 しかし同時に、貫長 は 、毎年祥月に﹁世間並﹂と はちがった特別のしつらえや催しの 行 なわれる 事 をも希望してい る 。 妙 楽手祥月墓参のほか、 毎年祥月には前夜より座敷 床へ像 掛物を掛け、 平 生月 候 我等机を置き、掛物の前正面へ 姦牌を立 て 、時節立花を 立テ 燈をともしハ香を焼 候 事は無用 u 、膳を備へ 可被 中條、九膳料理は魚類にて四作り鱈汁散卒 ハ し ゃう じん 物 計 にてよ るしロ 焼物口籾蛇口占左道 可為候 、酒 は みき徳利一封、膳具は白木立足付のぜん 、 椀は 茶碗 という細かい指示がある。ここでい 5 座敷は 、壬 而ぅ までもなく彼の書斎﹁鈴の尾﹂である。﹁ 像 掛物﹂というのは、 寛政二年、宣 長 六十一歳の八月になった自画像 で、そこに﹁ 志き 島の大和心を人とは ゴ 朝日にに ほふ出 さくら 花 ﹂ の 歌が題されてある。︵ 6- ﹁平生用 候 我等 机 ﹂とは、 一 兄部遊学中に作らせ、以来四十年余りも使って い た 小さな桐の机のこ とである。﹁ 霞牌 ﹂は、貫長 が ﹁平日 机之傍に 置き日々手刷候楼芝本 之笏 ﹂を ば 台にさしこんで 作るよう、またその い
て了,,
霊牌には﹁秋津 彦 昌 美夏 @ ツ 櫻根 Ⅰ。。 大人﹂と書くよう , 。。 にと室長は指示した。 に 貫長はまた、﹁毎年祥月には一度 づつ 可成 長ケ 手前にて 寄 会を催し門弟 中 相葉﹂ることを 希望している。その日 一一一一口ぬは
、祥月当日でなくても 像 掛物を右 左 通り 筋 るよう、 膳を備えるには及ばないが酒は備える よ う、又 お客には﹁一汁 錬一菜精進 可為候 ﹂とある。 居木そして官長の﹁ 油爆 @ 口書﹂は次のような言葉 で 結ばれている。 5 (105)右に記した 宣 長の遺舌口の中で最も妙に思われる のは、遺骸を納めた棺を﹁夜中密々﹂に山室 妙楽 寺 へ送り、葬送の 式の当日には行列を組んで掛数幸造﹁ 空送 ﹂ せ ょ 、との指示であろう。この点はすでに当時の役 人の眼にも異様に映 っ たらしい。村岡典嗣が本居家より発見し公表し た 文書類の中に、﹁松坂奉行筋の指図とおばし い もの﹂がある。 そ の中に次のような箇条がある。 一 、夜中密々山室に送り申 候 事は、 可有 遠慮 事 。 一 、 樹 敵手 へ空 送の事是は遠慮 可 然候。やはり 通例 之 通り、 樹 敵手進御葬送 取 計、本堂より式 相湾候 上、姐御 ぬ 翌日、山室へ送り 候 市司 然奉 存候 事 。 此儀は、追 而 いづれぞ より 尋尊右左儀節、中波 六ケ敷筋に 市司右左 被 存候 ︵ 7 ︶ 間 、能々間合筆、御 坂計 右左庫車。 常識的な感覚からするならば、先ず掛数 寺へ葬 送し 、葬式を済ませた後 妙 楽手へ送り埋葬するよ うに、というこの 栓 坂 奉行の指図の方が、室長の希望そのものょり もむしろ分りやすいであろう。しかしながら我々 が 考えなくてはなら ないのは、あのように温厚かつ円満、中庸のと れた人格の宣 長が @8 ︶何故に 、 其 筋の差止めを受ける ような風変りな 葬僅 を 望んだのかという点である。 この問題に接近するための一つの手がかりとして 、 我々は先ず官長 と樹敬 寺及び 妙 染寺とがど う いう関係にあった かを見ておこう。 一 にて候、御先祖父母へ 之 孝行木通 之候 、以上。 家相 績跡 々 惣体之 事は一々小友中直 候 、親族 中 随分むつましく致し、家業出精家門 絶断無 左様 永 く相績 左前肝要
神
墓地を求めるなどとは思いもよらぬことだっ
たのであろう。死についての貫長の思想は
、人
ほ貴賎
善悪を問わず、
死
7
長
(107) -O- l な 家庭環境に育ち、寛延元年、十九歳の秋色 は 掛数 寺 で五重相伝を受けた。 妙 染寺も浄土宗で 智恩 院の末寺である。松坂の 南 約五十 町 、山室 村 にあり、美しい自然に囲まれ ている 0 貫長の先 祖 と何らかの関係があったらしく、﹁別本家の ぉ 円物語﹂には、﹁ 横瀧 の 念 郁生、山室の妙興寺な どにも、御先祖たち ︵Ⅱ @ ︶ の 御位牌 有て 、 昔 寄附の品有し 也 、 妙 楽手へは、 仝に 佛飼 米を奉る 也 、横 湘 へは奉らず﹂と記さ れてある。また室長 はこの寺の住職法 書と 親しい間柄にあり、しばし ば 寺を訪れたという。 樹 敵手も 妙 楽手 も 、このように共に浄土宗の寺 であり、 官 長の家と古くから関係があった。ただ 、室長の意識の内 面 にまで立入って考えると、両者の間にかなりぬ 思味深 い相違があったのではないかと思われる。 すた ねち、 樹 敵手 は 先祖代々菩提所として慣習的、制度的に宣長の 家に結びついてきた寺で、室長と 樹敬 寺の関係も 元来それに 塞 いたも のであった。これに対して 妙 楽音との関係は 、住 職 との親交といい、あたりの眺望を宣 長 がこよ なく愛した事とい い、むしろ彼自身の個人的私的な関心が主たる 基 盤 となっていたよ う である。 さて以上の点を念頭におきながら、貫長の蓮聖旨 の もつ意味の分析にかかろう。上述の如く、室長 は 妙 楽手 に 葬られる いことを望んだ。のみならず、 油退巳 @@ 重日を認めたしたた 翌々月には山室に自ら墓所を定めている。小林 秀雄も指摘しているよう乱に
、この行動は宣 長 に最も近しく師事してい た 養嗣子本居大平にも解せないことであった。 大平の一手記によると、 ︵ 0g- 唱阿 はとくに信心に厚く、相当額の祠堂 料 を樹 敵手に寄入し、法事を熱心に行なった。室長 も幼 時 よりこの浄土教的 闘歌寺は松坂にある浄土宗︵鎮西派︶の寺で、 宣 長の家では先祖代々これを菩提寺としてぎた。 曽 祖父遺体 と 祖父
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の 理 を ふ で の 信 尤, @あ 然
じ つ ら た び た し が 虫 屋 むも る し る し と か -5 l ︶ れ 古書の趣にて明らかに 候 なり﹂︵谷間銀︶ こ れが古伝説に 塞 いた 官 長の確かな信念であった。 心と申すは無きことに 候 ﹂︵谷間銀、傍点筆者︶ と 舌口って 悼 らなかった。﹁善人とてよき所へ生 れ候 事はなく 候、こ 室長 は 、かく﹁ 豫 美国﹂に行くという 事 以上に は 、死後の事について、まして来世について 語 らなかった。世上 ﹁安心﹂などというものは、彼に ょ れば虚妄であ り ﹁無益の空論﹂であった。彼は 、コ 人々の 小 手前にとりての安心 はいか ビと 、これ 猶 うたがはしく 思召候条 、御, ﹂とわりに 候 、 此 事は誰も
ノ
Ⅰみな 擬 ひ 候事 に侠 へ とも、小手前の安 ︵ 93 i ︶ りたる物にして、 い づれも面白くは聞ゆれども、 皆 虚妄にして、實にあらず︵宝庫︶ となれども、それは或は人智のおしはかりの 理 窟を以てい ひ、 或は世の入の尤と宿ずべきや ぅ に 、都合よく 造 ねばみな暗くきたない黄泉国に往かねばならぬ、 というただその事に殆ど尽きていた。それ以上 の 詮索は儒仏の書の 8 作りごとであった。彼は言 う 。 さて世の人は 、 貴きも 賎 ぎも善も悪きも、みな 悉く 、 死すれば、 必ス かの稼業 國 にゆかざること を 得す、いと 悲 しぎ事にて ぞ 侍る 、 かや う に申せば、 たビ いと 浅 はかにして、何の道理もなきことのや う には 聞 ゆ れども、これ ぞ 神代のまことの侍読にして、妙理の然らしむ るところなれば、なまじ ひ の 几 智を以て、とやか く やと思議すべ ノヤウン き 事にあらず、然るを異図には、さま,の道 を 作りて、人の生死の道理をも、 甚タ おもしろく かしこげに説こ居 う つ そ 身はすべなぎ物かあかなくに 此世 わかれ てまかるおも へば 本 ず 、かならずかの 機き 滋美,國に往くことなれ ば、 世の中に 、 死ぬるほどかなしぎ事はなきもの なるに、かの 異 國の道々には、或はこれを深く哀れまじき道理 を読 き 、或は此 ノ 世にてのしわざの善悪、心法の とりさばきによ りて、死して後になりゆく様をも、いろいろと 廣く委く説 たる故に、 世 , 人 みなこれらに惑ひて 、 某説共を尤 なる事に思ひ、信仰して、死を深く衷む な ば 、愚 なる心の迷ひの やう に心得るから、これを 悦て 、強て 迷はぬ ふ り、 或は締世などい ひて、こ とごとしく悟りきはわたるさまの詞を遺しなどす ろ は 、背 これ 大 ぎ なる偽のつくり言にして、人情に背き、まこ との道理 仁 かなはぬことなり、すべて喜ぶべ き事 をも、さのみ 喜 ばず、 哀 むべ き ことをも、さのみ 哀 まず、驚く べき事にも驚かず、とかく物に動ぜぬを 、ょき事 にして 尚ぶは、 みな異域風の虚偽にして、人の實 情 にはあら ず 、いとうるさぎことなり、中にも死は 、 殊に 哀 しからではか な は ね 事にして、 國土萬 物を成立、世,中の道 を 始めたまひし、伊那 那岐 大御神すら、かの女神 のかくれさせ 給 ひし時は 、 ひたすら小児の。。 -@ ごとくに、 泣悲 みこが れ玉ひて、かの 豫美ノ國 まで、慕ひめかせたま ひしにあらず -G- l や 、これぞ 真 實の性情にして、 世 らず左様になくてはかなは ね 道理なり︵宝庫︶ あし かく、貫長には﹁後生﹂や﹁来世﹂への期待は全 くなかった。死は至福の国への入口ではなく、 暗く 楠く 悪き﹁ 豫 美國 ﹂に至る通路であった。言いかえるならば、 貫長は人間にとっての価値と意味を、あの世に ではなく、此此のこ 埜の中に見ていたのである。死は、その 生 の 価値の否定を意味するものでしかなかった。 従って、貫長が心から 希 ㏄ ぃ 求めたものは、 此 世における生であり、 そ の 天長 き 享受であったに違いない。﹁玉鉾百首 ﹂の中に次のような歌が 吠 ある。 たまきはる二世はゆか ふた
、かにせ。
ぬ うつ そ 身をい は かも死なずてあらむ 長 出 j 二 @% (109)@ ノ 。 こうした貫長の思想と心理にそくして考える時、 我々は彼の油望日の中に出てくる様々な要素に 、 すが 味 なょ みとる事ができる,それは、いわば 此世 における自己の生の像を、いつまでも生 き生 ぎと とど ねが ぅ 希いに関わる。先ず、﹁ 出 さくら 花 ﹂の歌を 記した自画像、彼が青年の頃より汗をにじませ、 数々 して来たところのかの文机、日頃手近に置いて は 愛用してぎた桜木の笏で作った霊牌等々、これ ろ は つの一貫した 責 めおきたいとい の 著作を生み出 いずれも官長 そ 貫長がこの文章をものしたのがお ょそセ 十歳の 頃 であったということは、きわめ この ょう に 官 長 は 、 此 世における彼自らの生を 、 また 比せ の圭一般を 、 愛し、 オ ケ @ ︵ 0g l ︶ にあるべきかぎりのわざをして、隠しく 楽 く 世をわた﹂ る 事によって 此世の る 。﹁九十までも、百歳までも﹂﹁いかにせ ばか も 死なずてあらむ﹂﹁千代とこと 室 長が人間一般の﹁ 實情 ﹂を詠んだものとも 言, ぇ るが、それ以上に彼自身の偽ら て 意味が深い。 いとおしんだ。彼の希いは﹁ほど 生を享受する所にあったと思われ はにこの世にもがも﹂等の言葉は 、 ぬ 心情の表現と解することができょ さらに晩年の随筆 集 ﹁ 玉 かつま﹂の中には次のよ う な言葉も見られる。 世の中のこざかしき人は 、い はゆる道歌のさま なる 俗奇をょ みて、さとりがましぎ事をよくい ふ ものなり、或は 身 こそやす け れなどか ひて 、わが心のさとりに て 身のやすぎ よし を ょ むこと、みな 儒佛 にへつら ひたる 偽 ごとな り 、まことには、わが身を安しとして、 足 事 な しれるものはなきものなり、たと へば 人の齢 な ど、セ 十に及ぶ は 、まことにまれなる事なれば、 セ十 までも 長 ら へては、はやく足れりと思ふべ き ことなれども、 人 みな 猶 たれ り
とは思はず、末のみ ぢ かぎ事をのみ歎きて、 九 十 までも、百歳までも生かまほしく思ふ ぞ、ま ことの 情 なりけ Ⅹ︵ ト @ ︶ る ︵ 玉 かつま十四、﹁世の人のこざかしきこと いふ を よ しとする事﹂、傍点筆者︶
︵ り @ ︶ き たな 國ょみ のくに べ はいなし こめ 千代とこと はに此 世にもがも
犬居官長の遺言について る 0 宣 最は、自分の祥月にはこういうシンボルの 前に自ら注文のお膳をお酒 つ きでそなえ、また 弟子達が賑々しく 集 って 、 彼の愛好する歌会を催すことを 希 んだ。 め 旦長 が和歌をいかに愛したか、歌がいかに彼の学 問、い や彼の存在 そ のものから切り離せぬ大事なものであったかは、 ここに詳述するまでもない。青年時代に一学友 死 に書いた手紙の 一 ︵ 2 ︶ 節 で、彼は﹁ 僕之 好二和歌 - 帖血文癖地﹂と言っ た 。この若い頃から﹁性﹂とも﹁ 癖 ﹂ともなった 和歌愛好の気持は 、 後年古道の研究に精力を注ぐようになってから も少しも変らなかったのである。 妙 染寺の墓についても、同じ角度から解釈する @ ﹂とができる。官長 は、 自らの 賞 愛した美しい 山 室の岡に埋葬され ることを願った。それも火葬ではなく、土葬さ れん事を求めた。 官 長の先祖、親戚の多くは火葬 の 慣習に従っている が 、その中で彼はあえて土葬を希望したのであ る 。墓のあり方についても、彼は自分の好みを 細 かくはっきりと記し おいた。その一々の特徴が何を意味するのかは 必ずしも明かでないが、少くともそれらが全体と して、室長の個性を すが 家や周囲の伝統的慣習にとらわれない彼の 個性的な像を象徴している、ということはで きょ ぅ 。 とくに重要なのは、桜の木についての彼の狂文 である。彼は納棺に際しての衣服、脇差、布団、 また棺などに関し ては、すべて﹁鹿木﹂﹁免租﹂なものでよろしい と 繰返している。墓地の堺の石も、当分の間は 丸 石を拾い集めて 並 べ十 Ⅰおけばよいと舌口 っ十 Ⅰいる。ところが、こと 桜 0 本については、﹁山腰 之 随分化之宣 ぎ 木を致 吟味 植 回申 候 ﹂と 注 文 した。それも﹁後々もし 枯 候は ビ植 曹司 申侯 ﹂ と 念を押している。石碑の前に花筒など要ら ない、としているの も 、この桜への一図な気持と無関係ではないで あろう。 官 長 が 桜の好きな人だったことは有名である。 そ れも単に好ぎだったという以上に、心理的に 桜 と 常に一体であっ㎝ たとすら言える。精神分析的用語を使 う なら、 彼 は 桜を自己と﹁同一視﹂︵日の コヰ守 ,日の コ ︵ ヨ 9 ヱ 0 口 ︶していたと言
うは
0人を日本語として
未 だ熟していないが、 彼のぎの 口 ︵ 円 ︵ せ ︵自己同一性︶をすぐれて 象徴的に表わしてい一 一 一 山 もろにちとせの春の宿しめて風にしられぬ 花 を こそ 見め 今よ りははかなき身とはな げ かしょ千代のすみ か をもとめえっ れは -4 2 ︶ ことができょ ぅ 。貫長の自画像は 、 右に見た六 十一才の時のと、もう一つ四十四才の時のと、 二 っ あるが、その い ず れもが枝の歌入りである。後者は、机の前に端 坐して花瓶に挿した山桜を賞美している図に 、 ﹁ め つらしぎこまもろ ︵ 2 2 ︶ こしの花よりもあかぬいろ香は櫻なりけり﹂の 一 ぬを 書いたものである。その他にも、貫長 が 桜に ついて詠んだ歌はき ね めて数多Ⅱ︵ 、 3@ O さらに、前述のように、彼の愛 用 した笏は桜の本でできたものであり、死後その 上に書き記すべく 自 ら 定め置いた後 @@ ・ 誼は ,ナ ﹁秋津 彦 美夏横根大人﹂で あった。こうしてみると、山桜の花は宣 長 にとっ て 単に﹁ 志き 島の大 私心﹂を表象するばかりでない。その﹁大和心﹂ を 自らの心とし、それに生きんとした官長その 人を 、象徴するもの と 見ても差支えないと思 う 。 貫長 は 、 妙 楽音墓地のかの山桜が﹁随分化之宣 ぎ本 ﹂である よう 依頼したばかりではなく、 植 替え 植 替えにもせ ょ 、とにかく永遠に生きたものであることを 希 った 。このことは、この墓地の石碑に﹁本居宣長 玄奥津 紀 ﹂とのみ 記 し 死去の年月日など書くな、と殊更に断った 彼 の 心意と併せ考えると、実に象徴的な意味をもつ 。山桜の木は今もな お 生きている。春が廻り乗れば美しい花を咲 匂 わせ、そして 妙 染寺の墓を訪れる﹁他所 他國 亡八 ﹂は い 、いつま う Ⅰも 屋収 りかけるのである。この山室の墓地は、 此 世に 自らの生の像を自己の。日の コ ︵ レ ︵ ぜ " を ﹁ 千代とことはに﹂ 留 め おぎたいという貫長の思いに深く根ざし、それ を 表現していると言えるのではなかろうか。 彼 が 自分の墓所を定め て 後、次のような歌を詠んだといらことは、この 点 注目に値いしよう。 ( ⅠⅠ 2) 12
本居宣長の遺言につ ︵ 簗 @ に 思ふは、 人 , 力を 以て神, 力 に勝むとする 物 にて、あたはざるのみならず、 却て其 時の神道 にそむく物なり ︵ 柊白朗円内球 、 位防占林笠 早老 旧 ︶ - ㏄︶ ﹁玉鉾百首﹂でも貫長は次のような歌を詠んで ぃ る 。﹁ 騎 如か予も神にしあればその道も廣けき 神 の道の枝道﹂これ㎝ が室 長を単なる復古主義者から区別する思想で ある事は言をまたない。もとより官長にとっても 、儒仏渡来以前、 禾 n3 いて そ て 申 事 の 心
それ
て な 然、、,
も老もころ」
いずれ 室長 意 の いる 候 」 …で ガ それ 浮 に を 、 ふ れ み に で に 味 。 と き は ぶ で べ、に あ な の 真 長 っ 画 一 る も
山 親 椀 樹
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よ ひ て、 事 制 て 「 参 重 う 上 べ、 古 し ま 國 8 人 た か た 立 場 里 の古く
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ぅ 以、 か @ 弗 、 と ら れ 司 る 寺 くこれも神意の い たす 所 、禍津日神のしわざであ るから、人間の 力 ではいかんともしがたい。むし ろ 、永年伝統的慣習 として確立存続してきたものは、たとえ儒仏的 なものといえ急に改廃すべぎではない。それこそ ﹁ 其 時の神道にそむ く ﹂行為であるという。﹁ 玉 かつま﹂でも貫長 は 次のように言っている。 道 にかなはずとて、世に久しく有りなら ひ つる 事 な 、にはかにやめむとするはわろし、ただその そこな ひ のす ぢ をはぶきさりて、ある物はあるにてさし お ぎて、 まことの道を尋ぬべき 也、よるづ の事を 、しひて 道 のま ュ に直し おこ た はむとするは 、 中々にまことの道のこ ュろ にかなはざることあり、萬の事は、おこるも ほ ろぶ も、さかり なるも お とろふ る も、みな神の御 心 にしあれば、 さらに人の力もて 、えぅ ごかすべ き わざにはあ らず。まことの - ㌍︶ 道の意をさとりえたらむ人は、おの づ から 此こ とわりはよく明らめしるべき 也 ︵ 玉 かつま二、﹁ 道 にかなは ね世 中のしわざ﹂︶ 更に宣 是 は 、 単にしきたりに逆らうなというだ げ でなく、むしろもっと積極的に、後世の方が古 え よりまさって い る 事もあるとさえ主張する。 右 よりも、後世のまされること、萬の物にも、 事 にもお ほし 、英一つをいはむに、いにしへは、 橘をならび な き 物 にしてめでつるを 、 近き世には、みかんとい ふ物 ありて、 止 みかんにくらぶれば、橘は敦にも あらず げ おされ たり⋮︵中略︶⋮ 此 一つにておしはかるべし、 或 は 古にはなくて、今はある物もおほく、いにし へは わろくて、 ︵ り Ⅰ 0 サ ︶ 今 のは ょ きたぐひ多し。これをもておも へば 、今 よ り後も又いかにあらむ、今に勝れる 物お ほく 出来べし︵ 玉か つ ま十四、﹁ 古 よりも後世のまされる 事 ﹂︶
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︵・Ⅰ︶ 3 だ 天皇が﹁天照大御神の御子﹂として比国を﹁ 神 ながら安城 と平 げく所知看しげる﹂上古は、理想 の時代であった。後 14
本居宣長の遺言につ㌧ こ 5 い う 室長の考え方からすれば、家や社会に伝 わり乗ったしきたりあるいは﹁時世のなら ひ ﹂ に 従うということ ほ 、人間の当為であった。実際、宣 長 自身、﹁ すべて先祖の祝 り 、 供佛 施僧のわざ等も 、たビ親 0 世より為来りたる - ㏄ - まムにて、世俗とかはる事な﹂いようにと心が げ 、規則正しく勤めた。彼の一生の日記を見ると 、三年忌、 セ 年忌な どはもとより、百年、百五十年、さらには二百 年 といった遠い年忌も 、 家の宗旨すなわち浄土宗 の 法式によってきち 貫長は自己の葬式に関しても同様の態度を持し た 。掛数寺の墓はそうした貫長の態度の象徴とも 言 う ことができよ ぅ 。彼にとって、葬儀を樹敏幸 で 執行してもら うのは﹁勿論﹂の事であった。戒名も自ら定め、 それを墓石及び位牌 に 記すよ う 言 い 遺した。﹁忌中 之 儀法事﹂も﹁ 世 間近 に ﹂、また毎月忌日の霊膳なども﹁是迄 致 束候 御先祖達之通り に ﹂する事としている。さらに、 樹 敏幸に向けて の 葬列を図解までして示したのは、紀州 侯 御針 医 英語としての自己 の 公的地位とそれに附随する社会的しきたりとを 意識しての事ではあるまいか。 オヤ 結びの一条﹁家相 績跡 々 惣体 芝草﹂も、官長 に とっては﹁一々小友由貴し事であった。これが、 祖から子孫への 連 続 性を強調する貫長の思想と結びついている 事 は号ロぅ までもないが、さらに彼の思想形成の過程 に 則して考えると、 両親の意志とい 5 ものが直接重要な因子として 浮び 上る。官長は十一歳にして父を失った。尖足 利は、 亡くなる年の 15 015) ︵ 4 3 ︶ れるも、などかなからむ︵ 玉 かつま二、﹁忌日 禅 月 年忌の事﹂︶ 忌日、祥月、年忌などの宗教的慣習についても 次のように述べている。 そもそも比年忌と かふ わざも、月毎の忌日と同 じ たぐひにしあれば、 古 へになかりしわざならん からに、すつ べ きにもあらず、 伺 わざも 、古 へに異なるを ば、ひ た ぶるにはぶ ぎす てむとするは 、ょ ろしからぬ さかしら 也、そ こ なひだになくは、時世のなら ひ にそむかざらむ こそよからめ、父事が中には、 占 へよりも、今 のしわざのまさ
(116) 16 も ら 毎 で が に は
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17 にあるが、右の点を よ く指し示している。 @ 一一口田 @ 恩 さて吾は、古風後世風なら べ 2 む う ちに、 古と 後 とを ば、 清くこれを分ちて、 たが ひに混雑な ぎそうにと、 深
別 をだに よ く ゎ きま ふ るときは、後世風を よも も 、害 あることなの 長 出 貝
る 。﹁漢籍を見るも、等間のために 益おほし 。 や まと魂だに よ く堅固まりて、動くことなければ 、雲夜からぶみをの みよむとい へ ども、かれに惑はさる ム A@ れひ は た きなり。然れども世の人、とかく 倭魂 かたま りにくぎ物にて 、か ら 書をよめば、そのことよきにまどはされて、 た じろぎやすきなら ひ也 -2 4 ︶ @ 二 ︵ ぅひ山 ふみ、傍点 筆 老 @ ︶ 官 長 が 嫌ったのは、漢籍を読んだり仏事を修し たり後世の制度風習に従ったりする事自体ではな く 、それらと﹁ 古 ぱ の道﹂とを 混 清し、両者のけじめを見失う @ ﹂とであった。室長の次の言葉は 、 主として歌風 について述べたものでは 土 往生のための儀礼手続をふむことを承認した @ ﹂とになる。また人々の眼にも、彼が浄土へ赴く かのごとき感じを 与 える事になろ う 。これは上に見た貫長の生死闘 からして容れがたいことであったに違い きたりに寛容な宣 長 にも、どうしても譲れない一線があった。﹁ 相果 候て 送葬造立 間念佛申候事 無用に 候 ﹂という 短 い 言葉の中に、貫長 赤らわ 晩年の思想と自己感︵日の丑 田 ︵ せ ︶の深奥の微妙な 表れを見るべぎではなかろうか。 この 宣 長の態度ほ、さらに 堀 下げてみると、折衷 主義を嫌 う 彼の立場一般と相通ずるものと思わ れる。儒仏者 も ﹁神の道の枝道﹂として容認するということは、 それらをすべて野放しに採り入れ都合 よ く組合 せることでは全くな かった。 官 長によれば、先ず第一に大切なことは 、﹁道の大本﹂をしっかり れ きまえ、﹁やまと 魂 ﹂を堅く抱くことで あった。政治については、﹁ かへす が へ すも 道 の 大本の所を士 蔓 として末々の細事までもこれに 背かざるや ぅ を 詮と して何事をもとり 行ふ べ き ことなり﹂︵ 1 4 ︶ ︵秘本 玉く しげ 、傍点筆者︶と言い、また学問に関しても 次のように論じてい
たる物にして、神の御 輿 をも、佛の説をも、 儒 の 言をも、己が心の如くに説なしがたぎところを ぱ 、みな方便 ぞ 暇説ぞ 表事ぞなどか ひ なして、ひたぶるに思ふ まム に 説 たるは 、 佛の道にもあらず、儒の道にも あらず、まして 神の道にあらざることは、さらにもいはず、 た ビ おのがわたくしの 新 ばりの道なるを、神道とし も名づ け たる ︵ 皿 ︶ ︵ 玉 かつま、﹁両部神道﹂︶ 官長が一方で後世のしきたり、﹁時世のなら ひ ﹂ を 保持、尊重しながら、しかも他方﹁ 古と後 ﹂ の一 1 混雑﹂、神儒仏 の 無差別の抱合を大いに嫌ったという事を考慮す るならば、彼の遺言の意味がさらに明らかにな るであろう。我々は 室長が樹敵手における葬式と妙楽 手 での埋葬 と の間に、 裁然 とした一線を画しているのを見出す ﹁ 油 漫ミ 目 ま日﹂に よ れ ば 、掛数 手 では先祖代々伝わる家の宗旨浄土宗 の 慣例に従って式が行なわれ、葬列も宣長生前の 社会的地位を思わせ る 重々しいものであったが、 彼 その人はそこには 不在であった。それは文字通り﹁宅送﹂であっ た 。この表向きの 芽
儀
葬列は、第一義的には家や社会のしきたり のため、伝統的制度的な価値を表面上やぶらない がために執り行なわ れるようなものであった。これも官長の包容的 な 思想的立場に関連する事は上に見た通りである 掛数 手 に向 ぅ 乗物の最も肝心な中味であるべき貫長自身はと いえば、既に夜中密かに、ほんの ニ、 三の親しき 人々に送られて、 山 室 の 岡 なる﹁千代のすみか﹂に赴くことになっ ていた。念仏もなく、格式ばった行列もなかった が 、しかしそこには 両部神道、垂加神通なと神仏習合あるいは神 儒 抱合の神 通 に対してなした貫長の烈しい批判も 、 この﹁混雑﹂をきら 3 基本的態度に 塞 いている。 ことに 此 両部神道といふ物は 、たゴ 己が心を主人 とし、神と聖人とを、奴僕として、心にまかせ て 、かりつか ひ べし、古意と後世 意と 漢意とを、 よ く ゎ きま ふる こと、 古 甲の肝要なり @ ︵ 3-@ ︵ ぅひ山 ふみ、傍点筆者 にもあらず、古の道をあぎらむ る 等間にも、 此わ きまへなくては、おばえず後世 煮 にも漢意にも 、落入 ル こと 有 ㎎本居宣長の遺言について 註
15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1
同上、一二八頁。 増補本居宣長全集︵以下、増 全と 略す︶、第九巻、八 0 三七九頁所収。 例えば、小林秀雄﹁本居宣長﹂、新潮六二巻六号︵昭和 四 0 年 六月︶より連載。 村岡典嗣﹁鈴屋 曲響 その 二 ﹂、岩波刊本居宣長全集月報 第五号、昭和十九年、一頁。 本居宣長稿本全集︵以下、 稿全と 略す︶、第二巻、四九 貝 参照。 増 金九、七八五頁。 増全 、首巻、写真版第二十一﹁ 宣長 六十一歳自書目 讃 村岡、前掲 書 、一頁。 村岡、本居宣長︵増訂Ⅰ昭和三年、五一四頁等参照。 ﹁家のむかし 物ポ沖 ﹂、 増 金丸、 セ 八二七八六頁。﹁別本 家の昔物語﹂ 増全 十、七 セハ z 九頁。 稿全 Ⅰ五頁 、苦参照。 中でも 道 休の寄せた﹁十夜祠堂﹂は、祠堂何百 両 であ った 。︵ 増全 十、 セセ 八頁 じ 稿 全一、一 セ Z 一八頁及び二五 z 二七頁参照。 増全 十、 セセ 九頁。 ﹁本居大人死去前後日記 丼勢筑 両地 掛 合書 文 ﹂、笛方 清 美 、本居宣長の研究、昭和十九年、二八一 ! 二頁参照 増 全人、一 0 頁 。 同上、一二六頁。 わば最終的結晶を見ることができると思 う 。 の中に 、 我々は、さまざまなものを広く包容しな がら、しかも内的純粋性を堅持しょうとした 宣 長の思想態度の 、い るであろう。松坂奉行筋の指図は、むしろこのみ 尺長の内面を理解せぬ者の仕草であったとも 言,え る 。 油退 「 一 "
幸
」
1@
通
がこもっていたのである。 一見風変りに見える 官 長のせ 程言も 、以上のように 見てくると、彼の思想と心理に深く根ざしたも のであることが 分 まぎれもない官長の実体があった。 ﹁ちとせの春の宿しめて風にしられぬ花をこそ 見 ﹂んとする、官長の私的な実情︵㎎︶同上、一 0? 一一頁。 ︵ tf ︶ 増全 十、一一四頁。本居大平﹁玉鉾百首 解 ﹂︵ 本 居春庭 、本居大平全集所収︶に拠って、ひらがな 書 ぎにした。以下も︶ 同じ。 ︵Ⅸ︶ 増 金人、四三八頁。 ︵㎎︶﹁直毘 霜 ﹂、 増 全一、 - 八五頁。
片の臼で︵自己についての一貫した意識︶とも説明さ れている 0 この 二区の コ ︵ @ ︵︶ , ・という語に、重要な心理学的用語としての 位置を与えたのは、アメリカの精神分析軍者 ニリク ソソ ︵ 由 ヱマ 出 ・ キ 守の 0 口 ︶である。とくにのま 匡ゴ 。 筈ドコ 年の on ぽ目 、 之 の 毛べ 0 ︵ オ @ 之 0 ︵∼ 0 ダ ︵のせ・の & : トっ のの・ w 汁コ ︵ ぎ日 p コ 年計 オ 。Ⅰ目の の嶌喬 ,之の毛 せ 0q ガ ニコ 汀ペコハ ︵ ざ 二 % 己三セの ︵ れモ ㌧おお・ ト ののの・ ぺ 。目的 呂目 Ⅰ 宙 ︵すの r 。 Z 。 ヱ 。 ダ ︶ののの・等参照。 ︵ れ ︶奥山宇七編、本居宣長倉書簡 集 、四頁。 ︵ 羽 ︶ 増全 、首巻、写真版第十五﹁貫長四十四歳自書 自讃の肖像﹂。 ︵ お ︶とくに寛政十二年、死去の前年の秋には、桜の 歌 ばかり三百首も詠み、これを﹁まくらの 出 し一巻と した。 増 金九、七 五三 Z 七六二頁所収。念のため付言すると、桜花はし ば しばその散り際の美しさということから評価され、 ﹁日本 魂 ﹂ にも結びつけられてぎたが、官長の場合は異っていた 。彼はむしろ桜の散るのを 惜み 悲しみ、そのいつまで も味匂いつ つけることを願った。 ︵ れ ︶﹁鈴屋集﹂ 八 、増金九、 セ 三一頁。また、同じ 頃 にできた﹁まくらの 山 ﹂に次のような歌がある。﹁ か 千世も見てしかな櫻もちらす我もしなすて﹂﹁櫻には 心 もとめて後の世の花の う てなを 慰ふ おろかさ﹂﹁人は 死なすて綾花千世もやちよも 見 むとこそ思へ﹂﹁とこと はに 絶せす さけよ櫻花我も萬伏 しな て 見る へし ﹂ 増 金九、 セ五 七頁。 ︵ 篆 ︶柳田国男 編 、葬送習俗語彙、昭和十二年。大間 知 篤 二 ﹁両墓制についてⅡ宗教研究一二七号所収。 堀 一郎、民間信仰、 昭和二十六年、二一 セ ? 二三 0 頁 、 等 参照。 宛 ︶﹁くずばな円墳 全 五、四六 0 百 ㍉ ︵㌘︶ 増 全人、一一八頁。 ︵ 為 ︶同上、一二九頁。
本居宣長 一 @ 一戸 ︵ 何 ︶ 増 金人、一 0 九頁。 由 @ 耶 ︵一九六七年九月︶ ほ ついて
43@ 42@ 41@ 40 39@ 38@ 37
36 35 34 33 32 31 30 29
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充実行としての 自然法爾 親驚 はその九十年の生涯の最後に書き残した﹁ 自然法爾 章ヒ のなかで、もはや聖道・浄土、自力 ・他力等の煩 瑛 な 分別を表にあらぬさず、淡々と自然の法界を説 いた。仏道美修の念仏 行も 、ここでは無上程 葉に 無為縁起する行法に 帰着する。無上 程葉は 一切の色相を離れたるが ゆえに自然であり、かかる無為の自然については もはや通途の義はた たず、 無 義の義がいわれるのみであるが、そこに なお形而上学的義の生ずるを 遮 せんがための 如 く 、仏智不思議の丑 ロ を 以て終りが結ばれた。﹁無上淫楽﹂といい﹁ 無義 の 義 ﹂といい﹁仏智不思議﹂といい、これら はいずれも大乗至極 の 妙境をいわんとするための言葉であろう。この 点よ りみれば、自然法爾の思想は、親鸞がその 求道の歩みの最後に ゆきついた 法 そのものの世界の表現であること も 確かであろう。 しかしながら、自然法爾の思想にたいする今日 的 課題は、それを結果的にみて 法 そのものの普遍 的 意義から 演縄的 に 理解していくことにあるのではなく、 浬磐に無 為 縁起する行法がさらに行者の実 修 的な行と相 即する主体的な過程 をそこに見出すことにあるといえる。この過程 を 内に包むとみられる 実 修行の結実が自然法爾の 世界である。聖道・㈹ 浄土、自力・他力等の実 修 上の判別を超えた 無 上程磐の妙境においては、行者はただ法の自然な るに従って 、普 ねく 盤
遠山調度
充実行としての
自然法爾
流行する行法に乗托するのみであろう。これが 実 修行としては﹁ただ念仏﹂である。しかし、 こ の場合も念仏 行は、 すでに﹁弥陀仏 ノ御チヵヒ ﹂として信楽された 主体的な行である。この点を看過するとき、自然 なるべき行法そのも のが宇宙理法的なものに客体化される危険を字 む こととなる。 末燈妙 ﹁自然法爾 事 ﹂のなかの﹁ コ ソ法ノ徳ノユヘ二 シカラシム トイ フナ リ 、スベ テ人ノ ハジメ テ ハカ ラハザル ナリ﹂という文章が三帖和讃末尾の絶 筆で 削除されている のは、恰もこのことを裏付けているかのよ う であ る 。そこではまだ、法の目 然 が人との対立にお い てあらわされて ぃ る ぎらいがある。然るに﹁歎異 抄 ﹂の伝える如く ﹁弥陀 ノ 五劫思惟 ノ願ヲコ ク ヨク案 ズレ バ、 ヒトヘ 二親鸞一人 ガ タメナリ ケリ﹂というのが﹁聖人 ノツ子ノオホセ ﹂であった。かく親鸞一人のためとして信愛さ ね 、主体的の行とな りきった本願念仏の行をい う とき、﹁ 法ノ徳ノ ュヘニ シカラシム﹂という表現はまだよそよそし までも弥陀の本願を信愛する主体的な他力・ 浄 土門的行信が一貫しているのであり、自然法爾 と いうこともむしろか かる行信の充実の現成せしむるところというべき であろう。 勿論、自然法爾の如き非固定的,流動的な思想 を本願念仏の行信の立場一つに帰してみることに は、 つねに種々の 誤解が伴 う であろう。自然法爾の思想は教・ 行 ・ モ ・ 証 いずれの立場からみるも、それ相応の 一 貫 した整合的解釈が 成立しさるはずの全一酌体験の表現である。 こ の 全一酌体験の包括性のゆえに、自然法爾の表現 が証 ・具体 士 的色調 を 濃くしていることは既に見てぎた通りである。 自然法爾をかかる 証 ・ 真 仏土的な法そのもの の 立場よりみること は 、それを 行 ・信の立場よりみるよりも確かに 整 合 的な解釈となるかもしれない。真実証は大乗 淫楽思想の本質から しても当然還相利他の行・信を生ずべきものであ り 、ここになお 行 ・信をいうことは、反って 自 無 法爾的に成ずる 大 行天 信を 周公して固定化させる危険を招く結果 となるとも考えられるであろう。 しかしながら、真実の証は還相利他の大行人偏 を生ずる無上 浬 盤の証果たるとともに、他方あく までも行信の証で (1 ぬ ) 24.
摘 ずることは、かえって真宰信の内面的本質 せ 失せしめることとなるであろう。信の微妙な 働 ぎは行信次第においては ぬ じめて他に代 え 難 いカ を発揮し、行を活殺す るものともなるのである。
第 によって充実せられた主体的な行、即ち念仏 行の現成する世界であ
卸る
。かかる 実 修行としての念仏の行と有為法 としての 待 とは全く異った概念ではあるが、 行 じていることがそのまま㏄ 頒行ぜしめられて行じている自然法繭の念仏 行 は 、大乗無為法に相即してここに一つの生きた 脈絡を見出しているものお 行 自体の充実である。 信 といえどもこの行を満 すものではなく、むしろ 行 自体の充実に帰入せし めるのが信の内面的 な働 ぎである。この信の内面性が行に対して 微 妙な意義をもつことはい う までもないが、しかし これを行と同等に論 せらるべきものではない。 法 そのものがその流動 的 本質からおのずと発動した相が行であり、 そ の 充実はどこまでも 宿次第においては信は行の充実に外ならない。 , ﹂の行はもとより信を予想する行ではなく、また 能所の別をもって論 る べ き ものであることは 今 述べた如くである。 し かし、ここにまた更に 、行| 信の次第が考え ろ れねばならない。 行 自然法爾が無上の証果をあられすとしても、 そ の証果はっねに主体的な行信の証として、行信 仁 よって充実現成さ 的に理解されたに過ぎない。そこから教行信証 の 立場の特異性と現実性はでてこないのである。 行信は教行信証の立 場を支える現実的根拠であり、この点よりみれ ば 、真実証はあくまで行信の証である。 る 。この次第を無視するならば、教行信証はたと え 如何に整合的に規定されても、単に大乗思想 一般の立場から 演縄 て 現成するものである以上、絶対に異質的・不可 逆 的な面をももたねばならない。これが 教 1行 信| 証の次第といえ することを意味するならば、 己 証を生む其の往 相の意味もまた失われるであろう。往相は主体的 な行者の行信を通じ じて現成する往相回向の証である。 往 ・還の関 係 にもまた相即の理があるが、その相即が単にそ れらを論理的に媒介 ある。ここから親鸞一人という 己 証の立場も生 ずる。即ち、真実の証はここにおいて、念仏行者 の 主体的な行信を通親鸞が人生の指針とした他力・浄土門的依拠は ﹁自力のはからいをすててただ念仏する﹂という ことであった。 自 力 のはから ぃ をすてるとは先ず一切の人為的作 為を否定することとなるが、しかしこれが直ちに 自然法爾とならない のは、多くの場合、作為を否定するものがまた 作 為 であるからである。この場合自然は、それが 動物的傾向性を意味 するものであろうと、或いは宇宙理法的な法則 であろうと、すべてはからいな ぎ ものと考えられ たものに過ぎない。 かかる孝ぇのなかにある自然はすでにはからわれ た 自然である。この ょう な作為に対する否定と して新たに無作為的 なものを想定すること自体が作為であってみれば 、 真に自然なることは作為の否定から出てくる のではなく、本来 無 ︵・Ⅰ @ 作為なものからくるのである。この意味におけ る 自然は﹁無為自然﹂と称せられるが、自然法爾 というのはこの本来 無為なるもの、はからえぬものがはからいをす て しめる力用をあられすところに成るのである。 ここから自然は﹁ モ トョリ シカラシム﹂という、いわゆる自然状態を 護ろうとする﹁自然主義﹂のす 荘 ra コの日拐 ︶ の 自然とは一致しがた い 釈が生じてくることとなる。また他方、無為 自 無性単なる理法的必然として 舌知 さるべきもの に上らず、 -2 ︶そのしか 仁、 らしむる 働 ぎは仏の木願力として主体的にふれ られたものでなければならない。そこには﹁弥陀 仏ノ御チカヒノ、モ トヨリ 行者 ノ ハカ ラヒ ニアラ ズシテ 、南無阿弥陀 仏トタノマセタマヒ テム 力 ヘントハ カラハセタ マヒ タルニ ョリテ、 行者 ノョ カラントモアシカラントモオモハ スヲ 自然 トハ マフス ゾ トキ ヘテ サフラフ﹂という絶対 聞 信の立場あるのみ である。ここにおいてはじめて念仏 行は 、してい ることがそのまませしめられてしている自然法 繭的 行となるのであ り 、この解明は先ず、宗教的自由の本質をめぐる 問題に一つの光を投げるであろう。 次に、自力のはからいを破る自然には、かの 願 力 0 目 然 なるとは一見全く異ったかのようにみえ る 今一つの面が考 えられる。この場合自然は 、 先ず一切の盗 意を 打破する冷厳な因果理法そのものである。しかし 、この場合の自然の (126) ではなかろうか 0 ここから、この思想が今日の精 神 問題に対して有する幾つかの意義もまた明ら かになるであろう。 26
一 一 " く t2 , - 行 殻 通常﹁自然法
繭喜と
称せられている文章 は 、三帖和讃の終りのところに﹁親鸞八十八才 御筆 ﹂として附せられて 舘最もぎびしい意味は、それが一切の人為的作為
を畢寛
無意味・無価値・無目的なものとしてあら
わにする点にある。
文明文化などもそれが人為的作為なる限り、
所
詮
はただあるようにあり、なるようになったとい
ぅ
単なる一つの出来
事
に過ぎない。如何に無意味・無目的であろう
とも、一切の作為そのものが無意味・無目的なる
限り、誰もその現実
からのがれることはできないのである。かく一切
の
作為がことごとく因果連鎖のなかに徹底的に
束縛されていること
を
﹁ 業駐
月目
殊ビ
というのである。︵
3 ︶﹁願力自然﹂の
弥陀の本願は、かかる不可逃避的で絶望的な事
態
に光明と充実を与
ぅ
べ
き
ものであり、願力
め
美道に相即不離なる
ほい
う
までもないが、しかしこれは願力
め
側から
のみでは理解が空転
する。美道自然の側
よ
りみれば、この充実は何
等
かの意味で業の克服されるところに与えらる
べ
ぎ
ものである。然る
にまた、業の克服とはなる
よう
にしかならない事
実に従
い
ゆくこと以外にないのであるから、
業
の忍頓
という一見
消
磁的な事態が如何にして充実した願力自然の働
ぎを展開する積極性を蔵するかとい
5
点に、なお
現実的な疑念を残す
こととなろ
う
。これは
無義
のただ念仏が如何にし
てそのまま無上の大義を発露するかを問
う
と等
しく、やはり行の充
実
過程から理解されねばならない。かくて
美
道
・願力
め
相即はその論理的空転を脱し、ニヒリズ
ふめ
超克という近代
い 。名号すなわち獲得であって、これは後段の自 然釈 にあらぬされる﹁自然 トハ ⋮⋮ キ、テ サ ブ ラフ﹂という絶対 聞 信の立場からみて、始めて真に内容あるものと なるのである。 獲得名号 釈と 同様に﹁自然 トハ ⋮⋮シルベキナ リ ﹂という前段の自然 釈 もまた、後段の絶対間宿 の 立場にたり自然 敵 によって 、 始めて真に意味ある 釈 となる。 前 段の自然 釈 においても、﹁自然﹂と﹁法爾﹂の 二 語 についての釈を比 較 してみると、前者が﹁ オ ノブカランカラシム ル ﹂という理法的自然と﹁行者 ノハカラヒ ニアラ ズ ﹂というはからい の 否定との対立を感ぜしめるような表現であるに 対して、後者は﹁法爾トイ ブハ 如来 ノ御チカヒ テ ル ガユヘニ シカ ラ の 体験告白たることはいさまでもなく、その内容 が 理解されなければ奇妙な文字の解釈たるに 止 るのである。しかし、 この場合更に重要なことは、たとえ表白の内容が 理解されても、その理解が概念的な理解に止り 体験的共鳴を伴わな い 限り、釈の真意義はやはりあらわれてこないで あろうということである。例えば、獲得名号の 釈は ﹁ 獲 ﹂と﹁ 得 ﹂ 0 字に い わかる﹁衆生往生の因果﹂をあらわし、 ﹁ 名 ﹂と﹁ 号 ﹂の字に﹁弥陀成仏の因果﹂をあ らわしたものとみて、 それらの相即不離なる関係を考えれば、成程 意 味 ある内容が理解されたこととなろ う が、しかし ただそれだげなら 煩 わし い 字釈など必要とせず、概念的理解のみで 足りるのである。獲得名号 釈は 、むしろそういう 衆生往生の因果と 弥 陀 成仏の因果との論理的に相即する関係の主体 的な受け入れの上になる獲得せられた名号の表白 でなければならな -4 ︶ の 和讃という六区分をとるのが適切であろう。 獲 侍名号釈及び前段の自然 釈 はいずれも文字の解 釈 にことよせた親鸞 いるもののことであるが、この文章はすでに八十 六才のときに書かれたとされる﹁自然法爾 事 L ︵ 末燈砂 ︶の冒頭に ﹁獲得名号﹂の釈を加え、更に末尾に二百の和讃 を 加えてまとめられている。色々の見方がで き ると思 うが 、上記の 問題意識の観点 よ りすれば、先ず﹁獲得名号﹂の 釈 、吹に﹁自然トイ ブハ ⋮⋮シルベキナ り ﹂と いう前段の自然 釈 、 次に﹁自然トイ ブハ ・・・: 卓、テ サフラフ﹂とい 5 後段の自然 釈 、及び﹁無上程 磐 ﹂の 釈 、 結誠 、 それから末尾の二官 (128) 28
シム ルヲ 浅瀬トイフ﹂となり、﹁如来 ノ御チカヒ ﹂を信楽する立場を予想させる表現となって い る 点に 、 些かの相違 が 感じられる。しかし、この 秋 自体はやはり 主 体 的な信楽の立場、即ち 聞 信の立場ではなく、﹁ コ ソユヘニ 他力二八 義テ キ ヲ義 トストシルベキナ り ﹂とあるように、 無 義の義を信 知 する立場といえる。この信節 さ 概念知を超えた如何 に 高次の宗教的叡智とするとしても、この立場 からのみ見られた自然は、所詮一つの客体として 計らわれた自然にす ぎない。 義 なきを義とすという 信 知は真に 義な きを義とするもの、即ち無上仙のはから ぃ を絶対 否定する働きにあっ て ﹁仏智不思議﹂を感ずるとき、始めて生ずる ものである。 こうして﹁自然トイ ブ ハモト ョリ シカラシム ルト イフコトバナリ﹂という後段の自然 釈が 、前段 の 自然釈を方便と して意味あらしむる真に主体的な自然 釈 として あらわれる。﹁モト ョリ シカラシム ル ﹂とは本来 的にしからしむる と いうことであるから、この自然釈の立場は法性 法 身の立場といえる 0 そして﹁チカ ヒノヤウ ハ熊 上 佑二ナラシメ ソト チカヒタマ ヘル ナり 。無上仙トマフス ハカタチモ ナ クマシマス 0 カタチモマ シマ サヌユヘ二 自然 トハ マフスナリ。 カ タチマ シマストシメストキハ無上淫薬 トハ マフ サ ズ 0 カタチモマ シマ サヌヤウヲ シラセント テ、 ハジメ 二 弥陀仏 トゾ キ、ナラヒテ サフラフ。弥陀仏 ハ 自然 ノヤウヲシ ラセンレウナ り ﹂とつづく無上程葉の釈は 、法 陣法身が方便法身を はじめて方便法身たらしめることを示す。方便法 身の誓願を信楽せしめるのは、全く法性法身の 力 用というべきであ 翻る。これはただ 聞 信の立場において主体的に のみ 受 取られる。法性法身の働きにふれること なくして如何に弥陀の本